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愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした の小説カバー

愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした

たった一度の過ちが、小野凛の運命を大きく変えてしまう。彼女が関わってしまったのは、日本において絶対的な権力を持つ、最も尊き男だった。男の前で凛が演じるのは、言葉すら満足に紡げないような、無垢で愚かな少女の姿。しかし、その仮面を脱ぎ捨てれば、彼女の本性は冷徹な処刑人であり、裏社会を統べる最強の「支配者」としての顔を持っていた。石神颯介は「彼女は繊細で泣き虫な存在だ。傷つける者は容赦しない」と豪語するが、凛に屈した名家たちは、そのあまりの認識の差に沈黙するしかない。そんなある日、凛は颯介の手をすり抜けて姿を消してしまう。愛する者を失った男は狂気に染まり、世界を敵に回してでも彼女を連れ戻すと誓う。彼女が翼を広げて羽ばたくなら、さらに高い場所へと押し上げよう。だが、ひとたび夜の帳が下りれば、彼は厚顔無恥な態度で甘く迫るのだ。「ねえ凛、今夜もキスは許してくれないのか?」と。強大な力を振るう男と、正体を隠した猛獣のような女。二人の歪な愛と執着が、静かに世界を揺るがしていく。
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2

凛の瞳孔が、ぎゅっと縮んだ。

――あの男だ!

あの夜の光景が脳裏に蘇る。氷のように冷たい刃が喉元をなぞった感触。刃先は彼女の動脈にぴたりと押し当てられていた。

彼は低い声で囁いた。「俺のこと、知ってるか?」

知らないはずがない。

和国屈指の財閥・石神家の次男――石神颯介。“監獄帰りの狂人”と噂される男。

十六歳で石神家によってイギリスの海上刑務所へ送られた。そこに収容されていた囚人、いずれも極悪非道な罪を背負っている。

石神家に連れ戻された頃には、彼はすでにたった一人で刑務所の“支配者”になっていた。

手の甲に刻まれたヘナタトゥーは、孤島刑務所の所長が直々に入れたもの。それは彼の“支配者”としての証でもあった。

二十二歳で石神家を継ぐと、わずか三年で国内屈指の巨大財閥へと押し上げた。その影響力は絶大で、国家の中枢でさえ容易には逆らえないと言われている。

冷酷非情な手腕。情け容赦のないやり方。その名を聞くだけで、背筋が凍る者も少なくない。

だからあの夜、彼の下に押さえつけられていたとき、凛は声一つ上げることができなかったのだ。

そして今――その“厄神”が目の前にいる。凛の心臓が、喉元までせり上がった。

さっき彼は言った。――見つけた、と。

凛は、ただ“タイミングが良すぎる”と感じていた。あの夜、彼に抱かれてから――ちょうど一か月。

彼がここへ来た理由が、妊娠の有無を確かめるためだと考えれば辻褄が合う。

あの気まぐれで残酷な男のことだ。もし本当に妊娠していたら、自分の末路が悲惨なものになるのは間違いなかった。

凛は体を強張らせたまま、身動きひとつできない。

次の瞬間、背後から伸びた護衛の手が彼女の手首を掴み、強引に立たせた。

視界に飛び込んできたのは、鋭く整った男の顔立ち。

「……俺のこと、忘れたか?」

声にはかすかな笑みが混じっている。だがその目の奥は、凍てついた深い水底のように冷え切っていた。

その視線は、あまりにも恐ろしかった。凛の胸の奥では不安がざわめいていたが、表情には一切出さない。ただ、薄く涙の膜を張った瞳で彼を見つめ返す。

颯介の唇が、笑っているのかいないのか分からない形に歪む。

少し距離があるはずなのに、彼の全身から放たれる圧のような冷気が、肌を刺すように伝わってきた。

そのとき――階段の奥から、さっき凛を追っていた三人の男が飛び出してきた。だが玄関先にずらりと並んだ黒塗りの車列を目にした瞬間、全員が足を止める。

そして凛の隣に立つ男の顔を見た途端、何かを悟ったように顔色を変え、踵を返して建物の中へ逃げ戻ろうとした。

彼らの動きは速い。だが、颯介のボディーガードたちはそれ以上に速かった。

――パン、パン、パンッ!

乾いた銃声が、すぐ耳元で弾けるように連続して響いた。

凛は、見てしまった。逃げ遅れた三人の背中に、次々と赤い血が弾けたのを。そのうちの一人はまだ息があったらしく、ボディーガードに両腕を掴まれ、引きずられるようにして颯介の足元へ放り出される。

「石神社長!俺が悪かった!助けてくれ、もう二度としない!」

男は苦痛に顔を歪めながら、必死に手を伸ばし、颯介のズボンの裾を掴んだ。

男は喉の奥で低く笑った。そして無造作に片足を上げ、男の撃たれた箇所の上にゆっくりと乗せた。

「俺まで出し抜こうとした度胸だけは買ってやる」

そのまま、靴底でわずかに踏み込む。「そんなに金が好きなら、少し早めにあの世へ行け。香典代くらいはくれてやる」

淡々とした声とは裏腹に、足元の男は喉が裂けるような悲鳴を上げた。

黒い革靴の縁から、赤い血がじわりと滲み出し、石畳へと流れ落ちていく。

凛はぎゅっと拳を握りしめる。

――やっぱり。さっきの直感は間違っていなかった。

この男がここに現れたのは偶然なんかじゃない。

自分も、颯介も、誰かに嵌められたのだ。

だからあの夜、会所の責任者の目をかいくぐって逃げ出せた。最初からすべて仕組まれていた。連中は颯介があの晩、会所に来ることを知っていたのだ。

そのとき、男の視線がゆっくりと凛へ向けられた。その瞳の奥には、ぞっとするほど歪んだ愉悦が浮かんでいた。「次は――お前だ」

凛は静かに息を吸う。頭の中では、思考が目まぐるしく巡っていた。

颯介は明らかに、凛をこの詐欺グループの一員だと誤解している。

この状況では、すべてが強制されたかのように振る舞い、自らをその一味から切り離さなければなりません。さもなければ、彼女もまた死を免れないだろう。

瞬きひとつの間に、先ほどまで恐怖に揺れていた瞳が、すっと光を失った。焦点の合わない、虚ろな目。

颯介はじっと彼女の目を覗き込む。だがそこには怯えも、計算も見えない。ただ、鈍く濁った空虚さだけ。

二人は五分間も見つめ合った。

あの夜、彼の下にいたときの彼女も――まさにこんな、生気の抜けた顔をしていた。

(……本物の馬鹿か?)

颯介の眉がわずかに上がる。興味の色が、その目に滲んだ。大きな手が凛の頬に触れる。指先がなぞった肌は、柔らかく、きめ細かい。

凛は無表情を保ったまま、心の奥でぞわりとした悪寒に耐える。

不意に、彼は彼女の頬を軽く叩いた。その瞬間、瞳の奥に冷たい光が宿った。「お前が馬鹿でも、見逃してもらえると思うな」

凛の心臓が、鋭く跳ねた。次の瞬間、ボディーガードに両腕を掴まれ、そのまま車へ押し込まれる。

道路脇に建つ白い建物の陰から、ひとりの男がゆっくりと姿を現した。その顔には、重い緊張が刻まれていた。

男は、車が遠ざかっていく方向をじっと見送った。そして耳元のワイヤレスイヤホンに指を添え、低い声で言う。「朱雀を見つけた」

イヤホンの向こうで、女の切羽詰まった声が弾ける。「だったら早く連れ戻しなさい!」

男は眉間をきつく寄せたまま、言いにくそうに告げた。「……石神颯介に連れて行かれました」

一拍の沈黙。「どの石神颯介?」

男は黙り込む。

さらに一分ほど経って、女の声の温度がすっと落ちた。慌てた気配が消え、冷静さだけが残る。「朱雀なら大丈夫。あの子の腕なら、石神颯介の手からだって抜けられる。すぐ帰国しなさい。こっちで私が段取りを組む」

「了解しました」

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