
ゴミ夫に捨てられた3秒後、世界最強のシスコン・ロイヤルファミリーに拾われました。
章 2
「……どうしてよ?!」
咲良の全身の血が一気に逆流した。景丞が差し伸べてきた手を、乱暴に振り払った。
「美咲が妊娠しただけで、どうして私から夫を奪うの? 私があの女に、妊娠しろとでも言ったの?」
腹部の傷口が裂けそうな痛みに、咲良は思わずそこを押さえながら、声を張り上げた。「自分で選んだ道でしょ!どうしてそのツケを、私が払わなきゃいけないの? 私って、そんなに都合のいい存在なの?!」
景丞は一瞬、言葉を失った。だが次の瞬間、怒りが胸の奥から込み上げた。
――母や祖母の言う通りだ。児童養護施設育ちの“世間知らず”。視野が狭く、物事の分別もつかない。……こんな簡単な理屈すら理解できないのか。
それでも、彼は苛立ちを押し殺し、あくまで理性的に言い聞かせようとする。「命が二つかかっているんだ」
低く、抑えた声。「山本家と伊藤家は代々の付き合いだ。両親にとって、美咲は半分娘のような存在だ。 今の彼女は追い詰められている。見殺しにするわけにはいかないだろう」
再び、咲良の手を取った。その指先が、氷のように冷たいことに気づき、わずかに眉を寄せた。
無意識のまま、掌で包み込んだ。「……結婚してから、忙しさにかまけてお前をないがしろにしていた。それは認める。 だが、故意じゃない」
声が、ほんの少しだけ和らいだ。「咲良、信じてくれ。俺と美咲は、あくまで形式上の結婚だ。彼女に指一本触れるつもりはない。ただ――」
――あの子に、正当な身分を与えるために。
「……はは」咲良は、怒りのあまり、かえって笑ってしまった。「いい加減にしてよ、景丞」冷たい声が落ちた。 「結婚してから、あなた一度でも私に触れた?」一歩、踏み出した。「それなら――私たちだって、最初から形式だけの結婚だったってこと?」
その一言に、景丞の言葉は喉元で詰まった。
結婚して最初の一年、景丞は大統領選に追われ、心身ともに疲れ切っていた。とてもそんな余裕などなかった。
二年目――ようやく大統領に就任したものの、山のような公務に追われた。 息つく暇もない。
そして今年、ようやく落ち着くかと思った矢先――祖父が急逝し、そのショックで父も脳卒中で倒れた。 家族は悲しみに暮れ、彼自身もまた、仕事と家のことで追い詰められていた。
……咲良は、それをすべて見てきた。だからこそ、何度も自分に言い聞かせてきたのだ。仕方がない、と。彼を責めてはいけない、と。
けれど――まさか、彼が自分に触れなかった理由が、美咲だったなんて。「……ふふ」乾いた笑いが、静かに零れた。
その笑いに、景丞の胸がわずかに痛んだ。ようやく、ほんの少しの後悔が芽生える。「……この三年間、苦労をかけたな」
「……やっぱり、分かってたのね」咲良の声が、震えた。 三年よ、私が待っていたのはあなたが約束した盛大な結婚式じゃなくて、まさか離婚協議書だったなんて!」
胸が激しく上下する。痛みで息すらうまくできない。「景丞、覚えてる?私たちが結婚したときの誓い」
――あの頃。彼はまだ、伊藤家でも軽んじられていた存在だった。
どん底の時期を、そばで支えたのは咲良だった。彼のプライドを傷つけないよう、“ミスターX”という名で影から支え、頭脳として尽くし、すべてを投げ打って彼を大統領の座へと押し上げた。伊藤家の誇りにまで、押し上げたのだ。
それなのに――地位が安定した途端、彼女を奥枢邸から追い出し、美咲を“ファーストレディ”に迎えるつもりなのか。
どうして、自分の想いは――こんなふうに踏みにじられるの。自分の気持ちは……全部、無駄だったの?
「……俺は――」景丞は、言葉を詰まらせた。忘れているはずがない。一生守ると誓ったこと。生きるときも、死ぬときも、決して離れないと約束したことを。
――だが、今は状況が違う。
このまま美咲を放っておけば、母子ともに助からないかもしれない。
深く息を吸い込み、景丞は咲良を強く抱き寄せた。「咲良、忘れてなんかいない。お前にした約束は、絶対に変わらない」
低く、なだめるような声。「ただ今は――美咲と子どもを守らなきゃいけない。それが俺の責任だ。 お前に対してのことは、あとで必ず埋め合わせる。俺たちには、これからいくらでも時間がある」
――その言葉を聞いた瞬間。咲良の中で、何かが音を立てて崩れた。「……離して」強く押し返した。けれど、びくともしない。
次の瞬間――彼女は思いきり足を振り上げ、景丞のイタリア製の革靴を踏みつけた。 「っ……!」痛みに顔をしかめ、景丞が思わず手を離した。「咲良!」
だが――その視線の先にあったのは。これ以上ないほどの失望を湛えた、咲良の瞳だった。
涙が今にもこぼれそうに揺れている。「……私と復縁することが、償いだとでも思ってるの?それとも……恩でも売ってるつもり? 「どうして私が、そんなものを受け入れると思うの?汚れた、バツニの男なんて。誰が望むのよ」
「……咲良!」景丞の顔が、怒りに歪む。歯を食いしばり、低く唸るように言い放った。「自分が今どんな姿をしているか、分かっているのか?それでも“ファーストレディ”のつもりか?」
ついに、咲良の涙はこらえきれず、ぽろぽろと頬を伝い落ちた。「……あなた、私を“ファーストレディ”だって、公に認めたことあった?」震える声で問いかけた。
外に向けて発表されたことなど、一度もない。それどころか――奥枢邸の中ですら、彼は彼女のことを“専属秘書”としか紹介していなかった。 だから、あの場所では誰もが彼女を軽んじ、好き勝手に踏みつけてくる。
「咲良、俺は――」景丞が言いかけた、そのとき。着信音が鳴り響いた。
伊藤家専用の、特別に設定された音。電話に出た瞬間、咲良には分かった――義母、伊藤蘭子からだ。
「……なんだって? 美咲がまた手首を切った?」
その声色は、一瞬で変わった。焦りと、はっきりとした心配がにじむ。――さっき、咲良の体調を気遣ったときよりも、ずっと真剣な顔。
「分かった、すぐ行く。 落ち着いてくれ」 電話を切った、その瞬間。咲良の心は、完全に冷え切った。
本当に馬鹿だった。この三ヶ月。彼が頻繁に実家へ通うたびに、父親の病状が悪化したのだと信じていた。看病のためだと、疑いもしなかった。
――違った。全部、美咲のためだった。
「咲良、もういい加減にしろ。 これは相談じゃない」景丞は淡々と告げた。
彼女の意思など、最初から関係ない。離婚届には、いずれにせよ署名させるつもりなのだ。
「……は」咲良は涙を拭い、腫れた目でまっすぐ彼を見据えた。「離婚ってね、“本当に終わる”ってことよ」一歩も引かない声。「一度サインしたら――私はもう、あなたを捨てるってこと」
「……それでも、私にサインさせたいの?」
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