
裏切りの果て、私は医師となる
章 3
堀井純奈 POV:
樹世からの電話は, 毎日, 決まった時間にかかってきた. 彼は, 私の安否を, まるで義務のように確認していた. 私は, もう彼の声に何の感情も抱かなかった. ただ, 彼の言葉を, 機械のように受け流すだけだった. 今日は, 父の墓参りの日だった.
「純奈, 準備はできたかい? 迎えに行くよ」
樹世の声が, 携帯のスピーカーから聞こえてきた. 私は, 準備していた線香と花を手に取った. 父は, 私がまだ小学校に上がる前に亡くなった. 彼の墓は, 母方の実家がある, 海辺の小さな町にあった.
私は, 彼の言葉にうんざりしていた. 彼が私に, あれほど虚偽の約束をしたことを思うと, 胸が締め付けられるようだった. 私は, 彼の言葉を信じて, どれほどの時間を無駄にしてきたのだろう. 後悔が, 喉の奥から込み上げてくる.
「ええ, もう大丈夫よ」
私は, 努めて平静を装って答えた. 声が震えないように, 必死で感情を抑え込んだ.
「純奈, どうかしたのかい? 声が沈んでいるようだけど」
樹世は, 私の異変に気づいたようだった. 全く気づかないわけではなかったのか. だが, 彼の心配も, 私にはもう届かない.
「何でもないわ. 早く行きましょう」
私は, 冷たく言い放った. これ以上, 彼に私の心を見透かされてはならない.
「そうかい? 何かあったら言ってくれよ. 僕には何でも話してくれていいんだから」
樹世は, いつものように優しい声で言った. だが, その言葉は, 私にはただの空虚な響きにしか聞こえなかった. あの時も, 彼は同じように言った. そして, 私を裏切った.
「…そうね」
私は, それ以上何も言わなかった. 沈黙が, 車の中に重くのしかかった.
私たちは, 海辺の小さな町に到着した. 潮風が, 私の頬を冷たく撫でる. 私は, 樹世の助けを借りずに, 一人で車を降りた. もう, 彼に頼る必要など, どこにもない.
樹世が私の隣に並び, 私たちは二人の足で墓地へと向かった. 小道を歩くたびに, 私の心は締め付けられるようだった. 父の墓が, 遠くに見えてきた. 白い墓石に刻まれた父の名前が, 私の目に飛び込んできた. 私の心は, 激しい痛みに襲われた.
「お父さん…」
私は, 墓石に手を触れた. 冷たい石の感触が, 私の指にじんわりと伝わってきた. 私は, 父に, 今の私の苦しみを打ち明けたいと思った. だけど, 言葉にならなかった. ただ, 涙が, とめどなく溢れ出した.
樹世は, 私の後ろに立ち, 静かに私を見守っていた. 彼は, 何も言わなかった. ただ, 私が泣き止むのを待っているようだった. 私は, 父の墓前で, 静かに手を合わせた. 樹世も, 私の隣で, 手を合わせてくれた. 彼のその行動も, 私にはもう何の感情も抱かせなかった. ただ, 虚しく, 冷たいだけだった.
「お父さん, 私, 樹世と結婚します」
樹世が, 突然そう言った. 彼の声は, まるで私の心を嘲笑うかのように, 墓地に響き渡った. 彼は, まだ私との関係が終わっていないと, そう思っているのだ. 彼の虚偽の言葉に, 私の心は, 怒りに震えた.
「嘘よ. そんなはずない」
私の心は, 激しく叫んだ. 私は, もうこの男を信じない.
私は, 小さな包みをポケットから取り出した. それは, 祖母が私にくれた, お守りだった. 祖母の秘伝のレシピノートと, お揃いの柄が刺繍された, 大切なお守り.
「純奈, それは…」
樹世が, 私の手元を覗き込もうとした.
「これは, 私にとって, とても大切なものなの」
私は, 彼の言葉を遮るように言った. このお守りは, 祖母の魂が宿っている. 雅美に奪われたレシピノートの代わりに, このお守りだけは, 私が守り抜かなければならない.
「ああ, 覚えてるよ. 君がいつも大切にしていたものだね」
樹世の目に, 懐かしむような色が浮かんだ. 彼は, 本当に何も分かっていない. 私の心の中の, 深い絶望と, 彼への憎悪に.
私は, お守りを父の墓石にそっと置いた. その時, 私の背後から, 聞き覚えのある声が聞こえてきた.
「あら, こんなところで何をしているのかしら? 」
その声に, 私の体は一瞬で硬直した. 雅美だ. 彼女は, まるで獲物を狙うかのように, 私の方に近づいてきた. 白いワンピースに身を包み, 優雅な笑みを浮かべている. 彼女の隣には, なぜか, 樹世の母親が立っていた.
樹世は, 雅美の出現に, 明らかに動揺しているようだった. 彼の顔色は, 一瞬で蒼白になった. 私は, 彼の動揺に何の感情も覚えなかった. ただ, 私の心は, さらに冷たくなっていく.
私は, 雅美の存在を無視し, 父の墓に向き直った. もう, 彼女の挑発に, 付き合うつもりはない. 私は, もう一つ, 大切なものを取り出した. それは, 幼い頃, 父と一緒に拾った, 小さな貝殻だった. 父は, この貝殻を「希望の貝」と呼んでいた.
「お父さん, 私, あなたに誓うわ. もう, 誰にも, 私の心を傷つけさせない. 私は, 私の力で, 新しい人生を切り開く」
私は, 貝殻を握りしめ, 心の中で父に語りかけた. 私の声は, 震えていた. だが, その声には, 確固たる決意が込められていた.
「あら, その貝殻, 可愛らしいわね. 私にちょうだい? 」
雅美の声が, 私の耳に届いた. 彼女は, 私の手から貝殻を奪い取ろうとした.
「これは, あなたには渡せない」
私は, 雅美の手を振り払った. 私の声は, 冷たく, はっきりとしていた.
「どうして? 私には, 樹世の愛があるもの. あなたには, もう何も残っていないじゃない」
雅美は, 嘲るように言った. 彼女の言葉は, 私の心を深くえぐった.
「樹世, 雅美が欲しがっているわ. あげてちょうだい」
樹世の母親が, 冷たい声で言った. 彼女の言葉に, 私は愕然とした. 彼女もまた, 私を裏切ったのだ.
私は, 樹世の顔を見上げた. 彼の目に, 葛藤の色が浮かんでいた. 彼は, 私と雅美の間で, どちらを選ぶべきか迷っているようだった. 私の心は, 激しい痛みに襲われた. 彼の優柔不断な態度に, 私は深く失望した.
「樹世, これは…父との思い出なの. 私にとって, 何よりも大切なものなのよ」
私は, 震える声で言った. 私の目には, もう涙はなかった. ただ, 冷たい絶望だけがそこにあった.
「純奈, 頼む. 雅美のためだ. 彼女は病気なんだ…」
樹世は, 私に懇願するように言った. 彼の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 彼は, 私の気持ちなど, 何も分かっていない.
「…あなたにとって, 私は, 何だったの? 」
私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめた. 私の声は, ひどく冷たかった.
その瞬間, 雅美が突然, 咳き込み始めた. 彼女は, 胸を押さえ, 苦しそうに顔を歪めた.
「樹世…苦しいわ…」
雅美は, 樹世に寄りかかり, わざとらしく演技をした.
「雅美! 大丈夫かい! 純奈, もういいだろう! 雅美に渡してやってくれ! 」
樹世は, 雅美を抱きかかえ, 私に怒鳴りつけた. 彼の目には, 私への怒りさえ浮かんでいた.
私の心は, 本当に死んだ. 彼の言葉は, 私を完全に突き放した. 私は, 貝殻を雅美に差し出した. 私の手は, 微かに震えていた.
「ありがとう, 純奈. これで, 樹世は完全に私のものね」
雅美は, 貝殻を受け取ると, 得意げに微笑んだ. 彼女は, 樹世の腕に抱きかかえられ, そのまま墓地を後にした.
私は, その場に立ち尽くしていた. 冷たい風が, 私の頬を撫でる. 父の墓石だけが, 私のそばにあった.
「ごめんなさい, お父さん. 私, あなたの大切な貝殻を奪われてしまったわ」
私は, 墓石に手を触れ, 心の中で父に謝った. 私の心は, 冷たい氷の塊になっていた. もう, 涙も出ない.
私は, もう, この国に, 彼がいるこの場所に, 私を繋ぎ止めるものなど何もない. 私は, 私の人生を, 私の力で切り開くのだ.
「もう二度と, あなたに会うことはない」
私は, 心の中で樹世に誓った. 私の決意は, 固い岩のように揺るぎなかった.
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