
裏切りの果て、私は医師となる
章 2
堀井純奈 POV:
樹世は, 昨晩から家に帰ってきていない. 私は, 彼の帰りを待つことも, 彼に連絡を取ることもなかった. もう, 何もかもどうでもよかった. 空っぽになった心は, 何の感情も抱かなかった. 朝になって, 私の携帯が鳴った. 画面には「藤川先生」の文字. 私のパティシエとしての才能を見出してくれた, 世界的なパティシエだ.
「もしもし, 純奈ちゃん. 元気にしてる? 」
藤川先生の穏やかな声が, 私の耳に届いた. 私は無理に笑顔を作って, 「はい, おかげさまで」と答えた. 元気なわけがなかった.
「実はね, 君に話があるんだ. 海外のコンクールで, 緊急の参加枠ができたんだ. 君なら, 素晴らしい結果を残せると思う」
彼の言葉は, まるで遠い世界の出来事のように聞こえた. コンクール? 私が? 今の私に, そんな気力はどこにもなかった.
「でも, 先生…」
私は声を絞り出そうとしたが, 言葉にならなかった.
「これはね, ただのコンクールじゃない. 戦地で食料を必要としている子供たちのための, チャリティイベントを兼ねているんだ. 審査員には, 世界の食料支援団体も名を連ねている. 簡単な道のりではないだろう. 危険も伴うかもしれない」
藤川先生の声は真剣だった. 危険. その言葉が, 私の凍りついた心を, ほんの少しだけ揺さぶった.
「私…行きます」
気づけば, そんな言葉が口から出ていた. 驚いたのは, 私自身だった. 行きます. 本当に? なぜか, そうすることが, 今の私にできる唯一のことのように思えたのだ.
「純奈ちゃん…君, 何かあったのかい? 」
藤川先生の声に, 心配の色が滲んでいた. 私の返事があまりにも唐突で, 彼を驚かせたのだろう.
「はい. もう, 樹世とは終わりです」
私の声は, まるで他人事のように平静だった. 彼との関係を断ち切る. その決意が, 私の中に確かなものとして芽生えていた.
「…そうか. 分かった. 君の覚悟, 受け止めよう. すぐに手続きを進めよう. 何も心配いらないから, 君は準備だけしていなさい」
藤川先生は, 私の決断を深くは追求せず, 全面的に受け入れてくれた. 彼の温かい言葉に, 心の中に小さな光が灯った気がした. 私は, この光を手放してはいけない.
携帯を置くと, 樹世からメッセージが届いていた.
「純奈, 心配かけてごめん. 雅美のことでね…近いうちに必ず埋め合わせをするから. 愛してるよ. 」
雅美のこと. 愛してる. その言葉が, 私の心を激しく揺さぶった. 怒り, 嫌悪, そして深い悲しみ. しかし, それらはすぐに麻痺していく. 彼の言葉は, もう私には何の力も持たなかった.
私は, 海外への渡航に必要な書類を準備し始めた. パスポート, ビザ, 健康診断書. 一つ一つ書類を揃えるたびに, 私の心は少しずつ整理されていくようだった. 私は, 新しい人生を始めるのだ.
私の実家は, 地方の小さな洋菓子店だった. 祖母は, その店を一代で築き上げた, 腕利きのパティシエだった. 私は祖母の背中を見て育ち, いつしか彼女のようなパティシエになりたいと願うようになった.
幼い頃, 私は体が弱く, よく病気にかかっていた. その度に, 祖母が作ってくれる甘いお菓子が, 私にとって何よりの薬だった. その時, 私は思った. 私も, 困っている人の心を癒せるようなお菓子を作りたい. そして, その延長線上に, 人の命を救う, 医者という夢があった. 医師になることを目指して, 私は猛勉強した.
樹世と出会う前, 私は医学部に合格し, 海外の大学への留学の誘いも受けていた. しかし, 樹世の存在が, 私の選択を大きく変えた. 彼は私の夢を応援すると言いながら, 結局は私をそばに置いておきたかっただけだった. 彼のそばにいるために, 私はそのチャンスを手放した.
私は医学の道でも優秀な成績を収めていた. 教授からは, 何度も海外での研究を勧められた. しかし, そのたびに樹世は, 私の体を心配し, 日本に留まるよう懇願した. 私は彼のために, その誘いを断り続けてきた.
だけど, 今の私は違う. 彼のそばにいる必要など, もうどこにもない. いや, むしろ, 彼の元から離れることが, 私の新しい人生の始まりなのだ. 私は, もっと大きな世界で, 自分の力を試したい. 誰かの役に立ちたい. それこそが, 私の本当の夢だった.
私の携帯が再び震えた. またしてもメッセージ. 今度は, 雅美が樹世の腕に抱きつき, 動画の中で得意げに微笑んでいる.
「樹世が, あなたとの婚約を解消して, 私と婚約するって約束してくれたわ. あなたなんかがいたから, ずっと苦しんでいたのよ, 樹世は. これでやっと, 彼も自由になれるわね. ありがとう, 純奈. 」
動画の音声も聞こえてきた. 樹世が雅美に, 「これで君も安心しただろう. 僕もようやく肩の荷が下りた」と優しく語りかけている. 私の心臓は, もう何も感じなかった. ただ, 冷たい水が流れ込むように, 感覚が麻痺していく.
雅美はさらにメッセージを送ってきた.
「私たちの結婚式は, 梅原堂で挙げることになったわ. あなたの祖母のレシピノートも, 樹世が私にくれるって. 私には, あなたの秘伝の技が必要なのよ. ふふ. 」
私の体が, 冷たい電流に打たれたように硬直した. 祖母のレシピノート. それは, 私の命よりも大切なものだ. 樹世は, それを雅美に渡す約束をした? 彼は, 私の心を, 私の魂を, 雅美に売り渡そうとしているのだ.
私は, 震える唇で「樹世…」と呟いた. 私の脳裏に, 彼が私にプロポーズした時の言葉が蘇った. 「純奈, 君は僕のすべてだ. 僕と結婚してほしい」. あの時の彼は, 一体誰だったのだろう.
彼の言葉は, 空虚な嘘だった. 私への愛など, 最初からどこにもなかったのだ. 私は, 彼にとって, ただの道具に過ぎなかった. 彼の味覚と嗅覚を取り戻すための道具. 彼の跡取りとしての地位を守るための道具. そして, 雅美の病を癒やすための, 都合の良い道具.
私は, 携帯を強く握りしめた. 彼の虚偽, 彼の裏切り, そして私の愚かさ. すべてが, 私を深く深く絶望の淵に突き落とした.
私は, 病院に辞職願を提出した. 同僚や上司は引き止めたが, 私の決意は固かった. もう, この国に, 彼がいるこの場所に, 私を繋ぎ止めるものは何もない.
再び携帯が鳴った. また雅美からの動画だ. 今回は, 樹世が梅原堂の店主と雅美の父と共に, 和やかに談笑している様子が映し出されていた. 雅美は, 樹世の隣に座り, 幸せそうに微笑んでいる. そして, 樹世が雅美の手に, 私の祖母の秘伝のレシピノートを握らせる瞬間が, はっきりと映っていた.
動画の中の樹世は, 雅美の手を優しく握り, 「これで, 梅原堂と高畑製菓は, 共に新しい未来を築けるだろう」と, 誇らしげに語っていた. 雅美は, その言葉に満足げに頷き, 私に向かって, 嘲るような視線を投げかけていた.
その瞬間, 私の心は, 本当に死んだ. 魂が, 体から抜け落ちていくような感覚. もう, 痛みも, 悲しみも, 何も感じない. ただ, 冷たい虚無だけがそこにあった.
私は, アパートに帰ると, 樹世との思い出の品をすべて片付け始めた. 彼からもらったプレゼント, 彼と撮った写真, 彼との手紙. すべてを箱に詰め, ガムテープで封をした. もう, 彼の痕跡など, 何もいらない.
その時, 玄関の鍵が開く音がした. 樹世が帰ってきたのだ. 私の心臓は, 何の感情も抱かなかった. まるで, そこに存在しないかのように.
「純奈, ただいま. 遅くなってごめんね」
樹世の声が, 私の耳に届いた. 私は何も答えない. ただ, 黙って箱にガムテープを貼っていた.
「どうしたんだい? こんな時間に片付けなんて」
樹世の声に, 戸惑いの色が滲んでいた.
「もう, いらないものばかりだから」
私の声は, ひどく冷たかった. まるで, 氷の塊のようだ.
「いらないもの? 一体何を言っているんだい? 」
樹世は, 私が詰めた箱を覗き込もうとした.
「私たちの思い出よ. もう, 私には必要ない」
私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめた. 彼の目に, 戸惑いと, ほんの少しの不安が浮かんでいるのが見えた.
「純奈…君, まさか…」
樹世は, 私の言葉の真意に気づき始めたようだった.
「私たちは, もう終わりよ. あなたと私の間には, もう何もない」
私の声は, 確固たる決意を込めていた.
「何を言ってるんだい, 純奈! 何か誤解しているんだ! 僕は君を愛している! 」
樹世は私の肩を掴んだ. 彼の指が私の肌に触れた瞬間, 私は吐き気を催した. 彼の嘘にまみれた言葉, 彼の裏切り. すべてが, 私を深く深く傷つけていた.
「やめて! 触らないで! 」
私は, 彼の手を払いのけた. 私の体は, 彼の触れることさえ拒絶していた.
「純奈…君, まさか…赤ちゃんができたのかい? 」
樹世は, 私の青白い顔と, 憔悴しきった様子を見て, 突然そう言い出した. 彼の目に, 一瞬の喜びが浮かんだように見えた.
「まさか. そんなはずないでしょう」
私は, 冷たく言い放った.
「そうか…よかった. でも, もしできていたら, 君には堕ろしてほしかった. 今はまだ, 僕たちの状況は複雑すぎるからね」
樹世の言葉に, 私の心は再び凍りついた. 彼は, 私の子どもさえも, 自分の都合で決めようとする. 雅美には優しいのに, 私にはこんなにも残酷な言葉を吐く.
「冗談よ. そんなこと, 絶対にしないわ」
私は, 精一杯の平静を装って言った. 彼に, 私の本当の気持ちなど, 決して悟らせてはいけなかった.
「ああ, そうだね. 君らしいよ, 純奈」
樹世は, 安心したように笑った. 彼は, 私の言葉の裏に隠された真意に, 全く気づいていなかった.
「お腹空いただろう? 何か作ってあげるよ」
彼は, 私の言葉に安堵し, キッチンに向かった. その背中に, 私は虚しい笑みを浮かべた. 彼は, 本当に何も分かっていない.
私は, 彼の虚偽の優しさに, もう何の感情も抱かなかった. 彼の作る料理を食べる気にもなれなかった. 彼の優しさは, 刃物のように私の心を切り裂く.
「樹世, 今日は疲れているから, 一人で食べたいの」
私は, 冷たく言い放った. 樹世の顔に, 少しだけ失望の色が浮かんだが, 彼はすぐにそれを隠した.
「そうか. 分かったよ. おやすみ, 純奈」
彼はそう言って, 部屋を出て行った. 彼の足音が遠ざかるのを聞きながら, 私は確信する. 彼は, 雅美の元へ向かったのだ.
私の携帯に, 再びメッセージが届いた. 雅美が, 樹世と梅原堂で食事をしている写真. そして, その写真には, こんなメッセージが添えられていた. 「樹世が, 私のためにお料理を作ってくれたの. あなたは, もういらないのよ. 」
私の心は, 本当に空っぽだった. もはや, 悲しみも, 怒りも感じない. ただ, 遠い場所で, 冷たい風が吹き荒れているような感覚. 私は, もう, 彼を愛していない.
「さようなら, 梅原樹世. 」
私は, 誰にも聞こえない声で呟いた. もう, 私の心は, 完全に決まっていた.
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