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愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした の小説カバー

愛しの妻は、か弱いフリした猛獣でした

たった一度の過ちが、小野凛の運命を大きく変えてしまう。彼女が関わってしまったのは、日本において絶対的な権力を持つ、最も尊き男だった。男の前で凛が演じるのは、言葉すら満足に紡げないような、無垢で愚かな少女の姿。しかし、その仮面を脱ぎ捨てれば、彼女の本性は冷徹な処刑人であり、裏社会を統べる最強の「支配者」としての顔を持っていた。石神颯介は「彼女は繊細で泣き虫な存在だ。傷つける者は容赦しない」と豪語するが、凛に屈した名家たちは、そのあまりの認識の差に沈黙するしかない。そんなある日、凛は颯介の手をすり抜けて姿を消してしまう。愛する者を失った男は狂気に染まり、世界を敵に回してでも彼女を連れ戻すと誓う。彼女が翼を広げて羽ばたくなら、さらに高い場所へと押し上げよう。だが、ひとたび夜の帳が下りれば、彼は厚顔無恥な態度で甘く迫るのだ。「ねえ凛、今夜もキスは許してくれないのか?」と。強大な力を振るう男と、正体を隠した猛獣のような女。二人の歪な愛と執着が、静かに世界を揺るがしていく。
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3

帝都。

小野凛はぼんやりと目を覚ました。視界に入ったのは、見知らぬ天井。

起き上がろうとして――すぐに気づく。手足が縛られていた。身体はベッドの上で、大の字に拘束されたままだった。

凛が力を込めて身をよじると、手首と足首をつなぐ鉄鎖が澄んだ音を立ててぶつかり合い、その金属音だけで、胸の奥が冷え切った。

縛った相手にも、一応の情けはあるらしい。手錠の内側には綿が一周巻かれていた。

凛には、石神が自分をどこへ連れてきたのか分からなかった。

けれど――落ちた先が閻魔の手の中だということだけは、はっきり分かっていた。無事に出られるはずなどなかった。

「……起きたか」

部屋の隅から、低く、冷えた声が落ちてくる。

凛は全身がびくりとこわばり、いっそう身動きが取れなくなった。――この死神のような男を、下手に怒らせたくない。

凛はそっと首を巡らせ、声のした方を見る。

男がソファに腰を下ろしていた。半身は薄闇に溶け、指先には明滅する火――煙草の火。室内に淡い煙草の匂いがゆっくり広がっていた。

颯介が立ち上がり、静かな足取りでベッドへ近づく。彼は見下ろすように、寝かされた凛を観察した。

手のひらほどの小さな顔は血の気がなく青白い。だが、目尻にある赤い泣きぼくろだけがやけに目を引いた。わずかに吊り上がったまぶたと相まって――小狐のようだった。

彼は一言も発さず、ただ静かに凛を見つめ続けていた。

その視線は、必死にもがく獲物を見る猟師のそれ――冷たく、残酷だった。

凛はぱちりと瞬きをする。澄んだ瞳の奥には、戸惑いだけが浮かんでいる。

そのとき、秘書の渡辺晃が入ってきて、書類の束を恭しく差し出した。「石神社長、報告が出ました」

颯介の視線は、なおも凛の顔に据えられたまま。「……読め」

その一言を聞いた瞬間、凛の胸がひゅっと締まる。

報告?

何の報告?

――まさか、身体検査の結果?

試薬の検査など確実ではない。けれど、今の凛には賭ける勇気がなかった。

もし本当に妊娠していたら、颯介が“素性の知れない子ども”を残すはずがない。

石神家は桁違いの名門だ。私生児など、受け入れる余地すらない。

――時間を稼がなきゃ。

そう決めた凛は、わざと大きく身をよじって暴れ出した。手錠と鎖がぶつかり合う金属音が、広い部屋にやけに響き渡った。

颯介は眉根をきゅっと寄せ、いかにも鬱陶しそうにわずかに顔を横へ向けた。

その仕草だけで、ボディーガードは察したらしい。どうせ逃げられるはずがない――そう確信したように、男は前へ出て、凛の四肢の拘束を外しにかかった。

凛は上半身を起こした。さっき暴れたせいで、ゆったりした襟元が大きくはだけ、白い肌があらわになる。水に揺れるようにゆるく波打つ茶色の髪が小さな顔に貼りつき、大きな瞳には無垢な色が満ちていた――まるで屠られる前の子羊のように。

颯介の視線が、彼女の胸元で数秒止まる。黒い瞳が、わずかに深い色へと沈んだ。

その変化を凛は敏感に察した。怖いもの知らずを装って身を乗り出し、両腕を伸ばして彼の首に抱きつく。頬を甘えるように彼の首筋へすり寄せた。

不意を突かれた颯介は、とっさにこの女を振り払おうとした。だが彼女の体から漂うほのかな香りに、伸ばしかけた手は、なぜか軌道を変え、細い腰へと回される。

その様子を見た晃は、気まずそうに視線を伏せた。

凛はその一瞬の隙を逃さない。素早く彼の手元から報告書をひったくると、わざと上下逆さまにして眺めながら、子どものように無邪気な声を出した。「わぁ、なにこれ。おもしろーい」

だが視線だけは素早く文字列を追う。ある数値を見つけた瞬間、胸の奥に冷たい汗が流れた。

――やっぱり、身体検査の報告書だ。

幸いにも、表示は「妊娠なし」。

凛は内心ほっと息をつきながら、興味津々を装って紙をひらひら振り回す。

びりびり、と紙の擦れる音が静まり返った部屋に響いた。颯介は、そんな彼女の“狂ったふり”を、ただ無表情のまま眺めていた。

晃は推測するように言った。「石神社長。このお嬢さんはおそらく知的に問題があり、だからあの連中に会所へ売られたのでしょう」

颯介は凛の腕を強く掴み、身動きできないようにする。冷えきった視線が、彼女の顔の上をゆっくりとなぞった。

数秒後、彼は凛の小さな顎を指でつまみ、顔を近づける。声にはどこか歪んだ愉悦が滲んでいた。「……バカでも悪くない」

凛はぽかんとした表情のまま彼を見つめる。だが胸の内では激しく動揺していた。

その言葉の意味くらい分かる。――彼は、自分を手放すつもりがない。

晃の口元がぴくりと引きつる。「若様、本当にこの方に決めるのですか? お婆様を怒らせませんか」

「お婆さんは俺に早く結婚しろと言っていたはずだ。 そう伝えておけ。俺の“清白”はこのバカに奪われた。なら当然、責任は取らせる」

その言葉に、凛は心の中で叫んだ。(奪われたのはどっちよ……!)

晃はすぐに頷く。「承知しました。すぐにお伝えします」

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