社長の素顔は、私の“夫”でした の小説カバー

社長の素顔は、私の“夫”でした

8.9 / 10.0
祖父への恩返しとして、霧島夢は顔も知らない相手と電撃結婚を交わした。互いに干渉しないという約束のもと、形だけの夫婦となってから一年。夢は離婚を決意し、その連絡を済ませてから新たな職場へと復帰する。そこで彼女を待ち受けていたのは、完璧主義で冷徹な社長、宮崎蒼だった。しかし、仕事に厳しい彼には夢さえ知らない驚くべき裏の顔があった。なんと、彼こそが一年間一度も会うことのなかった夢の「夫」その人だったのである。正体に気づかぬまま接する夢に対し、なぜか夫としての彼は急に離婚を拒む態度を見せ始める。職場の冷酷な上司と、私生活で繋がる謎の夫。二つの顔を持つ同一人物との奇妙な関係に、夢は戸惑いを隠せない。秘密を抱えたまま、すれ違う二人の距離はどう変化していくのか。嘘から始まった不器用な結婚生活の中で、隠されていた本音と真実の愛が次第に浮き彫りになっていく。偽りの絆が本物の恋へと変わる瞬間を描く、波乱に満ちた現代ラブストーリー。

社長の素顔は、私の“夫”でした 第1章

汐見浜空港。

霧島夢は送迎エリアに立ち、足元には大きなスーツケースがひとつ置かれていた。

腕時計に目をやる。飛行機を降りてからすでに三十分が経過しているというのに、一年前に電撃的に結婚した夫は、まだ姿を見せていなかった。

彼女はわずかに眉をひそめ、顔も知らぬその男に対して、自然と印象を悪くしていった。

初対面だというのに、時間も守れないなんて――。

そんな思いが胸をよぎると、彼女の脳裏には、一年前の慌ただしい結婚の記憶が浮かんでくる。

一年前、祖父・霧島夜斗が突然重い病に倒れたのだ。

祖父の見舞いのために海外から急いで帰国した夢に、祖父はひとつの願いを口にした。「この目でお前の結婚を見届けたいんだ」

霧島夢は断りたかった。けれど、彼女を孤児院から引き取って育ててくれたのは霧島夜斗だった。その恩人を失望させることは、どうしてもできなかった。

結局、夢は祖父の言う通りに、顔も知らない男と電撃的に結婚することになる。

結婚式当日、相手は姿を見せなかった。婚姻届すら他人の手で手続きされたものだった。

彼の名前と、商売人だということ――夢が知っているのも、霧島夜斗から聞いたその程度だ。

いま思えば、あのときの妥協は、果たして正しかったのだろうか。

そう思いながら、夢は再び時間を確認した。さらに十分が過ぎていた。

小さく息を吐いて、そろそろ霧島夜斗に電話をかけようとしたそのとき、背後から耳をつんざくようなエンジン音が響いてきた――

銀色のアストン・マーティンが、彼女の目の前にさっと滑り込むように停まった。窓がするすると下がる。

霧島夢は思わず一歩後ずさりし、反射的に声を上げた。「どうして君がここに?」

運転席にいたのは、彼女の従兄――菅原大和だった。

「その言い方、さすがに傷つくなあ」 そう言いながら、大和は車から降り、わざとらしく目頭を拭うしぐさをしてみせた。「君が帰ってくるなんて一大事じゃないか。従兄として迎えに来るのは当然だろ?なのに、そんな冷たい態度とはね」

その芝居がかった態度に、夢はもう慣れっこだった。

夢は唇をすぼめたまま、何も言わなかった。

「さあ。歓迎の食事でも奢ってやるよ」 大和は片手を彼女の肩にかけ、もう一方の手でスーツケースを引き取ると、そのまま車の方へと押していく。

「ちょっと待って」 夢が立ち止まり、手で制した。

「何を待つっていうんだ?」足を止めた大和は、ふと思い出したように目を細めた。「まさか――君、あの旦那さんを待ってるんじゃないだろうな?」

夢は何も言わなかったが、その表情がすでに答えを語っていた。

大和は鼻で笑い、あからさまに軽蔑した声で言った。「忘れたほうがいいよ。君たち、結婚してもう一年だろ?あいつから一度でも連絡があったか?」

問い詰められた夢は、言葉を失い、ただ沈黙で返すしかなかった。

「電話の一本すらよこさない男に、迎えに来てくれるなんて期待してるのか?」大和の声には、さらに皮肉が滲んでいた。

夢は一瞬だけ黙り込んだが、やがて小さな声で反論した。「でも、祖父が言ってたの。蒼穹空が迎えに来るって…」

きっと、年長者との約束を若輩者が反故にするなんてこと、ないはずだと――彼女はそう思いたかった。

そんな夢の思いに、大和は心底あきれたように肩をすくめた。「待つにしても、せめて車の中にしろよ。外、暑すぎる」

二人がそんなふうに軽く押し問答をしていると――人混みの向こうから、すらりとした大柄な男が早足でこちらに近づいてくるのが見えた。

宮崎蒼だった。彼はスマートフォンを片手に、通話しながら足を止めない。「…もう空港に着いたんです、だから薬は早く飲んで――」

電話の向こうからは、穏やかで優しい女性の声が細やかな口調で聞こえてきた。「ちゃんと覚えてる?夢ちゃんは今日は赤いワンピースを着てるの。髪は長い巻き髪で、スーツケースは黒よ……」

「おばあちゃん、見つけたよ……」そう答えかけた瞬間、宮崎蒼の目がぴたりと止まった。

赤いワンピース。長い巻き髪。黒のスーツケース。――すべてが一致していた。

けれど、その女性今は別の男に肩を抱かれながら、車に乗り込もうとしていた。

宮崎蒼の声が、急に冷たくなった。

「……もう切るよ」

その唇には、どこか皮肉めいた笑みが浮かび、深い瞳にはわずかな冷淡さが宿っていた。

彼はスマートフォンをしまうと、きびすを返してその場を離れた。

車へ戻ると、ハンドルを握り、ふと目を上げた先――そこには、さきほどのスポーツカーの中で寄り添う男女の姿が、まだ視界に残っていた。

男は優しく、女の髪を整えてやっていた。宮崎蒼からは、女の正面の顔までは見えなかった。けれど、もうそんなことはどうでもよかった。

その顔が、見る見るうちに曇っていく。

そして――かすかに、乾いた笑いをもらした。

……こんな展開、最初から予想できたはずだったのに。

電撃結婚した妻が、まる一年もの間汐見浜に現れず――別の相手を見つけていたとしても、無理もないことだ。

宮崎蒼は唇をきつく結び、スマートフォンを取り出すと、短いメッセージを打ち込んだ。

それを送信すると同時に、アクセルを踏み込んで、車は加速していった。

————

その日の午後、霧島夢は淡い色合いのシンプルで上品なビジネススーツに着替え、宮崎グループに初出社した。

宮崎グループは、汐見浜で屈指の大企業だ。その本社に入れるのは、誰もが認める一流の人材ばかり。

霧島夢は、優れた経歴を買われて本社に抜擢され――そのポジションは、なんと宮崎グループ社長・宮崎蒼の上級個人広報だった。

広報部の主任・蒼井嵐が、夢を伴って宮崎蒼のもとへと案内する。

霧島夢はまだ知らなかった。彼女の直属の上司――宮崎蒼こそが、自分の電撃婚の相手、つまり“蒼穹空”その人であることを。

ただ――婚姻届を提出した際、宮崎蒼は人を簡単に信用しない慎重な性格ゆえ、普段公にしている名前ではなく、本来の本名である「蒼穹空」の名を使っていた。この事実を知っているのは、ごくわずかな、彼にとって最も信頼できる人間たちだけだった。

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