
愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした
章 2
凛の瞳孔が、ぎゅっと縮んだ。
――あの男だ!
あの夜の光景が脳裏に蘇る。氷のように冷たい刃が喉元をなぞった感触。刃先は彼女の動脈にぴたりと押し当てられていた。
彼は低い声で囁いた。「俺のこと、知ってるか?」
知らないはずがない。
和国屈指の財閥・石神家の次男――石神颯介。“監獄帰りの狂人”と噂される男。
十六歳で石神家によってイギリスの海上刑務所へ送られた。そこに収容されていた囚人、いずれも極悪非道な罪を背負っている。
石神家に連れ戻された頃には、彼はすでにたった一人で刑務所の“支配者”になっていた。
手の甲に刻まれたヘナタトゥーは、孤島刑務所の所長が直々に入れたもの。それは彼の“支配者”としての証でもあった。
二十二歳で石神家を継ぐと、わずか三年で国内屈指の巨大財閥へと押し上げた。その影響力は絶大で、国家の中枢でさえ容易には逆らえないと言われている。
冷酷非情な手腕。情け容赦のないやり方。その名を聞くだけで、背筋が凍る者も少なくない。
だからあの夜、彼の下に押さえつけられていたとき、凛は声一つ上げることができなかったのだ。
そして今――その“厄神”が目の前にいる。凛の心臓が、喉元までせり上がった。
さっき彼は言った。――見つけた、と。
凛は、ただ“タイミングが良すぎる”と感じていた。あの夜、彼に抱かれてから――ちょうど一か月。
彼がここへ来た理由が、妊娠の有無を確かめるためだと考えれば辻褄が合う。
あの気まぐれで残酷な男のことだ。もし本当に妊娠していたら、自分の末路が悲惨なものになるのは間違いなかった。
凛は体を強張らせたまま、身動きひとつできない。
次の瞬間、背後から伸びた護衛の手が彼女の手首を掴み、強引に立たせた。
視界に飛び込んできたのは、鋭く整った男の顔立ち。
「……俺のこと、忘れたか?」
声にはかすかな笑みが混じっている。だがその目の奥は、凍てついた深い水底のように冷え切っていた。
その視線は、あまりにも恐ろしかった。凛の胸の奥では不安がざわめいていたが、表情には一切出さない。ただ、薄く涙の膜を張った瞳で彼を見つめ返す。
颯介の唇が、笑っているのかいないのか分からない形に歪む。
少し距離があるはずなのに、彼の全身から放たれる圧のような冷気が、肌を刺すように伝わってきた。
そのとき――階段の奥から、さっき凛を追っていた三人の男が飛び出してきた。だが玄関先にずらりと並んだ黒塗りの車列を目にした瞬間、全員が足を止める。
そして凛の隣に立つ男の顔を見た途端、何かを悟ったように顔色を変え、踵を返して建物の中へ逃げ戻ろうとした。
彼らの動きは速い。だが、颯介のボディーガードたちはそれ以上に速かった。
――パン、パン、パンッ!
乾いた銃声が、すぐ耳元で弾けるように連続して響いた。
凛は、見てしまった。逃げ遅れた三人の背中に、次々と赤い血が弾けたのを。そのうちの一人はまだ息があったらしく、ボディーガードに両腕を掴まれ、引きずられるようにして颯介の足元へ放り出される。
「石神社長!俺が悪かった!助けてくれ、もう二度としない!」
男は苦痛に顔を歪めながら、必死に手を伸ばし、颯介のズボンの裾を掴んだ。
男は喉の奥で低く笑った。そして無造作に片足を上げ、男の撃たれた箇所の上にゆっくりと乗せた。
「俺まで出し抜こうとした度胸だけは買ってやる」
そのまま、靴底でわずかに踏み込む。「そんなに金が好きなら、少し早めにあの世へ行け。香典代くらいはくれてやる」
淡々とした声とは裏腹に、足元の男は喉が裂けるような悲鳴を上げた。
黒い革靴の縁から、赤い血がじわりと滲み出し、石畳へと流れ落ちていく。
凛はぎゅっと拳を握りしめる。
――やっぱり。さっきの直感は間違っていなかった。
この男がここに現れたのは偶然なんかじゃない。
自分も、颯介も、誰かに嵌められたのだ。
だからあの夜、会所の責任者の目をかいくぐって逃げ出せた。最初からすべて仕組まれていた。連中は颯介があの晩、会所に来ることを知っていたのだ。
そのとき、男の視線がゆっくりと凛へ向けられた。その瞳の奥には、ぞっとするほど歪んだ愉悦が浮かんでいた。「次は――お前だ」
凛は静かに息を吸う。頭の中では、思考が目まぐるしく巡っていた。
颯介は明らかに、凛をこの詐欺グループの一員だと誤解している。
この状況では、すべてが強制されたかのように振る舞い、自らをその一味から切り離さなければなりません。さもなければ、彼女もまた死を免れないだろう。
瞬きひとつの間に、先ほどまで恐怖に揺れていた瞳が、すっと光を失った。焦点の合わない、虚ろな目。
颯介はじっと彼女の目を覗き込む。だがそこには怯えも、計算も見えない。ただ、鈍く濁った空虚さだけ。
二人は五分間も見つめ合った。
あの夜、彼の下にいたときの彼女も――まさにこんな、生気の抜けた顔をしていた。
(……本物の馬鹿か?)
颯介の眉がわずかに上がる。興味の色が、その目に滲んだ。大きな手が凛の頬に触れる。指先がなぞった肌は、柔らかく、きめ細かい。
凛は無表情を保ったまま、心の奥でぞわりとした悪寒に耐える。
不意に、彼は彼女の頬を軽く叩いた。その瞬間、瞳の奥に冷たい光が宿った。「お前が馬鹿でも、見逃してもらえると思うな」
凛の心臓が、鋭く跳ねた。次の瞬間、ボディーガードに両腕を掴まれ、そのまま車へ押し込まれる。
道路脇に建つ白い建物の陰から、ひとりの男がゆっくりと姿を現した。その顔には、重い緊張が刻まれていた。
男は、車が遠ざかっていく方向をじっと見送った。そして耳元のワイヤレスイヤホンに指を添え、低い声で言う。「朱雀を見つけた」
イヤホンの向こうで、女の切羽詰まった声が弾ける。「だったら早く連れ戻しなさい!」
男は眉間をきつく寄せたまま、言いにくそうに告げた。「……石神颯介に連れて行かれました」
一拍の沈黙。「どの石神颯介?」
男は黙り込む。
さらに一分ほど経って、女の声の温度がすっと落ちた。慌てた気配が消え、冷静さだけが残る。「朱雀なら大丈夫。あの子の腕なら、石神颯介の手からだって抜けられる。すぐ帰国しなさい。こっちで私が段取りを組む」
「了解しました」
おすすめの作品





