
ゴミ夫に捨てられた3秒後、世界最強のシスコン・ロイヤルファミリーに拾われました。
章 3
景丞の胸が、どくりと揺れた。まさか妻の口から、ここまで突き放すような言葉が出るとは思っていなかった。
だが、すぐに考えを打ち消した。咲良は、八年間も自分を愛してきた女だ。 強がってみせることはあっても、本気で離れたことなど一度もない。
それに、これは“形式上の離婚”だ。ただ一枚、離婚届が増えるだけで――二人の関係が変わるわけじゃない。
「……いい子だ、俺はもう疲れてるんだ。少しは分かってくれ」 疲れを滲ませた声でそう言い、彼は手を伸ばして、咲良の頭を軽く撫でた。どこか甘やかすような、柔らかな仕草。「サインしたら、もう寝ろ。……今夜は戻らない」
その言葉を聞いた瞬間――咲良の怒りは、逆にすっと引いていった。代わりに残ったのは、冷え切った静けさだけ。
「……触らないで」嫌悪を込めて、その手を払いのけた。そして、書類の横に用意されていたペンを手に取り――迷いなく、自分の名前を書き記した。
その様子に、景丞はほっとした。泣きも騒ぎもせず、素直に従う。――彼が好む、いつもの咲良だ。 だが同時に、胸の奥に言いようのない不安がじわりと広がった。
その感覚が気に入らず、彼はすぐにポケットから一枚のカードを取り出し、咲良へ差し出した。「……これを使え。暗証番号はお前の誕生日だ」
「……私への“ご褒美”?」咲良は、くすりと笑った。そして――そのカードを、何の躊躇もなくゴミ箱へ放り投げた。「使えないカードなんて、見せられても気分が悪いだけ」
景丞が彼女の手首を掴み、厳しい声で尋ねた。「……どういう意味だ?」
咲良は、強く腕を引き抜いた。擦れて痛みが走っても、一切ためらわない。
「――あなたのいいお母様に聞いてみれば?」 冷たい声で言い放った。「あなたのカードはね、あの人の手を通した瞬間、残高がゼロになるの」 一歩、距離を取りながら、皮肉げに微笑んだ。「……不思議でしょ?」
そう言い捨てると、咲良は振り返りもせず客間へ向かった。
手術を終えたばかりの身体は、もう限界だった。これ以上の無理はきかない。今はただ、休まなければならない。
その背中を、景丞はしばらく黙って見つめていた。やがて、傍らに控えていた執事に、軽く指を動かして合図した。「……そのカード、残高を確認しろ」
咲良は、このまま一晩中眠れないと思っていた。けれど、景丞が去ったあとは、不思議なほど静かに眠りに落ちた。
人は、失うかもしれないときこそ苦しむものだ。本当に失ってしまえば――かえって、楽になる。
ただ、胸の奥がぽっかりと抉り取られたように痛んでいた。
翌朝、五時半。いつものように、規則正しいノックの音が響いた。
「咲良、起きて。大統領閣下のコーヒーを淹れる時間よ」 それが、彼女に課せられた仕事だった。
けれど、奥枢邸の小林官長は三度呼びかけても咲良が出てこないのを見て、苛立ったようにそのまま部屋のドアを開け、ずかずかと中へ入ってきた。そして、彼女の布団を容赦なく剥ぎ取った。
初夏の朝はまだ冷える。しかもこの客間は、空調が壊れたままだった。 乱暴に布団を剥ぎ取られた瞬間――咲良の身体がびくりと震え、そのまま上体を起こした。
全身が熱い。明らかに熱がある。力も入らず、今すぐ横になりたい。
それでも、床に落ちた薄い掛け布団を拾おうと手を伸ばした、そのとき――パシンッ!乾いた音とともに、硬い木の戒尺が、彼女の手の甲を強く打った。
それは、奥枢邸の官長に与えられた権限だった。彼らは硬い木製の戒尺を持ち、それぞれの管轄下にある職員を戒め、しつけることが許されていた。
だが――咲良が景丞に付き従ってここに来てからの二年間。その戒尺が振るわれたのは――いつも、彼女だけだった。
女主管は、美咲が送り込んだ腰巾着にすぎなかった。だからこそ、あらゆる場面で咲良にだけ当たりが強かった。
この二年間――彼女の手の甲は、何度も腫れ上がった。それでも景丞は、まるで見えていないかのように何も言わなかった。 それでも咲良は――彼のために、何度も耐えてきたのだ。
「何ぼーっとしてるのよ? 奥枢邸で働けるだけでもありがたいと思いなさいよ!それなのにサボってるなんて、いい度胸ね!」
小林官長は吐き捨てるように罵りながら、再び戒尺を振り上げた――
その瞬間。咲良はその手首を掴み、強引に戒尺を奪い取ると――そのまま、思いきり振り下ろした。
「きゃああっ!!」乾いた音とともに、小林官長の悲鳴が響いた。
逃げようとしたその身体を――咲良は容赦なく髪を掴み、引き戻した。「逃げるな」低く吐き捨てた。そして、さらに強く戒尺を振るった。
あれだけ気持ちよさそうに自分を打っていたじゃない。
今度は、あなたが味わえばいい。
バキッ――
これまで自分が受けてきた仕打ちを、全部そのまま返してやるつもりだった。けれど、あの戒尺があまりに脆く、叩いているうちにぽっきり折れてしまった。
咲良はそれ以上は追わず、手を離した。「……失せろ」低く言い放った。
小林官長は這うようにして客間から逃げ出した。廊下にいた使用人たちは、その惨めな姿をすべて見ていた。 その場で今すぐ咲良を殺してしまいたいほどの憎しみに駆られた。
覚えてなさいよ……美咲お嬢様が来れば……あんたなんて終わりよ!
咲良は、その場に立っているのもやっとだった。熱が、さらに上がっている。喉の渇きに耐えきれず、水を一気に流し込む。そして、震える身体を布団にくるみ、再びベッドへと倒れ込んだ。
――次に目を開けたとき。咲良はすでに、数人のたくましい女中に両脇を抱えられ、引きずられるようにして景丞の前に連れてこられていた。
男はソファに深く腰掛け、冷え切った表情を浮かべている。その隣には――か弱く身を寄せるように、美咲が座り、しくしくと泣いていた。
「……昔から、咲良は私のことを嫌っていて…… それでも、私はずっと我慢してきた。でも……まさか、小林官長が私の推薦で奥枢邸に入っただけで……こんな目に遭わせるなんて……」
涙をこぼしながら、肩を震わせた。「戒尺まで折れるほど打たれて……小林官長、どれだけ痛かったか……っ」
「私の不徳の致すところです」小林官長も、目に涙を浮かべながら頭を下げた。「大統領閣下、山本様……すべて私の力不足です。部下一人、きちんと指導できず……」
今にも抱き合って泣き崩れそうな二人を見て――景丞はそっと手を伸ばし、美咲の肩を引き寄せた。「もういい、泣くな。……体に障る」低く、優しくなだめる声。「子どもに良くない」
その一言に、美咲の涙はさらに勢いを増した。
「……私、小林官長一人すら守れないのに……どうやってこの子を守ればいいの……? いっそ、このまま……」
立ち上がると、ふらりとテーブルへ向かった。そこに置かれていた果物ナイフへ手を伸ばした。
「やめろ!」景丞の顔色が変わった。慌ててその手を掴み、そのまま強引に引き寄せると――彼女の身体を抱きしめた。「馬鹿なことをするな。落ち着け」
「……景丞、放して…… 咲良が見てるわ……また怒らせちゃう……」
美咲は、彼の腰にしがみつくように腕を回す。そのまま、彼の胸に身を預けた。 その唇の端には、かすかな笑みが浮かんでいた。潤んだ瞳が、咲良をかすめる。――その奥にあるのは、あからさまな挑発。
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