
植物状態の夫を治した身代わり妻、もはや正体を隠せない
章 3
薄葉怜は、甘えるような声で言った。 「海月ちゃん、私、あの湖畔の別荘が欲しいの。 だから、あなたは別のを選んでくれない?あれは私と暁兄さんの新居にしたいの」
藤本暁の胸元に顔を埋め、羞恥に染まった頬を隠すように囁いた。 「もう何年も前から予約していたんだから、当然でしょう?」
暁は、その言葉に遠い過去を思い起こし、表情の奥に微かな動揺がよぎった。
水野海月は、その様子を静かに見つめ、喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。
「何を笑っている?」
暁は、不審げに海月を見据えながら尋ねた。
この女は、一体何を考えているのか。 これほどまで言われて、なお笑みを浮かべていられるとは、理解に苦しむ。
怜は、拗ねたように唇を尖らせ、暁の腕に体を預けた。 大きく開いたシャツの襟元からは、雪のように白い肌が惜しげもなく露わになり、艶やかな曲線を描いていた。 彼女は、まるで無意識であるかのように自身の髪を指で弄び、その仕草で暁の視線を絡め取ることに成功した。 暁の手が、誘われるように怜の肩へと伸びていく。その光景を、海月は冷え冷えとした眼差しで見つめていた。
そして、凍えるような声で言い放った。 「ええ、自分がどれほど愚かだったか、今笑っているのよ」
海月は、躊躇うことなく手を伸ばし、暁が手にしていたグラスを奪い取ると、その中身を惜しげもなく二人目掛けてぶちまけた。
予期せぬ温水を頭から浴びせられ、二人は言葉を失い、信じられないといった表情で海月を見つめた。
暁は、 込み上げる怒りを抑えきれず、 声を荒げた。 「水野海月! 一体、 何を考えているんだ?! 気が狂ったのか!」
海月はゆっくりと立ち上がると、背筋をぴんと伸ばし、微塵も動じない声で応じた。 「藤本家の御曹司様のお言葉は、まことに金言でいらっしゃるわね。 くださるなら、喜んでいただきます。 くださらないなら、それまでのこと」
怜は、幼い頃から暁に甘やかされて育ったせいか、元来、癇癪持ちな性格だった。 普段はか弱く、まるで虐げられた子どものように振る舞っているが、それは男の庇護欲をそそるための、計算された演技に過ぎなかった。
怜は勢いよく立ち上がると、海月を感情的に突き飛ばした。 「『海月ちゃん』と呼んで差し上げているのは、こちらがあなたの顔を立ててあげているからなのよ。 まさか、本気で自分のことを私の妹だとでも思っているわけ? 一体、何様のつもり? 私と暁兄さんに対して、そのような無礼な態度を取るなんて、許されることじゃないわ」
怜は、くるりと振り返り、暁の胸に甘えるように寄りかかった。 「暁兄さん、水野海月ったら、ひどすぎるわ!あんな女、ちゃんと懲らしめてあげないとダメよ」
そして、上目遣いに顔を上げ、いかにも可哀想な様子で暁を見つめた。 「見て、髪も服も、こんなに濡れちゃったわ」
濡れて肌に張り付いた白いシャツは、怜のしなやかな体の曲線をくっきりと浮き彫りにしていた。
その光景を、海月はただ静かに、落ち着き払った様子で見つめていた。 まるで、目の前で繰り広げられるのが、滑稽な道化師の芸でもあるかのように。
「ええ、私もあの別荘や、ましてや財産などねだるつもりは毛頭ございませんわ。 藤本家の御曹司様は万貫の富をお持ちなのに、たったこれしきのことでケチをつけるなんて、私がその価値に値しないということでしょうから」
その口調は自嘲的で、柔らかな響きの中に攻撃性は微塵も感じられない。 しかし、暁は、目の前に立つ海月の纏う雰囲気が、まるで別人のように一変したのを肌で感じ取っていた。
暁は、奥歯を噛み締め、顔に滴る水を乱暴に拭いながら、怜に言い聞かせるように言った。 「俺名義の別荘は、まだまだいくらでもある。 後でまたゆっくり選んで、気に入ったものがあれば、すぐにでも名義変更してやるから」
しかし、怜は、海月への怒りと屈辱をまだ忘れられずにいた。 暁兄さん以外に、自分をここまで怒鳴りつけ、侮辱する女など、これまでいなかった。 ましてや、暁兄さんが嫌っているはずの元妻に、こんな態度を取られるなど、断じて許せることではなかった。
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