
身籠ったのは、元カレの叔父でした。
章 3
その男は、見上げるほどに長身だった。内に光を秘めたような佇まいには、気品があり、俗世の喧騒に紛れても、彼がいる場所だけが別の空間のように浮き上がって見える。
漆黒のスーツは禁欲的で、隙がない。年齢の読めない端正な顔立ちは、整いすぎているほどに美しく、そしてひどく冷たかった。
汐里は、思わず息を詰めた。これほど完成された男を前にすれば、誰だって無意識に呼吸を忘れてしまう。
征臣は、ふと彼女のほうへ視線を投げた。それだけで、汐里の胸が跳ねる。理由も分からないまま、罪悪感に似た感情が込み上げ、反射的に視線を伏せた。
幸いにも、彼はそれ以上こちらを見ることはなかった。部下を伴い、大股でその場を離れていく。
一方、彰人はというと、ようやく見つけたスペース――それはゴミ置き場のすぐ横の横の、わずかな空き地だった。
「汐里、俺たちも入ろうか?」 そう言って、彼は彼女の手を取ろうとする。
汐里は咄嗟に、軽く振り払った。「……一人で歩けるから」
彰人は一瞬だけ表情を曇らせたが、伏見家の中で笑い者になるのは避けたかったのだろう。すぐに口調を和らげた。「……分かった」
家族会が始まっても、征臣の姿はなかった。そのことに、汐里の胸に張り詰めていた不安が、ようやくほどけていく。
もし彼が同席していたら――自分は、きっと平静ではいられなかった。
会の途中、トイレに立つふりをして、汐里はそっと席を抜けた。向かったのは、邸宅の裏に広がる庭だった。
人々は皆、正面ホールに集まっている。裏庭は、驚くほど静まり返っていた。
伏見家の豪奢さは、並の名門とは次元が違っていた。これでは――彰人がどれほど必死になって伏見家へ戻ろうとしたのかも、理解できてしまう。金と権力。その誘惑は、あまりにも露骨な形で、そこにあった。
汐里は裏庭を歩き回っていたが、気づけば完全に道に迷っていた。
やがて、小さな池のほとりへと辿り着く。そのとき――水音と、低く押し殺した声が耳に届いた。反射的に足を止める。
一人の男が、ボディーガードに引きずられるように連れてこられ、そのまま頭を掴まれて、水の中へ押し込まれた。
数秒後、男はもがきながら水面から顔を出し、悲鳴を上げる。
池の周囲には、十数人のボディーガードが立っていた。黒い影が密集し、息が詰まるほどの威圧感を放っている。
汐里はとっさに身を隠し、口を押さえた。心臓が、壊れそうなほど激しく打つ。
再び、男の頭が水中へ沈められる。限界寸前になってから、ようやく引き上げられ、まるで死んだ獣でも扱うかのように、地面へ投げ捨てられた。
「伏見様……本当に、あの日、部屋にいた人物が誰なのか分からないんです。俺は……見てない……」
言い終わる前に、ボディーガードの拳が男の顔を打ち抜いた。「まだ『知らない』と言うか」
「ほ、本当です!あの時、居眠りしてて……何も見えなかった……」
次の瞬間、男の指が一本、無惨に潰され、悲鳴が夜空に響き渡った。
汐里は、頭皮が痺れるような感覚に襲われ、背中を冷たい汗が一気に流れ落ちる。
――やはり。征臣は、あの夜、ホテルにいた男だ。そして今、彼は――彼女の存在を追っている。
――つまり。あの夜の女が、自分だとは、まだ気づかれていない。
その事実に、汐里は恐怖を覚えながらも、ほんのわずかな奇妙な安堵感を覚えていた。――今すぐ、ここを離れなければ。
そう思い、身を翻した瞬間。目の前に、黒服の男が二人、音もなく立ちはだかった。
「……やはり、いましたか」
汐里は引きつった笑みを浮かべ、必死に平静を装う。「た、たまたま通りかかっただけです。何も……見ていません」
高木慎一は、彼女を一瞥すると、池のほうへ視線を送り、淡々と告げた。「若様。伏見彰人の女です」
しばしの沈黙。やがて、低く、磁力を帯びた声が闇の奥から響いた。「……連れてこい」
汐里はボディーガードに挟まれ、否応なくその場へ連れて行かれた。背中を押され、前によろめく。転びそうになり、慌てて足を踏みとどまった。
喉が鳴る。怖くて、とても顔を上げられない。
男は、ガーデンソファにもたれかかるようにして座っていた。黒のVネックのニットに、ゆったりとしたストレートパンツ。 整った顔立ちは庭の照明に浮かび上がり、全身に淡い金色のオーラを纏っているようだった。
――美しすぎる。まるで、闇に展示された一枚の絵画のように。
征臣の視線が、静かに彼女を射抜く。
細く、華奢な身体。雪のように白い肌。恐怖のせいで、長い睫毛が小刻みに震え、その様子がかえって人の庇護欲を掻き立てる。
「……顔を上げろ」低く、抗えない声。
汐里は両手でスカートの裾を強く掴み、唇を噛みしめた。胸の鼓動を必死に抑えながら、ゆっくりと顔を上げる。
視線がぶつかった瞬間、男の表情はどこか淡々としていた。「……なぜ、ここへ来た」
「わ、私は……道に迷ってしまっただけで。決して、他意があったわけではないのです」
「迷った?それとも、彰人に言われて様子を探りに来たか」
「違います!本当に違います。誓ってもいいです!」汐里は小さな手を上げ、必死に訴えた。だが男は、彼女の言葉など最初から眼中にないように、冷ややかに視線を逸らす。その態度だけで、彼女の『誓い』が無意味だったことが分かった。
幸い、征臣はそれ以上追及するつもりはなかったらしい。短く合図を出し、ボディーガードに彼女を下がらせた。
――助かった。胸を撫で下ろした、その瞬間。胃の奥が、突然ひっくり返る。「……っ」吐き気を堪えきれず、汐里は思わず口元を押さえた。
視界の端に、男が横たわっていた長椅子のそばのゴミ箱が映る。――あそこへ。
そう思った次の瞬間、足取りを誤った。身体が前へと傾き、そのまま――男の胸元に、勢いよくぶつかる。「……っ」
――この女、いったい何様のつもりだ。
その場にいたボディーガードたちが、一斉に息を呑み、慌てて駆け寄った。
「動くな」征臣の低い声に、全員が凍りついた。
汐里は彼の胸元に伏したまま、何度かえづいて、ようやく落ち着いた。幸い、吐いたのは空えずきだけだった。
次の瞬間、彼女の身体は突き放された。
「……彰手に使われて、俺に取り入りに来たのか」 怒気を含んだ声。冷ややかな刃のような圧が、言葉に滲んでいる。
汐里は床に座り込んだまま、無垢な目で彼を見上げた。「……体調が悪かっただけです。叔父様、ごめんなさい」
その呼び方に、征臣はわずかに眉を寄せた。――賢い女だ。こうも早く、取り入る隙を見つけてくるとは。
庭の灯りに照らされた彼女の顔は、小さく整っていて、不安と恐怖がそのまま表情に浮かんでいる。まるで、怯えきったウサギのようだった。
「叔父様……それでは、失礼します」
汐里はそう言って立ち上がり、踵を返す。だが次の瞬間――手首を、強く掴まれた。
征臣の視線が、彼女の潤んだ瞳に留まる。逃がさないと言わんばかりに、じっと、丹念に見据えていた。
汐里の鼓動は異様なほど速かった。――まさか、気づかれたの?
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