花嫁はひとりきり、愛は戻らない の小説カバー

花嫁はひとりきり、愛は戻らない

8.9 / 10.0
桐原千景は、いつか夫に振り向いてもらえる日が来ると信じ、理想の妻として振る舞い続けてきた。しかし、夫である望月颯斗の心には常に別の女性の影があり、千景がどれほど尽くしてもその想いが報われることはなかった。華やかな結婚式の日も、心細い入院生活の間も、彼女は常に孤独の中に置かれ、それでも颯斗への愛だけを唯一の心の支えにして生きてきたのだ。そんなある日、過酷な運命が千景を襲う。医師から余命宣告を受けた彼女は、残された僅かな時間で、彼への執着を捨てて自由になることを決意する。だが、千景の心が自分から離れたことを悟った瞬間、それまで冷徹だった颯斗は豹変し、異常なまでの執念を見せ始める。「今さら遅すぎるの。私はもう、あなたを愛さない」と告げる千景。かつては一途だった純愛が、皮肉にも残酷なすれ違いへと変貌していく。終わりへと向かう二人の関係が辿り着く、衝撃の結末とは。孤独な愛の果てに待つ、切なくも狂おしい現代ラブストーリー。

花嫁はひとりきり、愛は戻らない 第1章

男女の情事は、時に人を天にも昇らせ、時に地獄へ突き落とす。

「いい子だ、もう一度…」

桐原千景は汗まみれでベッドに横たわったばかりだったが、柔らかな身体はすぐさま望月颯斗に抱き上げられた。

彼の動きは激しく、容赦がない。それでも肝心なとき、千景はそっと首を持ち上げ、懇願するように囁いた。

「颯斗……もう、避妊しないでくれない? ……赤ちゃんが欲しいの」

一瞬、望月颯斗は動きを止めた。

だがすぐに、冷たく静かな声が千景の耳に響いた。「子どもには多くの責任が伴う。今はそのつもりはない」

千景は唇をきゅっと噛み、目元がたちまち赤く染まった。「でも…私たち、もうすぐ結婚するのよ?おじいちゃんも、孫が見たいって言ってるし……それでも、ダメなの?」

その声は、願いというより祈りだった。

彼と結婚したい。彼と一緒に、幸せな家庭を築きたい。そして、赤ちゃんが欲しい——その想いで、胸がいっぱいだった。

けれど、望月颯斗の冷たく強張った顔を見つめるうちに、彼女はついに折れてしまった。「…わかった。赤ちゃんのことは、また今度にしよう」

ようやく、彼の表情が少しだけ和らいだ。

だが、彼が続きを口にしようとしたその瞬間——着信音が、部屋に響いた。

電話がつながるやいなや、甘く柔らかな声が耳に届いた。「颯斗、こんな夜遅くにごめんなさい。邪魔だったら、本当に申し訳ないんだけど……」

「さっきリビングで転んじゃって、足がすごく痛くて……もし今忙しかったら、自分で何とかするから……」

早瀬杏璃の言葉が終わるより先に、颯斗が即座に応じた。「そこで待ってて。すぐ行くよ」

「……ありがとう、颯斗。千景さんと一緒にいたんじゃない? 邪魔してないといいけど。誤解されちゃわないかな……」

「タクシー呼ぼうか、自分で……」

「気にするな。何も問題ないよ」 望月颯斗の声は、春の風のように優しくて、心をくすぐった。

――ふふっ。

桐原千景は、込み上げてきた笑いをぐっとこらえた。

バスルームには、水音とふたりの吐息だけが漂っている。全身びしょ濡れのまま、ふたりの距離は危ういほど近かった。まるで、弓を引ききった状態――いまにも何かが起こりそうな、そんな空気だった。

これが、「邪魔してない」っていう意味?

なるほど。特別に愛されるって、こんなにもわがままでいられることなのね。特権であり、例外であり、どんなルールからも外れた存在。

だけど――望月颯斗が愛しているのは、私じゃなかった。他の女の子……

なんて皮肉なこと。

そして次の瞬間、千景の身体は、大きなバスタオルにそっと包まれた。

大判のバスタオルが桐原千景の体を包み、艶やかな曲線をすっかり隠していた。

「ベッドまで運ぶよ。先に、休んで」望月颯斗の声は、いつになく優しかった。

けれどその言葉は、冷水を浴びせられたように、千景の心を一瞬で凍らせた。

――彼、早瀬杏璃のもとへ行くつもりなの?

千景は手をぎゅっと握りしめ、全身がこわばるのを感じた。

しばらく黙ったまま、そっと足を踏み出す。小さな歩幅でゆっくり彼に近づいていきながら、どうかしてる…そう思いながらも、

彼女は両腕を伸ばし、そのまま望月颯斗を、ぎゅっと抱きしめた。

千景の声は、かすかに震えていた。「ねえ……今日はそばにいてくれない?行かないで」

望月颯斗は、少し驚いたように彼女を見た。

けれどその驚きも束の間、彼はすぐに落ち着きを取り戻し、そっと彼女の髪を撫でた。

「ダメだ。怪我してるんだ。冗談で済む話じゃない」

「でも、私……今はあなたに、どうしてもそばにいてほしいの。行かないで」 千景の目は赤く潤み、唇を噛んでうっすら血がにじんでいた。

「やめなさい、千景。君はいつも、聞き分けのいい子だったじゃないか」

けれど、今日の彼女はもう“いい子”なんて呼ばれたくなかった。ただ、彼を引き留めたかった。

「颯斗…」名残惜しそうに、彼の顔を見つめる。

「ね、いい子だから。手を放して」

千景はゆっくりと首を振った。

「もう一度言う、手を離して!」

望月颯斗の目元がすっと冷えた。唇をきゅっと結んだまま、彼の大きな手が彼女の指を一本ずつ、強引にほどいていく。

その力があまりに強くて、指先がじんと痛んだ。

もう、すがる気力なんて残っていなかった。千景は寂しげに笑い、力なく手を離した。

「すぐ戻るよ」 去り際、颯斗はそう言った。

すぐ戻る?

そんなの、三歳の子に言い聞かせるくらいのセリフだ。早瀬杏璃に呼ばれて、彼が戻ってきたことなんて一度もなかったじゃない。

千景に子どもを望まなかったのも……結局は、彼女のため。早瀬杏璃のためだったのだろう。

なにしろ彼女は、彼が心の奥深くに仕舞い込んだ、どうしても手に入れられなかった女だった。誰もが忘れられない「初恋」のような存在。だからこそ、大切に、大切に、まるで神聖な宝物のように崇め奉られていた。

シャワーを浴びたあと、桐原千景はそっと布団に身を潜らせた。

けれどその夜は、なぜかいつも以上に布団が冷たく感じられて、どう寝返りを打ってもぬくもりが戻ることはなかった。

朝6時。

電話に出ると、相手は望月颯斗の母・望月蘭だった。「結婚式の日取りが決まったの。三ヶ月後、とても縁起のいい日よ」

おそらく誰かに占ってもらったのだろう。結婚にはもってこいの吉日らしい。

「今日はね、それを早めに伝えておこうと思って。ご両親にも、準備を始めてもらってちょうだいね」

「うちは望月家って言っても、無駄金をばらまくような家じゃないのよ。桐原家も、娘を金で売るような真似はやめてちょうだい。 それと、嫁入り道具はきちんと揃えてね。あんまりみすぼらしいと、うちの顔に泥を塗ることになるんだから。」

桐原千景は、ひとつひとつ丁寧に頷いて応えた。「わかりました、お義母様。父にちゃんと伝えます。ご安心ください、私は結納金なんて一円もいただきません」

だが、その言葉ですら望月蘭の気に入ることはなかった。

むしろ、さらに冷たく嘲るような声が返ってきた。「さすが、安っぽい女ね」

千景は、それ以上なにも言わなかった。

心の中ではわかっていた。たとえ結納金を受け取ったところで、それは情も義理もない父と、意地の悪い継母の懐に消えるだけなのだから。

「本当に、君のどこが気に入ったっていうのかしら。貧乏くさいし、育ちも知れてるし。」

「うちの子がどうしても君と結婚するって言い張らなかったら、お婆さまが賛成しなかったら、私は絶対に認めなかったわよ。」

電話を切る直前まで、望月蘭は不満をぶちまけていた。

千景は、ふっと苦笑するしかなかった。

……そう、ほんとうにそうだ。

彼女と望月颯斗の婚約は、まるで現実味のない夢のようだった。

でも――彼と結婚し、彼の妻になること。それは桐原千景にとって、生涯でたった一つの願いだった。

十五歳のあの年——

継母は「名門の奥様たちの集まりに連れていく」と言って、着いた先は望月家だった。

桐原千景は、継母の罠にはまり、足を滑らせてプールに落ちた。

――もう、助からない。そう思ったその瞬間。

一人の少年が、水しぶきを上げて飛び込んできた。

彼は彼女をしっかりと抱きしめ、凍える水の底から、そして死の縁から救い出した。

目を覚ましたとき、彼女が見たのは、背を向けて去っていく少年の姿だけだった。

けれど、彼の手首に巻かれていたあの黒い腕時計だけは、なぜか胸の奥に焼きついて離れなかった。

後になって、まったく同じ腕時計を見つけたことで、彼女は彼のことを思い出したのだ。

そう――望月颯斗が、あの日、彼女を救ってくれた。

たった一度の命の恩人。それだけで、彼女は心のすべてを彼に預けてしまった。

あの日を境に、彼と結ばれることが、彼女のただ一つの夢になった。

手を取り合い、共に歩み、いつか老いるその日まで――。

階下から足音が聞こえ、桐原千景の思考はふっと途切れた。

次の瞬間、寝室の扉が静かに開く。

現れた望月颯斗は、目元に疲れの色を浮かべ、スーツは皺だらけだった。

やっぱり――今夜も早瀬杏璃に付き添っていたのだ。

「すぐ戻る」って、言ってたのに。

千景は視線を逸らし、彼を見ないように努めた。

けれど颯斗は、何の前触れもなく彼女をぐいと引き寄せ、まだ冷えた唇でそっとキスを落とす。そして、低く掠れた声で、限りなく柔らかく囁いた。「…怒ってる?」

千景は身を引き、口を閉ざしたまま何も言わなかった。

彼の身体からは、明らかに女物の香水が香っていた。それ以上に、シャツにくっきりと残された唇の跡が、目を刺すほど鮮やかだった。

――早瀬杏璃の痕跡。まるで針のように、じくじくと胸を刺し続ける。

……痛い。

「ねぇ、あなた……まだ早瀬杏璃のこと、好きなの?」

ふと、千景は彼の顔を見上げた。その声は壊れそうなほど柔らかくて、それでも、確かに彼に向けられていた。

颯斗は手を伸ばし、千景をそっと抱き寄せた。

そのまま、低く艶のある声が耳元に落ちる。「君、いつも何考えてるんだ?」

「早瀬杏璃には、少し特別な感情があったのは認める。でも、それはあくまでクラスメートとしての情にすぎない。他には何もない」

千景は何も言わず、ただ彼を見つめながら尋ねた。「じゃあ…私は?」

「颯斗…私を、愛してるの?」

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