
愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった
章 2
ドアを開けたのは河合延真だった。まるですぐにでも去りたそうな様子だった。
白川明澄は指先に力を込め、表情を整えながら軽く会釈した。「河合社長、お疲れ様です」
そう言って、彼をすり抜けるようにして室内へ入り、書類を差し出す。
豪奢なデスクの向こうには、高級なスーツを身に纏った男が座っていた。その姿はどこまでも端整で、まるで雑誌の表紙から抜け出したようだった。
だが――明澄の目は見逃さなかった。彼のスーツは、昨夜のものではない。
視線を落としながら、静かに口を開く。「社長、こちらがマーケティングレポートです。ご署名をお願いします」
藤原誠司は表情一つ変えずに署名し、書類を彼女に返した。
明澄はそれを受け取ると、踵を返して部屋を出ようとする。扉のそばには、未だ顔に戸惑いを浮かべたままの河合が立ち尽くしていた。
明澄の背中がエレベーターの奥へと消えるまで、河合はその場に立ち尽くしていた。そしてようやく、ぼそりと呟く。「くそっ……まさか明澄さんが何か聞いてたんじゃないだろうな?」
誠司の涼しげな鳳の目には、何の揺らぎもない。河合の言葉も、彼の関心を引くことはなかった。
明澄は昔から従順で、嫉妬や詮索など無縁だった。
だからこそ――彼女がこのまま大人しくしていれば、何一つ不自由な思いはさせないつもりだった。
――エレベーター内。
明澄は天井を仰ぎ、涙が落ちないよう必死にこらえていた。それでも――頬の端から静かに流れた一滴が、耳元に吸い込まれるように消えていった。
二年――それだけの歳月があれば、きっと彼にも伝わると思っていた。自分の愛も、尽くしてきたすべても、きっと……
でも――全部、ただの思い込みだった。
どれだけ頑張っても、過去の恋が戻ってきた瞬間に、すべてが無力になるなんて――
エレベーターの扉が開く。明澄はすでに、何事もなかったかのように顔を整えていた。けれど、その頬は驚くほど蒼白だった。
意識が遠のきそうになるのを必死に堪えながら、給湯室へと足を運ぶ。熱いお茶を一杯、飲めば少しは目が覚めるかもしれない――
そんな思いで扉を開けると、中から聞こえてきたのは、数人の社員たちの世間話だった。
「ねえ、ニュース見た?小林雪乃、帰国したんだって」
「誰のこと?」
「え、知らないの? 小林グループの令嬢よ。それに本人も一流のデザイナー。何より、彼女って――うちの社長が唯一、交際を認めた女性なんだって。初恋って噂もあるよ!」
「えっ、でもさ、社長と白川さんって、そういう関係じゃないの?」
「白川さん? せいぜい“寝友”止まりでしょ。社長が一度でも公にしたことある?なのに、あの人ったら自分が本命かのような顔しててさ。マジで笑える……あれじゃ、ただの痛い女よ」
明澄は唇の端を引き上げ、皮肉げに笑った。――誰よりも現実をわかっていなかったのは、自分自身だった。みんなのほうが、ずっと冷静に見ていた。
ただ一人、自分だけが愚かにも夢を見続けていたのだ。
「おや?“社長夫人”の夢、ようやく覚めたの?」
背後から、嘲るような声が聞こえてくる。振り向かずともわかる、その声の主は宗明日香――誠司の従妹だ。普段から何かと敵対的で、ことあるごとに明澄に突っかかってくる。
先ほどの社員たちの噂話も、きっと彼女の耳に届いていたに違いない。
職場で揉めごとは避けたい。そう思って、明澄は足早にその場を立ち去ろうとする。だが――宗明日香は一歩前に出て、彼女の行く手をふさぐ。
宗明日香は手に持った淹れたてのコーヒーを掲げながら、意地の悪い笑みを浮かべた。「ねえ、今は雪乃お姉さんが戻ってきたんだからさ……あんたみたいな安っぽい女、誠司兄さんがまた抱くと思ってんの?」
明澄が黙って反応を見せないのをいいことに、明日香はさらに口を尖らせて続ける。
「だったらさ、こっちで紹介してあげよっか?金払いのいいオジサンたち。あんた、腕前は悪くないって評判みたいだし、誰に抱かれても一緒でしょ?」
明澄は手をぎゅっと握りしめた。指先が震えるほどに。けれど顔を上げたとき、その声は冷ややかで、静かに突き放すようだった。「――ここは会社です。色を売る場所じゃありません。商売の話をしたいなら、他をあたってください」
「な、何ですって……!」
間接的に彼女を売春婦扱いするつもりか。
宗明日香の顔色がさっと変わった。
そして突然、熱いコーヒーを明澄に向かって勢いよくぶちまけた。
まさかそこまで狂っているとは思わず、明澄は慌てて腕をかばったが、熱々のコーヒーがそのまま腕にかかり、 雪のように白い肌が一瞬で真っ赤に染まった。
「っ……!」痛みに眉をひそめながら、彼女は怒鳴った。「何考えてるの!」
ちょうど休憩時間だったため、周りには見物している社員が何人もいた。その視線を感じてか、宗明日香はますます得意げな顔になる。
「なに毎日調子に乗ってんのよ。誰も知らないとでも思ってる?あんたなんて、親もいないただの野良猫じゃない……」
――パァン!
宗明日香の言葉の続きを、鋭く響いた平手打ちの音が遮った。
まさか、いつもは言い返すこともせず耐えてばかりの明澄が、自分に手を上げるなんて――宗明日香は完全に意表を突かれ、しばらく呆然としていた。
やっとのことで顔をしかめながら叫ぶ。「な、何よ……よくも私を叩いたわね!」
明澄は冷ややかな目で彼女を見据え、はっきりと言った。「礼儀ってものを、教えてあげてるのよ」
両親を幼い頃に亡くした――それは事実だ。けれど、それを理由に誰かに踏みにじられることなど、決して許さない。
宗明日香の顔は怒りで真っ青になっていた。藤原誠司の従妹として、周囲からは常にちやほやされるのが当たり前だった彼女にとって、こんな真正面からの痛烈な反撃は初めてのことだった。
「このクソ女!」
激情に駆られ、彼女は狂ったように明澄へ突進し、高く振り上げた手で頬を打とうとする。
だが今回は、明澄が先に動いた。素早く手を伸ばし、宗明日香の手首をがっちりと掴む。まったく身動きできないように。
宗明日香は小柄で、明澄ほど背も高くない。じたばたと暴れるその姿は、まるで八本の足をばたつかせるタコのようで、どこか滑稽にさえ見えた。
怒りが頂点に達した宗明日香は、口汚く叫んだ。「自分を何様だと思ってるのよ?所詮あんたなんか、誠司お兄さんの夜のお相手でしかないくせに!あんたなんて、売春婦以下よ!」
耳を塞ぎたくなるほど下劣な言葉だった。その場にいた社員たちは次第に集まり、ざわつき始める。
――「いい加減にしろ」
重く低い男声が背後から響いた。階上のオフィスを出てきたばかりの藤原誠司が目にしたのは、休憩スペースで繰り広げられる喧騒の一幕だった。
その瞬間、休憩室はまるで音が吸い取られたように静まり返った。
「誠司お兄さん……?」宗明日香は思わず声をひそめた。彼女の従兄である藤原誠司は、普段から厳しい人で、母親からも「彼の前では品行方正に」と再三言われていた。
だが――自分が平手を受けた側だと思い出すと、宗明日香は再び強気になり、頬を赤く腫らしたまま、泣きそうな声で訴えた。「誠司お兄さん、見てよ…… 白川明澄、完全に頭おかしくなってるわよ!」
窓の外では陽光が眩しく降り注ぎ、それが男の整った顔立ちに影を落としていた。
その姿を見た瞬間、明澄の鼻先がつんと痛んだ。心の奥底から湧き上がる理不尽な苦しみ。理性を抑えつけていたものが緩むのを感じた。――それに、火傷した手の甲の痛みも、じんと鈍く広がっている。
彼女と視線が交わると、誠司の眉間に深い皺が寄った。「白川補佐、会社の規則はもう忘れたのか?」
その言葉は冷たく、壁のように突き放すもので。明澄の胸はきつく締めつけられた。彼の冷酷さが、まるで酸素を奪う壁のように、彼女の呼吸を止めていく――
四周は静まり返っていた。
明澄は孤独に、しかし凛として立っていた。細い身体はまるで、霧の中に浮かぶ山水画の若竹のようだった。
誠司からは、入社初日にこう告げられていた。「ここは感情をぶつける場所じゃない。君の繰り返す無礼を、俺は見過ごさない」
その言葉を、明澄はよく覚えているし、彼の立場も理解している。
しかし今この瞬間、彼女はどうしても聞きたかった。さっきの言葉を彼も聞いていたのか、それとも――
彼も認めているのか、自分がただの夜の存在でしかないことを。
誠司が現れた途端、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように消えていった。けれど、中には数人、好奇心に負けて遠巻きに様子を伺っている者もいた。
誠司のその冷たいまなざしに、明澄の背筋は凍えたように震えた。
彼女は手のひらをきゅっと握りしめ、こみ上げる悔しさを必死に抑えながら、静かに宗明日香に頭を下げた。
「ごめんなさい。藤原グループの一員として、手を出したのは間違いでした」
それを見て、宗明日香は勝ち誇ったように顎を上げる。「ふん、謝ったからって済むと思ってんの――」
その言葉が終わる前に、明澄の声がぴしゃりと割って入った。「さっきの平手は、藤原グループの社員としてじゃない。白川明澄個人のものよ。だから――謝る気はない」
そう言い残し、彼女はもう男の方を振り返ることなく、その場をすり抜けて歩き去った。
「この……女狐が!」
宗明日香の顔は怒りで引きつっていた。
これまで思いのままに振る舞ってきた彼女にとって、こんな屈辱を味わわされたのは初めてだった。しかも相手は、見下していたあの女。
今、この女を千切りにしたところで、自分のプライドは到底取り戻せそうにない。
憤怒のあまり、宗明日香は声を荒げた。「誠司お兄さん、あの女の言ってること聞いた!? 私の顔をこんなにしといて、あの態度はないでしょ!すぐ呼び戻してよ!百発ビンタじゃ済まないんだから!」
誠司は何も言わず、ただ明澄の痩せた背中をじっと見つめていた。その瞼には、淡い陰が差していた。
「もうやめろ」誠司の声は冷たく、凍りつくようだった。
宗明日香は、これまで数々の汚いやり口で物事をねじ伏せてきた。さっき誠司が明澄をかばわなかったのを見て、彼女は冷たい笑みを浮かべた。やはり、誠司はあの女に何の情も抱いていないらしい。
歯を噛みしめ、目に憎悪を滲ませながら呟く。「次は絶対、あの女の顔をズタズタにさせてやる!」
「明日香!」
誠司の声が鋭く響いた。細められたその瞳には、明確な怒気が宿っていた。
宗明日香は一瞬で全身が凍りついたようになり、手足の先まで冷たくなるのを感じた。
彼の整った顔立ちには、どす黒い陰が差していた。「一度しか言わない。くだらない考えは今すぐ捨てろ。二度と、彼女に手を出すな」
その威圧感は、宗明日香の呼吸すら奪うほどだった。胸の奥で膨らみかけていた邪な企みは、その言葉で瞬時に喉の奥へ押し戻された。
「わ、わかったわ……」震える声でそう答えるのが精一杯だった。
誠司は冷ややかに彼女を一瞥すると、踵を返して去ろうとする。その背に向かって、洲崎牧人にひと言だけ命じた。「部外者は、今後一切立ち入り禁止だ」
宗明日香はまだ気づかず、にこやかにおべっかを言った。「さすが誠司お兄さん、こういう大きな会社ならルール厳しくて当然よね!」
だが次の瞬間、洲崎牧人が一歩前に出て、手で出口を示す。「宗様、どうぞ」
ようやくその意味に気づき、宗明日香の顔色が変わる。自分が“部外者”扱いされたことに、我慢できず誠司の背を追おうとしたが――すでに洲崎が呼んだ警備員に両腕を捕まれ、無理やり入口へと連れて行かれた。
泣き叫ぼうが、暴れようが、容赦はなかった。
……
明澄はオフィスに戻ると、黙って着替えを済ませた。
あの男の冷えきった表情を思い出すたび、胸の奥に静かな虚しさが広がっていく。
そして、定時が訪れた。
ビルの出口で、洲崎牧人が彼女の前に立ちはだかった。
「白川補佐、社長からの急なご指示で、僕がお送りします」
だが明澄は、すぐに首を横に振った。「結構です」
かつては気づけなかった。けれど今なら、はっきり分かる――自分が彼にとって、どれほどの存在だったのか。
いや、何者でもなかったのだと。
誠司が、彼女と一緒に祖母のお見舞いに来るはずがない。
明澄が病院に着いた時、介護士の中村喜美子が丁度祖母の食事の準備をしていた。明澄はその食事を受け取り、自ら祖母に一口ずつ食べさせてあげた。
祖母はこれまでずっと田舎の深山町で暮らしていたが、先月の健康診断で膵炎が発覚した。明澄は祖母の反対を押し切り、田舎から都会の病院へ連れ出し、治療を受けさせることにした。
隠れた結婚のことは、祖母には話していない。
本当は今日、誠司を連れてきて、サプライズのように祖母に紹介するつもりだった。でも、もうその必要もない気がした。
祖母が眠りにつくのを見届けてから、明澄は病室を出て、入口のそばで車を待っていた。
そのとき――病院の正面玄関に、遠くから黒い高級車が一台、静かに停まった。
明澄の目がぱっと輝く。あの車は――藤原誠司のだ。
まさか、彼が自分に会いに来たの?
その瞬間、胸に積もっていた寂しさも苛立ちも、すべて吹き飛んだ。
誠司が会いに来てくれたということは――少しは、まだ自分のことを想ってくれているのかもしれない。
そんな期待が胸に芽生えた瞬間、車のドアが開き、男が長い脚を伸ばしてゆっくりと降りてきた。
明澄は嬉しさを隠しきれず、思わず駆け寄った。
しかし次の瞬間、足が止まり、彼女はその場に凍りついた。
誠司は車を回り込むと、そっと身を屈め、まるで宝物を扱うように若い女性を抱き上げたのだった。
その端正な横顔には、明らかな緊張と深い憂いが浮かんでいる。
一瞬にして、明澄の顔から血の気が引いた。胸の奥で、何かが――音もなく崩れ落ちるのを感じた。
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