
炎の記憶、裏切り夫を捨てる
章 3
佐藤瑞希 POV:
子供のバレエの先生からのメッセージには, 簡潔に「大変申し訳ございませんが, 今回の受講はキャンセルとなりました」と書かれていた. 子供の顔から, みるみるうちに笑顔が消え, ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていく.
「ママ, 私, 頑張ったのに... 」
その言葉が, 私の胸を深くえぐった. このバレエ教室は, 子供が幼い頃から夢見ていた場所だった. 指導する先生は世界的にも有名な方で, その厳しさから生徒を簡単に受け入れることはない. 私は子供のために, 何ヶ月も前から先生に手紙を書き, デモンストレーションビデオを送り続け, やっとのことで受講の機会を勝ち取ったのだ.
前世では, このバレエの席を奪われたことで, 子供は深く傷つき, 数日間何も口にしないほど落ち込んだ. あの時, 私は離婚を渋っていた. 古川一が「千絵を傷つけたくない. 彼女は恩人の娘だから」と私に懇願したからだ. その結果, 私は子供の夢と心を犠牲にしたのだ. そして, それが子供と私の悲劇の序章だった.
「どうして, どうしてこんなことに... 」子供は泣きじゃくりながら, 私に抱きついてきた.
私の脳裏に, 前世の記憶が蘇る. あの時も, 古川一は千絵の肩を持った. 千絵は「千景もバレエを習いたがっていたから」と, 何の悪びれもなく言ったのだ. その言葉は, 私の心を深く切り裂いた.
今世の私は, すでに古川一と離婚することを決めている. なのに, なぜまた同じようなことが起こるのか. 私の心は重く, 絶望感が胸にのしかかった.
「大丈夫よ, ママがなんとかするから」私は子供を抱き締め, 震える声で言った. だが, その言葉は, 自分自身に言い聞かせているようだった.
私はすぐに古川一に電話をかけた. しかし, コール音は虚しく鳴り続けるだけで, 彼は電話に出ない. やはり, そうきたか. あの男は, 面倒なことからは常に逃げ出す.
仕方なく, 私は千絵のSNSアカウントを開いた. そこには, 私が予想した通りの投稿があった.
「千景, 念願のバレエ教室デビュー! 〇〇先生のレッスンに合格しました! これもパパ (一) のおかげね♡」
満面の笑みを浮かべた千絵と, 得意げにポーズを取る千景の写真がアップされていた. コメント欄には, 「おめでとう! 」「すごい才能! 」といった賛辞が並ぶ. その隣に, 私の子供の泣き顔がフラッシュバックする. この残酷なコントラストは, 私の怒りをさらに燃え上がらせた.
「許さない... 」私は震える声で呟いた.
私は子供の手を引いて, バレエ教室の先生の自宅へと向かった. 先生は自宅で個人レッスンを行っている. きっと今なら会えるはずだ.
先生の自宅の前に着くと, 見たことがある車が停まっていた. 古川一の車だ. 私は警戒しながら, 子供の手を握りしめた.
玄関のチャイムを押す前に, ドアが開いた. 中から出てきたのは, 古川一だった. 彼は私と子供を見ると, 顔をしかめた.
「瑞希, なぜここに? 何か揉め事を起こしに来たのか? 」
彼の声は, 私を非難する色を帯びていた. 私が何か不当なことをしているかのように.
「揉め事じゃないわ. 子供のバレエの件で, 先生にお話しに来たの」私の声は冷静だったが, 胸の内では怒りが渦巻いていた.
その時, 古川一の後ろから千景が顔を出した. 私の子供の顔を見て, 得意げに笑った. 「ねえ, あなたもバレエ習いたかったの? 私は先生に選ばれたのよ! 」
私の子供は, 千景の言葉に顔を真っ赤にした. 「それは私の席だったの! ママが頑張ってくれた席なの! 」
古川一は, 千景を庇うように前に出た. 「千景に何を言わせるんだ, 瑞希! 子供をけしかけるなんて, なんて母親なんだ! 」
「けしかけているのはあなたたちでしょう! 」私は声を荒げた. 子供の純粋な夢を踏みにじったのは, 彼らだ.
「そんなことはない! 千景は先生に気に入られたんだ. 実力で勝ち取ったんだよ! 」古川一は目を逸らしながら言った. その言葉には, 嘘が混じっていることが私には分かった.
子供は, 必死に古川一に訴えかけた. 「嘘つき! パパの知り合いが, 私の席を奪ったって言ってた! 私のママが, ずっと頑張ってくれたのに! 」
古川一の表情が, 一瞬固まった. だが, すぐに彼は怒鳴りつけた. 「何を言っているんだ! 君はそんな子じゃなかったはずだ! 嘘つきは誰だ! 」
彼の怒声に, 私の子供は怯えて縮こまった. その小さな体からは, 震えが伝わってくる.
「やめてください! 」私は古川一に言った. 「子供に八つ当たりしないで! 何が恩返しですか? あなたが千絵の父親に恩返ししたいなら, 私と子供の夢を踏みにじる必要があるの? ! 」
私は, 古川一の目を見据えた. 私の目には, 怒りと絶望が混じっていた.
「私はこれまで, あなたのために, この子のために, どれだけ尽くしてきたか... 」
私の声が, 少し震えた. 古川一は, 私の言葉に一瞬たじろいだ. 私は, これまでの人生で, 彼にこんな風に懇願したことはなかったからだ.
「お願いだから, この子の夢を奪わないで. このバレエの席は, この子にとって, 本当に大切なものなの」
私の言葉に, 古川一は少しだけ躊躇したように見えた. だが, 彼の後ろから, 千絵の小さな声が聞こえた. 「一さん, どうしたの? 何かあったの? 」
その声が聞こえた瞬間, 古川一の表情が再び冷酷なものに変わった. 彼は私に背を向け, 千絵の方を向いた.
「瑞希, もういい加減にしろ. お前はもう俺の妻じゃない. 勝手にしろ! 」
その言葉とともに, 古川一は私の腕を掴み, 無理やり車へと押し込んだ. 子供は泣きながら「ママ! ママ! 」と叫ぶ. 私は必死に抵抗したが, 彼の力には及ばなかった.
「離して! 一! 子供を一人にしないで! 」
古川一は, 私の叫びを無視した. 彼は私を車に乗せると, 運転席に乗り込んだ.
「俺は千絵と千景を守らなければならないんだ. お前はもう, 俺の家族じゃない」
冷たい言葉が, 私の心臓を凍らせた. 車が発進する. 私は, 窓の外で泣き叫ぶ子供の姿を見つめた. 千絵と千景が, 得意げに笑っているのが見えた.
私は, 全身の力が抜けていくのを感じた. 私の顔には, 絶望の涙が溢れていた. 古川一は, 私をバレエ教室の先生の家から遠く離れた場所で降ろし, そのまま去っていった. 私が先生の家に戻った時には, すでにレッスンは終わっていた. 先生も, 「残念ですが, もう決まってしまいました」と, 申し訳なさそうに言うだけだった.
私は, その場に崩れ落ちた. 私の子供は, 私を見上げて, 涙を流していた.
その時, 千絵と千景が私の目の前に現れた. 千絵は, 得意げな顔で私を見下ろした. 「あら, 瑞希さん, まだいたの? あなたの子には, 才能がないってことかしらね? 」
千景は, 私の子供に向かって舌を出した. 「バカ! 泣いてるの? 弱い子ね! 」
私の心の中で, 何かが音を立てて弾け飛んだ.
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