
ボーさん、あなたの腕の中の女の子は大物です
章 3
(この男、一体どういう思考回路をしているの!?)
少女は呆れを通り越し、もはや怒りすら湧いてこない。 ただ目の前の男の理不尽さに、渾身の力でその胸板を突き放そうと試みた。 だが、手のひらに触れた筋肉は冷たい鋼鉄の壁のように硬質で、どれだけ力を込めても、その体は微動だにしない。
怒りが沸点に達し、少女は手を振り上げ、男の頬を張ろうとした。
後ろに控えていた五条 川が悲鳴に近い声を上げる。 「竜也様……!」 (この女、死ぬ気か!?)
だが、石神 竜也は怒る気配すら見せず、振り下ろされるそのか細い腕を、いとも容易く空中で掴み取った。
嘲るような、それでいてどこか気怠げな声が降ってくる。 「真っ昼間からお盛んなことだ。 ガキのくせに、人の話も聞かずに男を誘う術だけは心得ているらしいな」
「……っ」
(ふざけないで。 誘惑なら、あなたのお爺様にでもすればいいわ!)
心の中で毒づく間にも、竜也は少女を強引に抱き寄せる。 破れたガーゼの隙間から覗く柔らかな素肌が、男の腕にぴたりと押し付けられた。
常人より幾分か低い男の体温がじかに伝わり、少女の胸に得体の知れないさざ波を立てる。 その不快感から逃れるように、必死に身を捩った。
だが、竜也は腕を緩めるどころか、むしろその体に回した腕にさらに力を込めていく。 悔しげに歯を食いしばる彼女の様を、心底面白そうに眺めていた。
その時、競りに成功した富豪が、でっぷりとした体を揺らして駆け寄ってきた。 少女を見るや、その目にいやらしい光を宿す。 「そいつは俺が競り落とした極上の品だ……俺の女だぞ!」
男が竜也に詰め寄るより早く、川が一瞬で銃を抜き、その額に寸分の狂いもなく突きつけていた。
富豪は動きを止め、 顔を豚のレバーのように赤黒くさせる。 「き、 貴様ら、 俺が誰だか分かっているのか!? 俺は……」
「陸社長、死にたいのですか!」 競売人が慌てて駆け寄り、男を引き止めると鋭く睨みつけた。
竜也に向き直った途端、その態度は一瞬にして卑屈なほど恭しいものへと変わる。 「石神様、私どもの女奴隷が不行き届きで、逃走の際に石神様の落札品を傷つけてしまいましたこと、誠に申し訳ございません。 倍額にて弁償させていただきます……」
それまで無関心を装っていた竜也の表情が、「女奴隷」という言葉を耳にした瞬間、わずかに変わった。 その妖艶で深淵な漆黒の瞳の奥に、不快な光が鋭くよぎる。
競売人は、理由のわからぬまま肌を刺すような殺気を感じ取ったが、何が竜也の機嫌を損ねたのか見当もつかず、強張った表情で言葉を続けた。 「石神様、いかがいたしましょうか……」
「この女は俺が連れて行く」
竜也は、薄い唇から冷ややかに言葉を吐き出した。
簡潔にして、有無を言わせぬ響きがあった。
競売人は愕然とする。 「そ、 それは……! いけません、 石神様! 断じてなりませぬ! その女奴隷は我々天国島の競売品であり、 既に落札されております……! それに、 彼女は…… 彼女は……」
彼は口ごもり、それ以上言葉を続けることができなかった。
竜也の長い指が、少女の細い腰をゆっくりと、所有物であることを示すかのように叩いている。 その仕草は、交渉の余地などない、絶対的な支配欲の表れだった。
彼が口にしたのは、交渉ではなく命令だった。 「そいつの落札価格は百億だそうだな。 ……俺が倍の二百億を出す」
それは、天国島オークションハウスが開設されて以来、前代未聞の天文学的な金額だった。
竜也の言葉が終わるや否や、川は間髪入れず小切手帳を取り出すと、淀みない動きで金額を記し、主に手渡した。
竜也の冷たく白い指から離れた小切手は、一枚の枯れ葉のように、ひらり、と静かに床へ舞い落ちた。
競売人は震えながら懇願する。 「い、石神様、そのような大金をいただくわけにはまいりません……!こ、これは我々天国島の規則に反しますので……」
竜也の血を思わせる唇が、 酷薄な笑みの形に歪む。 「――もし俺がここを更地にすれば、 その 『規則』 とやらも消え失せるのではないか?」
それは紛れもない脅迫でありながら、今日の天気を語るかのように平然とした口調だった。
競売人は恐怖に凍りつき、もはや一言も発することができない。
竜也はそれ以上何も言わず、半裸同然の少女の体に、自分の上着を無造作に掛けてその肌を隠すと、軽々とその体を抱え上げ、悠然と歩き出した。
川と黒服の男たちが、粛々とその後に続く。
「石神様……」
競売人は何かを言いかけたが、気高く、そしてどこか孤独なその背中を見つめるだけで、追いかける勇気は湧いてこなかった。
石神竜也とは、一体何者なのか。 背後には日本の経済を掌握するほどの財閥が控え、その影響力は表社会にも裏社会にも及んでいる。
その竜也の腕に抱かれた少女は、あれほど激しく抵抗していたのが嘘のように、今は彼の肩にぐったりと身を預けているではないか。
ふと顔を上げた競売人は、こちらを見つめる少女の碧い瞳と視線がかち合った。
そこには、この地獄から逃れられるという歓喜と、燃えるような復讐の色を宿した、氷のような光があった。
彼女が騒ぎも暴れもしないのは、この男を利用して、ここから完全に抜け出せると確信したからだ。
傍らで陸社長がまだ何事か喚いているのを尻目に、競売人はその場にへたり込んだ。 「もうおやめなさい!……実は、たとえあなたが彼女を落札できたとしても、連れて帰ることは不可能だったのです。 ボスが、あれほど慈しんでこられた『完成品』を、手放すはずがございませんでしょう……?」
長年の研究の末に生まれた、唯一無二の「血液奴隷」という完成品。 それが天国島から持ち出されたとなれば……その結末は、想像するだに恐ろしい。
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