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愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした の小説カバー

愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした

たった一度の過ちが、小野凛の運命を大きく変えてしまう。彼女が関わってしまったのは、日本において絶対的な権力を持つ、最も尊き男だった。男の前で凛が演じるのは、言葉すら満足に紡げないような、無垢で愚かな少女の姿。しかし、その仮面を脱ぎ捨てれば、彼女の本性は冷徹な処刑人であり、裏社会を統べる最強の「支配者」としての顔を持っていた。石神颯介は「彼女は繊細で泣き虫な存在だ。傷つける者は容赦しない」と豪語するが、凛に屈した名家たちは、そのあまりの認識の差に沈黙するしかない。そんなある日、凛は颯介の手をすり抜けて姿を消してしまう。愛する者を失った男は狂気に染まり、世界を敵に回してでも彼女を連れ戻すと誓う。彼女が翼を広げて羽ばたくなら、さらに高い場所へと押し上げよう。だが、ひとたび夜の帳が下りれば、彼は厚顔無恥な態度で甘く迫るのだ。「ねえ凛、今夜もキスは許してくれないのか?」と。強大な力を振るう男と、正体を隠した猛獣のような女。二人の歪な愛と執着が、静かに世界を揺るがしていく。
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小野凛の整った眉が、緊張でぎゅっと寄っていた。――だが、妊娠検査薬に浮かんだ“一本線”を見た瞬間、ここ数日胸の奥に溜め込んでいた不安が、霧が晴れるようにすっと消えていく。

「ドンッ!」

リビングのほうから、鈍い轟音が響いた。次の瞬間、トイレの扉が乱暴に蹴り開けられた。

凛ははっと我に返り、慌てて怯えた表情を作って入口を見た。瞳には濃い恐怖がにじむ。

入ってきた男は苛立ちを隠しもせず、怒鳴りつけた。「トイレにどんだけこもってんだよ。結果は?どう?」

凛の全身が小刻みに震える。端正な顔から血の気が引き、紙のように白くなっていた。目尻の赤い泣きぼくろさえ、今は色褪せて見えた。

目の前の男は、暴れ狂う獣みたいだった。いつ襲いかかって引き裂かれてもおかしくない――そう思わせるほどの凶暴さ。

男はずかずかと近づき、凛の細い腕を乱暴に掴み上げる。赤く充血した目で睨みつけ、喉の奥から絞り出すような声で吐き捨てた。「検査薬はどこ?見せろ」

凛は震える手で、それを差し出した。

男は一瞥すると、ふっと笑った。――けれど、その笑みは目に届かない。そこにあるのは危険な殺気だけだった。

凛は、それが男の怒りの前触れだと知っていた。

だが今回は怒鳴られなかった。代わりに、男は彼女の頬をそっと撫でる。動きはやけに優しいのに、口から落ちた言葉はあまりにも残酷だった。「大丈夫だよ、ベイビー。今日もう一度連れていってやる。今度も妊娠しなかったら――ずっとあそこに置いてやってもいいんだぜ」

凛の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ冷たい光が走る。だがそれはすぐに消え、顔には極限まで怯えた表情だけが残った。大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな壊れた涙の光。

男はその“無害な小動物”のような様子に満足げに笑い、彼女の手首を乱暴に掴んで別の部屋へ引きずっていった。

「バンッ!」

ドアが強く閉められる。室内にいた数人の女たちが、同時にこちらを振り向いた。どの顔にも感情はなく、ただ麻痺したような虚ろな目だけがそこにあった。

彼女たちは皆、凛と同じようにアメリカに売り飛ばされてきた女たちだった。この貸し部屋で、昼も夜もわからない生活を送りながら、島の権力者たちの慰みものにされる日を待たされている。

一か月前、凛もここへ連れて来られた。

彼女は小野家の長女。父親は母の実家の後ろ盾で事業を大きくし、順風満帆に見えていた。だが母は早くに亡くなり、しかも死後三か月も経たないうちに父は再婚した。継母はやがて娘を産んだ。凛の異母妹――小野乃愛。

最愛の娘を失った悲しみで祖父も病に倒れ、そのまま世を去った。それ以来、凛は小野家の中で――まるで最初から存在しなかったかのような、透明な人間になった。

凛は生き延びるため、ずっと身を低くしてきた。乃愛とは争わず、ただ目立たぬよう、言われるがままに耐えてきた。それでもなお、あの親子の仕打ちはあまりにも度を越していた。幼い頃からろくに食事も与えられず、着る物にも困らされた。それだけでは飽き足らず、彼らは小野家の財産すべてを奪おうとまでした。

そして何より許せないのは、二十一歳の誕生日の当日。薬を盛られ、二人が手を組んで彼女をアメリカ南東部の小さな島へ売り飛ばしたこと。

そこまで思い至り、凛の瞳はいっそう冷たく沈んでいった。

彼女がゆっくり歩み寄ると、部屋の隅にいた女が無言で場所を空ける。

本来なら、同じ境遇の者同士、身を寄せ合うべきなのだろう。けれど誰も凛に近づこうとしない。向けられる視線は、どれも怯えを含んでいた。

凛がここへ来た初日、すぐに会所へ連れて行かれたからだ。しかも“とんでもない大物”の相手をしたらしい――そんな噂まで流れている。

相手が誰なのかを知っている者はいない。だが、凛が戻ってきてからというもの、彼女は頻繁に妊娠検査に連れて行かれている。あの連中は、彼女を妊娠させて、それを利用して大金をゆすろうとしているのだろう。

相手は、相当な資産家に違いない。

短い髪の少女が、おずおずと近寄ってきた。不安を滲ませた声で囁く。「お姉さん……できてましたか?」

凛の掌が、ゆっくりと強く握り締められる。

会所へ連れて行かれたあの日。逃げ出そうとして、彼女は半ば無意識のまま薄暗い個室へ迷い込んだ。

扉を開けた瞬間、腕を掴まれ、そのままソファのそばへと乱暴に押しやられた。

凛は床に崩れるように膝をついた。次の瞬間、大きな手がいきなり顎を掴み、強引に顔を上げさせられる。視線の先にあったのは、底冷えするように暗く冷たい目だった。

本来、彼女の腕なら、あの男を殺すこともできたはずだった。

だが、喉元に突きつけられたナイフの刃が、それを許さない。勝ち目がないことを、凛は一瞬で悟る。

引き裂かれた服。身体を引き裂くような痛み。それが――彼女の初めての夜に刻まれた、唯一の記憶だった。

意識が闇に沈む直前、男の手の甲にあったヘナタトゥーが、揺れる光の中で不気味なほど妖しく浮かび上がっていた。

次に目を覚ましたとき、凛はすでにあの貸し部屋へ戻されていた。

凛は、これがまだ始まりにすぎないと知っていた。

その後も、彼女は再び外へ連れ出された。

男の後ろを黙って歩きながら、凛の頭の中では思考が高速で巡っていた。

(もう会所には行かない……絶対に)

逃げなければならない。帰って、復讐して――母の財産を取り戻すんだ!

だが男の腰には銃がある。軽率な行動は即、死に繋がる。

――賭けるしかない。

次の瞬間、凛は突然全身の力を爆発させた。男を突き飛ばし、そのまま階段へ向かって駆け出す。

男は一瞬虚を突かれ、反応が遅れた。まさか彼女にそんな力が残っているとは思っていなかったのだ。すぐに我に返り、荒々しく追いかけてくる。

「くそっ、逃げる気か! ぶっ殺してやる!」

凛はなりふり構わず、階段を駆け下りた。二階まで来ると、迷うことなく窓台によじ登った。

背後から男の手が伸びてくるのが見えた瞬間――彼女は考えるより先に、身を投げ出した。

次の瞬間、耳をつんざくようなブレーキ音が夜を切り裂く。

真正面から照りつけるヘッドライトの眩しさに、凛は思わず目を細めた。

彼女は衝撃で地面に崩れ落ち、そのまま座り込む。――コツ、コツ。硬質な革靴が石畳を踏む音が、ゆっくりと近づいてくる。やがて、その足音は彼女の目の前で止まった。

視界の端に、磨き上げられた黒い革靴が映った。そして頭上から、低く冷えきった声が降ってきた。

「――見つけた」

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