
最凶の狂犬令嬢と、猫かぶりな摂政王様
章 2
山賊の瞳孔が、はっとするほど急に縮んだ。
男が次の言葉を発する間もなく、蘇清叙(そ せいじょ)が冷えた声で告げる。「ひとつ」
「見逃してくんなせえ……そうすりゃ、なんでも吐く」
脂汗が頬を伝い落ちる。それでも、彼の胸には、まだ甘い望みを持っていた。
(黒幕を知りたがっている以上、そう易々と殺すはずがない――)
清叙は、その愚かな希望を嘲笑うかのように、唇の端を吊り上げた。「ふたつ」
――ドン。
声が響くと同時に、振り下ろされた刃が銀閃となり、一筋走る。
その一刀は、山賊の喉笛を容赦なく断ち切った。
彼は信じられぬものを見るように目を見開き、血を滲ませた唇で掠れた声を漏らした。「みっ……つ……数える、と申した……」
「語る気なき者ならば、時の無駄にあらずや?」
清叙は、流れるような所作で刀を納めた。その手慣れた動きには、一切の無駄がない。
ごくり。
小五が息を呑み込む。
「そやつを殺せば、誰がそなたを陥れんとしたか、知る術を失わざらむや?」
突然、背後から、低く重みのある声が響いた。
清叙は警戒しながら振り返る。そこにいたのは――まるで名工が彫り上げたかのような、峻厳な顔立ちの男だった。
美しく整った顔立ち。纏う気配も常人ならざるものがある。だが、両脚に不自由があるのか、車椅子に身を預けていた。
彼女は元の主の記憶を手繰り寄せた。瞬時に情報が脳裏に流れ込む。
摂政王、裴玄褚(はい・げんちょ)。現皇帝の弟だ。かつては「晋王」の爵位を授かった、一皇族に過ぎなかった。だが、数々の戦功により先帝から摂政王の座を命じられ、現皇帝を補佐する男。 しかし、臣下と民の目には、朝廷を牛耳り、大軍を掌握する「独裁者」――悪名高き男として映っていた。
その後、奇毒に侵され、両脚の自由を失ってしまう。それ以来、朝廷の政にはほとんど関わらなくなったという。
まさか、このような場所で彼に遭遇するとは。
軍人という存在には、彼女は敬意を抱いている。元の主の記憶が告げる裴玄褚は、辺境で本朝の国土を守り、失地を奪還し、赫々たる戦功を挙げた英雄だった。
一瞬の驚きはすぐに去り、清叙はいつもの冷静さを取り戻す。
「わたくしを陥れむとする者など、おのずと限られておりましょう。誰であるか判然とせぬならば、一人ずつ順々に、清算すればよいだけのこと」
その口調はあくまで淡々としていたが、隠しきれない殺意が滲んでいた。
小五はぞくりと身を震わせた。(人は見かけによらぬとは、このことか。か弱い令嬢かを装いながら、その内に棲むのは修羅……)
その時、遠くから馬蹄の音が響いてきた。
清叙はわずかに眉をひそめた。(――もう来たのか。思ったより早い)
だが、死体はまだ片づけられていない。しかも先ほどの一部始終は、目の前の男に全て見届けられていた。
(この京城で、元の主は身を浮き草のように頼りなくさせられていた。もし、この「摂政王」という巨大な後ろ盾を得られれば――どれほど多くの事が、やすやすと片付けられるだろう)
清叙の胸に、ひとつの策が浮かぶ。彼女は覚悟を決め、玄褚を見据えた。「晋王殿下。わたくしと手を組むご興味はござりませぬか?」
玄褚は、すらりとした指先で車椅子の肘掛けを軽く叩いた。「根拠は何ぞ?」
清叙は玄褚の両脚に視線を落とす。唇にかすかな笑みを浮かべ、言い切った。「その、おみ足を治せるゆえにございます」
その言葉を耳にした瞬間、向かいに立つ小五の顔色が瞬時に変わった。
警戒に満ちた眼差しを清叙に向ける。その瞳には怒りの色さえ浮かんでいる。
玄褚の瞳の色も沈み、興は失せたようだった。
(面白い女かと思ったが、これもまた手の込んだ芝居の一環か)
(背後で糸を引くのは、あの「善き兄君」たる帝か――それとも「可愛い甥」どもか……)
だが清叙は、口から出まかせを言ったわけではない。彼女が世界屈指のスパイであったことは周知だが、かつて鬼医に師事し医術を学んだことを知る者は少ない。玄褚の両脚を見た瞬間から、彼女にはすでにその原因を見抜いていた。
清叙は黙したままの玄褚を見つめる。
(信用されてないわね)
彼女は静かに、しかし言い切る口調で告げた。「わたくしの見立てが正しければ、王爺のおみ足を蝕むは寒毒なり。夜ごと、万の蟲に喰い荒らされるが如き激痛に、苛まれてはおりませぬか?」
「無礼者!」
小五が鋭く声を上げた。
疑いの目を向ける玄褚に、清叙はひと息置き、半歩踏み出した。そして、彼の手首にそっと指を添える。
これほどの炎天下だというのに、玄褚の手は骨の芯まで凍みるように冷たい。
さらに清叙が手を伸ばすと、玄褚は反射的に振り払おうと、手を上げた。
だが――その動きは途中でぴたりと止まった。彼は、ふと何か思い当たったように目を細め、清叙を一瞥すると、あえて自ら手を差し出した。
小五は即座に刀を抜き放ち、目の前の女を鋭く警戒する。
彼女が少しでも妙な動きを見せれば、その刃は容赦なく振り下ろされるだろう。
清叙は玄褚の脈に神経を澄ませ、脈の運びを丁寧に追った。
「王爺を蝕むは、粋寒の毒なり。初めは僅かな倦怠感のみ、大方の者は異変に気づきませぬ。されど、やがて下半身より徐々に体の自由を奪いゆく。ついには――毒、全身に回りて果つ。その死に様は、見るに堪えぬほど凄惨なものとなりますわ」
清叙は玄褚の深い瞳を見据えた。「王爺、わたくしの申し上げたことに、相違ございませぬか?」
玄褚の視線が、ほんのわずかに揺れた。だが表情は崩さない。
(……いささかの狂いもない)
遠くの馬蹄のざわめきが次第に近づき、林を貫いて彼女の名を呼ぶ声まで届いた。
継母が案じるふりをして差し向けた追手だろう。真の狙いは、賊に辱められた清叙の姿を「目撃者」に見せつけ――証人をつくること。
玄褚は、清叙の曇りなき瞳をじっと見据え、そして命じる。「小五、綺麗に片付けよ」
「はっ、王爺」
小五は何か言葉を重ねようとしたが、主君の眼差しに押し黙り、踵を返して命じられた役目へと向かった。
呼ばれた数人の衛兵が、手際よく山賊たちの骸を引きずり去り、地に残る血痕を土で覆い隠していく。
瞬く間の出来事であった。清叙の横転した馬車を除けば、あたり一帯には、何事もなかったかのような静寂が戻っていた。
清叙は唇の端に笑みを浮かべた。(……ふふ、やはり話の分かる相手は嫌いじゃないわ)
裴玄褚へ向き直り、彼女はしとやかに膝を折り、流れるような動作で一礼した。「わたくしの馬車が本日、不慮にも横転いたしました。御者は崖へ落ち、命を落としたようにございます。王爺がお助けくださらなければ、わたくしも無事では済まなかったでございましょう。ただ、馬車がこの有様では……屋敷へ戻ることも叶いませぬ」
玄褚はわずかに目を細め、淡々と応じた。「……よかろう。そなたが厭わぬのであれば、余が送り届けてやろう」
清叙が待っていたのは、その言葉だった。
二人は共に玄褚の馬車に乗り込んだ。
継母が差し向けた手の者たちは、どうやら空振りに終わる。
馬車は広々として豪奢な作りで、二人が乗ってもなお余裕があった。
玄褚は単刀直入に切り出した。「余を治せると、違えなく申すか?」
「もちろんでございます。一度誓いしこと、必ずや成し遂げてみせまする」
清叙は静かに頷いた。
服は乱れているが、その表情に動揺の色はなく、彼女の言葉は、不思議と人を信じさせた。
玄褚は目を細め、興味深げに言った。「蘇令嬢。そなたは深窓の令嬢と聞くが、その医術はどこで身につけた? 余を謀る者の末路がどうなるか、知らぬわけではあるまい」
「もちろんでございます」
清叙は淡々と告げた。「師より門を明かすことを固く禁じられておりますゆえ、医術の出所についてはお答えいたしかねます。 ですが、王爺がわたくしをお救いくださった――それこそが、おみ足を治せるのは、このわたくししかおらぬという、何よりの証にございましょう」
「して、治療の手立ては?」
清叙は落ち着いて答えた。「用いる薬材は、いずれも尋常ならざるものばかり。後ほど処方を記し申すが、お集めになるにも時を要することでございましょう。かつ、長年毒に侵されたる御身は、一朝一夕に癒ゆるものにはあらず。王爺には月一度、拙宅にて鍼を施さねばならぬと存じます」
玄褚は一瞬、唇端に笑みを浮かべた。「……ほう。賢しや」
ひと月に一度となれば、その間、彼は清叙の命を守らねば治療も続かない。見事なまでに計算された提案だった。
清叙は否定もせず、紅い唇をかすかに吊り上げ、小悪魔のように微笑んだ。
ほどなくして小五が筆と紙を運ぶと、清叙は迷いなく処方を書き上げた。
馬車に揺られることしばし、やがて侯爵府の門前で静かに止まった。
どうやら捜索に出た者たちより、先に屋敷へ着いたらしい。
「本日はお見送り賜り、誠にかたじけなく存じます。王爺のおみ足は、この蘇清叙が治してみせまする」
そう言い終えると、清叙は玄褚に一礼し、軽やかに馬車から降り立った。そして、振り返ることなく、毅然とした足取りで侯爵府の中へと消えていった。
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