
身籠ったのは、元カレの叔父でした。
章 2
新婚初夜のあの晩も、彰人は深夜になってから帰ってきた。汐里は「どうしても気分が優れなくて」と言葉を濁し、最後まで彼に身を許さなかった。だから今日――謝罪さえすれば浮気の一件も水に流せると、本気で思っているに違いない。
「……出ていって。私の部屋から」
汐里は上半身を起こし、氷のように冷たい声で言い放った。
その一言で、彰人の身体に燻っていた欲は一気に冷えた。彼はこめかみを押さえ、苛立ちを隠そうともせずに言う。「もういい加減にしないか。体調が悪くて、気分が不安定なのは分かる。でもな……俺の我慢にも限度がある」
「……言ったでしょう。出ていって」
汐里の表情は、揺るがなかった。その頑なな顔を前に、彰人は関係を取り繕おうと、声の調子を和らげる。「もう夫婦なんだ。こんなことしてどうする。ちゃんとやっていこう。これからは、今まで以上に大切にするから」
――浮気した男というものは、排水口に詰まった髪の毛の塊のように気持ち悪い。見るだけで吐き気がする。
汐里は枕を抱え、静かに立ち上がる。「……客間で寝る」
その行動が、彰人の神経を逆撫でした。彼にとっては、これ以上ないほど譲歩しているつもりだった。ここまで頭を下げているのだから、彼女のほうが折れるべきだ――そう思っている。
「好きにすればいい。行きたければ、行けば?」
投げやりに吐き捨てられた言葉を背に、汐里は自分のスマートフォンとノートパソコンを手に取り、ドアへ向かった。
彰人は苛立たしげに寝返りを打ち、客間へ向かう汐里の細い背中に向かって言った。「明日は伏見家の家族会だ。お前も一緒に来い。結婚して、まだ日も浅いだろ。外野に笑われるような真似はしたくない」
そう吐き捨てると、低く舌打ちし、手に取った枕を床に叩きつけて鬱憤を晴らした。
汐里は、伏見家の家族会など行きたくもなかった。ましてや、彼と並んで人前に立つなど、想像するだけで気が滅入る。だが、彰人は清水グループを盾にして彼女を脅した。出席を拒めば、即座に売却すると言い放ったのだ。
清水グループは、母が彼女に遺したものだった。
あの会社のために、母は人生のすべてを注ぎ、最後は過労で命を落とした。
――母が残してくれた、たった一つの宝。
伏見家。
帝都でも名を知らぬ者はいない名門中の名門。生まれながらにして選ばれた者だけが立ち入る、いわば貴族の家だった。
彰人の車が伏見家の邸宅前に停まるや否や、執事がすぐに出てきて声を荒げた。「ここは関係者以外の駐車は禁止です。すぐに移動してください」
その態度は、あからさまに無礼だった。だが汐里は、もう慣れていた。何も言わず助手席を降り、静かに脇へと移動する。
彰人も「伏見」の姓を名乗ってはいるが、伏見家の中では取るに足らない存在に過ぎない。彼の母親は、伏見家当主の非嫡出の娘だった。かつて、家の反対を押し切り、車も家も持たない貧しい男と結婚したことで、激怒した当主により伏見家を追放された。
年月が流れ、彰人が成長するにつれ、母は悟った。――自分の力では、息子に何も与えてやれない、と。そこで彼女は、あらゆる手を使って彰人を伏見家に戻そうとした。姓を「伏見」に改めさせたのも、その一環だった。
だが、彰人の立場は、伏見家の中でいまだに受け入れられてはいなかった。伏見家に戻るたび、必ずと言っていいほど皮肉や嘲笑を浴びせられる。それでも彼は意地を張り続けていた。――いつか必ず、伏見家の連中全員に思い知らせてやる。自分は「出来損ない」なんかじゃない、と。
彰人が立ち上げた会社の名は「万森グループ」。起業当初の資金――最初の数百万円は、すべて汐里が出したものだった。その後も、清水グループの全面的な後ろ盾があったからこそ、彼は短い年月で会社をここまで大きくできたのだ。
けれど今となっては、汐里にはそう思える。――全部、無に帰したようなものだ、と。あの頃の自分は、人を見る目がなかった。
彰人は車を別の場所へ移動させたが、執事は首を縦に振らなかった。どこに停めても、「ここも不可です」と繰り返すだけだ。
ついに堪忍袋の緒が切れ、彰人は怒鳴った。「自分の家に帰ってきて、車を停める場所すらないのか!」
執事は相変わらずの作り笑いを浮かべたまま、丁寧に頭を下げる。「申し訳ございません。『余分な方』には、余分な駐車スペースもございませんので」
その言葉に、彰人の顔が一瞬でこわばった。消えかけていた怒りが、再び胸の奥で燻り始める。
汐里は、その様子を横目で見ながら、ふと感じた。――正直、少し痛快だ。
そのとき、数台の黒いセダンが、静かに門前へと滑り込んできた。それを見た執事は、表情を一変させ、慌てた様子で彰人を急かす。「早くお下がりください。征臣様がお戻りです!」
伏見征臣。伏見家現当主・宗元の末子であり、次期当主の座に最も近い男。帝都の裏表を支配するその姿は、畏怖を込めて――『黒冥の魔王』と呼ばれている。
汐里は、ゆっくりと門内へ入ってくる数台の車を見つめていた。執事は、先ほどまでの高圧的な態度が嘘のように、弾かれた勢いで駆け寄り、中央の一台のドアを恭しく開ける。
先に目に入ったのは、黒いスラックスに包まれた長い脚だった。地面に降り立つと同時に、磨き上げられた革靴が照明を反射する。
次の瞬間、場の空気が変わる。――圧倒的な存在感。何もしていないのに、人を無言で威圧する力。
汐里の視線は、無意識のうちに男の手元へと吸い寄せられた。指にはめられていたのは、金縁の翡翠の指輪。
心臓が、強く跳ねた。――見覚えがある。あの夜。ホテルの部屋で、暗がりの中でもはっきりと目に焼きついた、あの指輪。
「……まさか……」
息を呑み、汐里はゆっくりと顔を上げた。視線が交わる。鋭く、冷えた黒い瞳。感情を一切映さない、凛とした眼差し。
――あの夜、彼女と一夜を共にした男。それは、彰人の叔父だった。
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