
七秒婚の悲劇: 裏切りの誓い
章 2
武山彩 POV:
暗闇の中を彷徨い, ようやく意識が浮上した. ここはどこだろう? 見慣れない天井, 嗅ぎ慣れない香木の匂い. 頭がずきずきと痛み, 昨夜の出来事が断片的に蘇る. ワインを煽り, 泣き叫んだこと. 誰かに抱きしめられたような温かい感触. そして, 差し出された一枚の紙切れ.
ベッドサイドの小さなテーブルに, 一枚のメモが置いてあった. 『ゆっくり休んでください. 』たったそれだけの言葉に, 私は安堵の息を漏らした. この状況で, 誰かが私を気遣ってくれている. それだけで, 心が少し軽くなった気がした.
スマートフォンの電源を入れると, 画面は通知の嵐だった. 黒木からの不在着信が数十件, メッセージも山のように届いていた. すべて無視して, 私は重い体を引きずって立ち上がった. 昨夜の記憶は曖昧だ. どうやってここに来たのかも思い出せない. ただ, あの家から逃げ出したかった, それだけだ.
自宅の玄関の扉を開けると, そこには憔悴しきった黒木が立っていた. 彼の顔には深い隈ができていて, 徹夜で私を探し回っていたことが伺える.
「彩, どこに行っていたんだ! 心配しただろう! 」
彼の声には, まるで心から私を案じているかのような響きがあった. 私が彼の会社の秘書室で働いていた時, 徹夜で仕事をしていても, こんな表情を見せることはなかった. 私の心は, 冷え切っていた.
リビングに入ると, 彼の書斎のドアが少し開いていた. ちらりと見えたパソコンの画面には, 私たちの結婚式の写真が壁紙として設定されている. あの時は, 本当に幸せだった. 彼の隣で微笑む私の顔は, 希望に満ち溢れていた. 今の私とは, 全く違う.
黒木の眼差しを真正面から受け止める. そこには, かつての純粋な愛情はもう見当たらない. 彼が今, 私を見つめる瞳の奥には, 不安と後悔, そして何かの計算が見え隠れしていた.
「ごめんなさい. 少し, 冷静になりたかったの. 」私は, 彼の質問に, まるで他人事のように答えた. 感情のない私の声を聞いて, 彼の顔に一瞬, 戸惑いの色が浮かんだ.
「そうか... . とにかく, 無事でよかった. 何か食べないか? 君のために, 朝食を準備させたんだ. 」
彼はそう言って, 私をダイニングテーブルに促した. テーブルには, 温かいオムレツと, 私の好きなエビのサラダが並んでいた. 彼は, 私のためにエビの殻を剥き始めた. 彼の指先が, 器用にエビの殻を剥がしていく. かつて, この優しさに, 私はどれほど救われてきただろうか.
「彩, 体調はどうだ? どこか悪いところはないか? 」彼の声には, やはり心配の色が滲んでいた.
「ええ, 大丈夫よ. 」私は, ごく短い返事をした.
彼は, 私の健康について, 今になって初めて気遣ってくれている. 私が彼を支えていた三年間, 私はストレスで何度も体調を崩し, 倒れる寸前まで働いていた. その度に, 彼は「無理をするな」とは言ったけれど, 具体的に何かをしてくれたことはなかった. 私の体調の変化に気づいたのは, いつも彼ではなく, 家政婦さんだった.
「お食事, 召し上がってくださいね. 彩様のために, 特別なメニューを考案しました. 」家政婦さんの声が, キッチンから聞こえてくる.
テーブルに, 小さな弁当箱が置かれた. 温かい湯気が立ち上っている. 黒木は, 私に微笑みかけた.
「さあ, 彩. 温かいうちに食べよう. 」
その時, 彼のスマートフォンが鳴った. 彼は画面をちらりと見て, すぐに私にキスをすると, 「会社に行ってくる」と告げた. 彼は急いで弁当箱を手に取り, 家を飛び出して行った.
彼が出て行った後, 私はゆっくりと台所へ向かった. コンロの上に置かれた鍋の蓋を開けて, 中を覗き込む. そこには, 大量のナッツ類が使われたシチューが残っていた. 私の体は, ナッツアレルギー. 深刻なアナフィラキシーショックを起こす可能性があるため, 黒木は「絶対に口にするな」と厳しく言いつけていたはずだ.
なぜ, こんなものが食卓に?
私の脳裏に, かつて黒木が「僕の妻は, ナッツアレルギーだから細心の注意を払ってくれ」と, 料理人に指示を出していた場面が蘇る. 彼の言葉は, 偽りだったのか?
私は, スマートフォンを取り出し, 隠し持っていた監視アプリを起動した. アプリは, 黒木のオフィスに設置された小型カメラの映像をリアルタイムで映し出す. 画面が一度, 途切れた後, すぐに再接続された.
彼のオフィスには, 心音の姿があった. 彼女は, 口元を膨らませて黒木に不満をぶつける.
「もう! いつまで私を隠し続けるの? 彩さんが家にいると, あなたと二人きりになれないじゃない! 」
黒木は, 心音の頬を優しく撫でた. そして, 私のためだと言って剥いてくれたエビを, 彼女の口元に運んだ. 心音は嬉しそうにそれを平らげた.
「もう少しの辛抱だ. 彩には気の毒だが, 僕のビジネスのためだ. 君も理解してくれ. 」
心音は, 満足そうに微笑むと, カメラのレンズを挑発的に見つめた. まるで, 私の存在を知っているかのように.
「彩さんには, もう邪魔させないわ. あなたを独り占めできる日が来るまで, 私は何でもする. 」
心音の言葉に, 黒木は優しく微笑み, 彼女を抱き寄せる.
「ああ, 心音. どうして君に, もっと早く出会えなかったんだろうな... . 」
彼の言葉が, 私の耳に直接届いた. 私の心臓が, まるでガラスのように, 音を立てて砕け散った. 全身から力が抜け, 床に座り込んだ. あの日の誓い, あの時の甘い言葉, すべてが欺瞞だった.
私は, 彼の言葉を信じていた. 彼のすべてを愛していた. 幼い頃, 初めて出会ったあの日のように, いつまでも彼の隣にいられると信じていたのに.
「私が, 私自身が... この男を選んだのね. 」
自嘲的な笑みが, 私の唇から漏れた. 私は, スマートフォンの画面を, 私たちの結婚式の写真に投げつけた. ガラスが粉々に砕け散る音だけが, 静寂な部屋に響き渡った.
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