
崖の上の薔薇は、冷たく咲く
章 2
それから数日、神城イヴは神城邸で荷物の整理に追われていた。沙羅場ルカは「少し遅れて戻る」と言っていたが、すでに三日が過ぎても帰ってこない。
キャリーケースの取っ手を握りしめたまま、神城イヴは屋敷を見上げた。ここは彼と共に五年を過ごした場所。ふたりの思い出が刻まれた、特別な邸だった。
いつか、ここが結婚の舞台になると信じて疑わなかった――その夢が、今ではなんと滑稽に思えることか。
長い沈黙のあと、神城イヴは小さく護衛に何かを告げ、未練ひとつ見せず車に乗り込んだ。
マイバッハが走り去るその背後で、神城邸は一瞬にして炎に包まれた。草木一本に至るまで、過去の記憶もろとも焼き尽くされていく。
神城イヴはもう一つの住まいへと戻り、部屋に入るなりドアに鍵をかけた。そしてそのまま、父神城カルロにビデオ通話をかける。
数日前に交わした電話は、急ぎの事情で途中で切れてしまい、話し足りなかったのだ。
神城カルロはいま国外にいた。どうしても本人が処理しなければならない急務があり、ようやく今日だけ時間を空けられたらしい。だからこそ、神城イヴに向けて「今日中に必ずビデオ通話に出るように」と強く要求してきたのだった。
接続が完了すると、画面の向こうには重厚なソファに深く腰掛けた神城カルロの姿が映し出された。指先にはまだ火の消えていない葉巻。神城イヴの顔を見た途端、冷淡だった表情にうっすらと笑みが浮かぶ。
「時間ぴったりだな、可愛い子よ。
聞いたぞ。お前、綾小路レオナルドと結婚するつもりだとか?」
神城イヴは一拍置いてから、静かに頷いた。
「ええ、父さん。でも、ひとつだけ条件があります」
神城カルロは慈しむように頷いた。
「言ってごらん」
神城イヴは父の目をまっすぐに見つめた。その眼差しには、隠しきれない野心が宿っていた。
「父様のシグネットリングが欲しいの」
――それは、“教父”としての権威と地位の象徴。神城家の頂点を示す、尾の指にはめられるあの指輪。
神城カルロは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。だが、すぐに理解すると、朗々と笑い声を上げた。
「いいだろう。帰国したら、この手でお前に渡そう。
それに約束しよう。神城家のすべてはお前のものだ。お前が望むなら、好きなように動かすがいい!」
神城カルロは少し間を置き、今日伝えねばならない本題を思い出した。
「午後、緋桜園で舞踏会がある。綾小路レオナルドも来る予定だ。顔を出して、彼と少し親しくしてみなさい」
神城イヴは微笑んでうなずいた。
緋桜園に着くと、舞踏会場の大広間では、すでに多くの紳士たちが集まり、輪の中心で誰かを取り囲んでいた。どうやら開幕の一曲目を踊る相手をめぐって、ひとりの少女に殺到しているようだった。
神城イヴが近づいてその顔を確かめた瞬間、眉間にしわが寄る。
――神城エリナ!?
次の瞬間、場内がざわめきに包まれた。
沙羅場ルカが人々をかき分け、まっすぐ神城エリナのもとへ歩み寄る。そしてその手を取り、甲にそっと口づけると、彼女を優雅に誘って踊り始めた。
周囲の令嬢たちは目を輝かせて囁き合う。
「うそ……あれって沙羅場ルカじゃない!?マフィアで一番ハンサムで、勇敢って噂の人よ?まさかあの彼まで、神城家のお嬢様に夢中になるなんて!」
「さすがは第二のマフィア、神城家の血筋じゃなくても、私生児でもこんなに大切にされて……しかも教父が直々に舞踏会まで開いてあげるなんて」
神城イヴは群衆の外れに立ち、ダンスフロアの中心で踊る二人を見つめていた。才色兼備、まるで絵に描いたようなカップル――その親密さが胸を締めつける。
かつて、舞踏会に誘ったとき、沙羅場ルカは「自分には釣り合わない」と言っては断り続けた。踊るのは好きじゃない、と。それなのに今、彼はマフィアの舞踏会で、神城エリナとともに堂々と開幕のワルツを舞っている。
ただの挑発では済まされない。これは、神城イヴの頬を平手で打ちつけるような侮辱だった。
舞が終わると、神城エリナは沙羅場ルカの手を取って、満面の笑みを浮かべながらフロアを下りてきた。
だが、観客の向こうに神城イヴの姿を認めた瞬間、その笑みはぴたりと凍りつく。
沙羅場ルカも思わず神城エリナの手を放し、ばつの悪そうな表情を浮かべて、大股で神城イヴに向かって歩き出した。
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