前任に譲った妻、今や最強の伝説に の小説カバー

前任に譲った妻、今や最強の伝説に

8.7 / 10.0
結婚生活が2年を数えたある日、夫はあまりに冷酷な言葉を突きつけた。「彼女が戻ってきたんだ。別れてほしい。条件はそちらの望み通りにする」という。かつての恋人が一度涙を見せただけで、積み上げてきた夫婦の歳月はあっけなく崩れ去った。まさに「前妻の再会は、今の妻の敗北」を体現するような展開だった。しかし、裏切られた妻は、夫が予想したような悲嘆に暮れる姿は見せなかった。彼女は取り乱すことなく、静かに、そして淡々と離婚の対価を要求し始める。「あなたの所有する中で最も高価なスーパーカーを譲って」「いいだろう」「郊外にあるあの別荘も」「分かった」と、夫は二つ返事で承諾していく。ところが、最後に彼女が突きつけた「この2年間の婚姻期間中にあなたが稼ぎ出した数十億の資産を、正確に折半すること」という条件を聞いた瞬間、夫は言葉を失い、困惑の色を隠せなくなる。正体を隠し、賢者の如く振る舞う彼女の真の狙いとは。愛を捨て去り、莫大な富を手に再出発を図る元妻と、やがて後悔に突き落とされる夫。離婚から始まる衝撃の逆転劇が、今幕を開ける。

前任に譲った妻、今や最強の伝説に 第1章

川市、夜。帝王苑と呼ばれる高級住宅街。

広々と明るいリビングに、二人の男女が向かい合って座っている。テーブルに置かれているのは、一枚の離婚協議書。男はアイロンの行き届いたスーツに身を包み、その完璧な顔立ちは冷淡な表情を浮かべていた。全身から放たれる強烈な圧迫感が、部屋の空気を支配している。

彼の冷ややかな視線が、向かいに座る黙したままの女に向けられる。その瞳の色は、外の夜闇のように深い。

「月曜に離婚する」 桜庭海が、​​疑いを挟む余地もない口調で​​言い放った。声は低く、​​冷たい​​。「離婚協議書に書いてある補償以外に、何か要求があれば​​言いなさい​​」

「……どうして、そんなに急ぐの」遠坂希の声は、いつもより​​ずっと低く、沈んでいた​​。

桜庭海は、ただ一言で答えた。「華ヶ原佳苑が、戻ってきた」

華ヶ原佳苑。希は知っていた。短い沈黙の後、彼女は静かに頷いた。「……わかった」

そのあっさりとした返事に、桜庭海は僅かに虚を突かれたようだった。

彼女がこれほど潔く受け入れるとは、予想していなかったらしい。

希は離婚協議書に目を落とす。そこにびっしりと並んだ文字を見ていると、桜庭海と出会った頃の記憶が脳裏に蘇った。

二年前、彼らは川市のナイトクラブ『宵闇』で出会った。悩み事を抱えていた​​彼女は、失恋したばかりの桜庭海と​​出会った​​。何杯か酒を飲むうちに、​​旧知の仲のような気分になり​​、話は弾んだ。

ありきたりな一夜の関係はなく、酒を飲み終えると、互いに名残を惜しむこともなく別れた。

再会は、その夜から三日後のこと。桜庭海が秘書を伴って彼女の家を訪れ、唐突に結婚を申し込んできたのだ。

そして、彼女はそれを受け入れた。

結婚してからの彼は、確かに良き夫だった​​。細やかに気遣い、困ったことがあれば真っ先に助け、病気をすれば​​自ら薬を飲ませてくれた​​。​​シャンプー後には、進んでドライヤーを手伝ってくれた​​。二人の関係は、​​外から見れば申し分ないものだった​​。

――半年前、彼が一本の電話を受けるまでは。

あの日を境に、彼は変わってしまった。

彼女に対する態度は冷淡になり、かつての優しさは影も形もなくなった。

その日、希は初めて知った。桜庭海が自分と結婚した理由、​​あの優しさの全てが​​、自分が彼の​​理想の女性​​である佳苑と​​少し顔が似ているから​​に過ぎないのだと。

過去の記憶を振り払うように、希は唇をきつく結び、淡々とした声で桜庭海に問いかけた。「さっき、補償についてはこちらから提案してもいいと言ったわね」

「ああ」 桜庭海は短く応じる。

「どんなことでも?」 希が​​顔を上げて彼を見る​​。その​​整った顔立ち​​からは、いつもの​​活気が消えていた​​。

その眼差しに射抜かれ、桜庭海の胸に微かな罪悪感が芽生える。「……ああ」

彼は心づもりをしていた。

彼女が提示する要求が法外なものでない限り、できる限り応じるつもりだった。

この二年、彼女が自分によく尽くしてくれたのは事実なのだから。

「それなら、あなたのガレージにある一番高価なスーパーカーが欲しいわ」

「いいだろう」

「郊外の別荘も一軒」

「わかった」

「​​それと、結婚してからの2年間であなたが稼いだお金は折半しましょう​​」

その言葉を聞いた瞬間、それまで表情一つ変えなかった桜庭海の瞳が、初めて揺らいだ。

聞き間違いかと思った彼は、薄い唇を開く。「……今、何と言った?」

「​​婚姻中の収入は夫婦の共有財産でしょ​​。あなたの投資や資産運用を除く、この2年間の​​給料と会社の利益配当だけで、数十億円はあるわ​​」 希の口調は真剣そのもので、冗談を言っている気配は微塵もない。「多くは望まない。その四割を慰謝料として頂戴」

桜庭海:「………は?」

希はさらに言葉を続ける。「もちろん、私の収入からも四割をあなたに渡すわ」

「遠坂希ッ!」桜庭海が、ついに怒りを露わにした。

先程までの罪悪感は、どこの気の迷いだったのか。これまで、彼女がこれほど金に執着する女だとは気づかなかった。

希は彼を真っ直ぐに見つめ、真摯に問い返す。「ダメかしら?」

ダメに決まっている!

桜庭海は、考えるまでもなく心の中で否定した。

「​​ダメなら結構よ​​」希は手にしていたペンを置くと、静かに言い放った。「​​今度ご両親にお会いした時、あなたが結婚中に心で別の女性を想っていたことについて、相談させてもらうわ。きっと私の味方になってくださるでしょうから​​」

桜庭海の全身から放たれる気が、少しずつ冷え込んでいく。その視線は、もはや刃のようだ。

この女が、これほどの二面性を持っていたとは。これまでの聞き分けの良さは、すべて見せかけだったというのか。

「本気で、俺とそういう話がしたいのか?」

「ええ、本気よ」

希は一歩も引かず、彼の視線を受け止めた。

彼が脅迫を何よりも嫌うことなど知っている。だが、それがどうしたというのだ。自分だって、婚姻関係における裏切りが何よりも嫌いなのだから。

「……いいだろう」 桜庭海の瞳が、昏く沈んだ。「くれてやる。だが、もしこの離婚が滞るようなことがあれば……どうなるか、わかっているな」

「桜庭社長。それは脅迫かしら?」希は椅子の背にゆったりと身体を預ける。

白と黒のコントラストが鮮やかな瞳は、どこまでも真剣だった。

その姿は、桜庭海が今まで一度も見たことのないものだった。

この二年間、希は​​常に聞き分けが良く、おとなしく、優しい女だった​​。​​牙をむいて​​彼に対峙するようなことは、​​一度もなかった​​。

「……違う」 桜庭海は、すでに彼女を「処理」する算段を頭に巡らせていた。声は、氷のように冷たい。「家も車もくれてやる。月曜、必ず離婚しろ」

希はふと目を細め、ゆっくりと口を開いた。「もう一つ、お願いがあるの」

「言え」 桜庭海の忍耐が、刻一刻と削られていくのがわかった。

「明日、買い物に付き合ってほしいの」 彼の​​放つ冷たい空気など気にせず​​、希は続けた。「買い物が終わったら、​​一緒に実家に行くわ​​。​​ご両親には私から離婚するって伝える。『あなたのことがもう好きじゃなくなったから』って​​」

「……わかった」 桜庭海は、それを受け入れた。

話がまとまると、桜庭海はこの場に一秒でも長く留まりたくないというように、冷たい気を纏ったままリビングを後にした。

ここに来る前は、もし希が離婚の事実を受け入れ難いようなら、少し時間をかけて心の準備をさせてやろうとさえ考えていた。

だが、今となってはどうだ。

受け入れ難い、だと?

笑わせる。

彼女は一刻も早く離婚して、俺の財産を分捕ることしか考えていなかったではないか。

もし希が彼の​​考えを知ったら​​、きっと​​冷笑しただろう​​。「​​そんなちっぽけな金、私が欲しがると思う?​​」

ドアの前で、桜庭海は足を止めた。 「今夜は戻らん。明日の朝九時に、迎えに来る。行きたい場所は、事前にリストアップしておけ」

「華ヶ原佳苑に会いに行くの?」

「お前には関係ないことだ」

「​​浮気されるのはごめんね​​」​​関係が壊れた今、希も仮面を脱いだ​​。「離婚が​​完了するまで、彼女と寝ないでちょうだい​​」

桜庭海の表情が、険しく歪んだ。

彼は踵を返し、希の前まで戻ると、彼女を睥睨した。

しかし希は、その威圧に臆することなく言い返す。「あら、どうしたの。たった二日半も待てないのかしら?」

「お前が腹を立てているのはわかる。だが、そんな言葉で俺を煽るな」 意外にも、桜庭海は怒りを爆発させなかった。冷静に考えてみれば、もし自分が同じ仕打ちを受ければ、彼女以上に過激な反応を示したかもしれない。「俺たちはただ離婚するだけだ。敵同士になる必要はない」

希:「……」

どの口がそれを言うのか。

「早く休め」 その一言を置き土産に、桜庭海は今度こそ部屋を出て行った。

ドアが閉まる、その瞬間。

テーブルの上に静かに置かれた離婚協議書を前に、希はただ一人、長い時間立ち尽くしていた。

心が揺れなかったと言えば、嘘になる。

半年前、自分が身代わりに過ぎなかったと知ったあの瞬間から、彼女はずっと苦しんできたのだから。

桜庭海は、彼女の24年の人生で初めて好きになった男だった​​。​​あの電話の前までは​​、彼は​​無口なところ以外は​​完璧な夫で、​​我慢強く優しく、ほとんど心配をかけたことがなかった​​。

だから、​​彼の心に他人がいる​​と知った時の​​ショックは計り知れなかった​​。それでも彼女は離婚を切り出し、​​彼の理想の女性のところへ行くように言った​​。​​彼を解放してあげることが、自分にできる最後のことだと思ったから​​。

だが、あの時、桜庭海は離婚に同意しなかったのだ。

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