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愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった の小説カバー

愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった

結婚して二年の月日が流れた頃、白川明澄の元に届いたのは非情な離婚届だった。絶望の淵で交通事故に遭い、鮮血に染まりながら夫の藤原誠司に助けを求めるが、彼の腕が抱きしめていたのは彼女ではなく、彼の初恋の女性だった。愛する人の裏切りを目の当たりにし、お腹の子供と共に命の灯火が消えゆく中、明澄は静かにその生涯を閉じたはずだった。それから数年の時が過ぎ、誠司にとって「白川明澄」という名は、触れることのできない禁忌の言葉となっていた。しかし、死んだはずの彼女が別の男性と華やかな結婚式を挙げようとしているその時、誠司は会場に現れ、激しい激情と共に叫ぶ。「俺の子供を連れたまま、一体誰と結ばれるつもりだ?」と。一度は完全に断ち切られたはずの愛の絆。しかし、その関係に終止符を打ったのは、果たしてどちらだったのか。失われた過去と隠された真実が交錯し、二人の運命は再び激しく動き出す。裏切りと未練、そして執着が織りなす、切なくも残酷な再会から始まる物語。
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2

ドアを開けたのは河合延真だった。まるですぐにでも去りたそうな様子だった。

白川明澄は指先に力を込め、表情を整えながら軽く会釈した。「河合社長、お疲れ様です」

そう言って、彼をすり抜けるようにして室内へ入り、書類を差し出す。

豪奢なデスクの向こうには、高級なスーツを身に纏った男が座っていた。その姿はどこまでも端整で、まるで雑誌の表紙から抜け出したようだった。

だが――明澄の目は見逃さなかった。彼のスーツは、昨夜のものではない。

視線を落としながら、静かに口を開く。「社長、こちらがマーケティングレポートです。ご署名をお願いします」

藤原誠司は表情一つ変えずに署名し、書類を彼女に返した。

明澄はそれを受け取ると、踵を返して部屋を出ようとする。扉のそばには、未だ顔に戸惑いを浮かべたままの河合が立ち尽くしていた。

明澄の背中がエレベーターの奥へと消えるまで、河合はその場に立ち尽くしていた。そしてようやく、ぼそりと呟く。「くそっ……まさか明澄さんが何か聞いてたんじゃないだろうな?」

誠司の涼しげな鳳の目には、何の揺らぎもない。河合の言葉も、彼の関心を引くことはなかった。

明澄は昔から従順で、嫉妬や詮索など無縁だった。

だからこそ――彼女がこのまま大人しくしていれば、何一つ不自由な思いはさせないつもりだった。

――エレベーター内。

明澄は天井を仰ぎ、涙が落ちないよう必死にこらえていた。それでも――頬の端から静かに流れた一滴が、耳元に吸い込まれるように消えていった。

二年――それだけの歳月があれば、きっと彼にも伝わると思っていた。自分の愛も、尽くしてきたすべても、きっと……

でも――全部、ただの思い込みだった。

どれだけ頑張っても、過去の恋が戻ってきた瞬間に、すべてが無力になるなんて――

エレベーターの扉が開く。明澄はすでに、何事もなかったかのように顔を整えていた。けれど、その頬は驚くほど蒼白だった。

意識が遠のきそうになるのを必死に堪えながら、給湯室へと足を運ぶ。熱いお茶を一杯、飲めば少しは目が覚めるかもしれない――

そんな思いで扉を開けると、中から聞こえてきたのは、数人の社員たちの世間話だった。

「ねえ、ニュース見た?小林雪乃、帰国したんだって」

「誰のこと?」

「え、知らないの? 小林グループの令嬢よ。それに本人も一流のデザイナー。何より、彼女って――うちの社長が唯一、交際を認めた女性なんだって。初恋って噂もあるよ!」

「えっ、でもさ、社長と白川さんって、そういう関係じゃないの?」

「白川さん? せいぜい“寝友”止まりでしょ。社長が一度でも公にしたことある?なのに、あの人ったら自分が本命かのような顔しててさ。マジで笑える……あれじゃ、ただの痛い女よ」

明澄は唇の端を引き上げ、皮肉げに笑った。――誰よりも現実をわかっていなかったのは、自分自身だった。みんなのほうが、ずっと冷静に見ていた。

ただ一人、自分だけが愚かにも夢を見続けていたのだ。

「おや?“社長夫人”の夢、ようやく覚めたの?」

背後から、嘲るような声が聞こえてくる。振り向かずともわかる、その声の主は宗明日香――誠司の従妹だ。普段から何かと敵対的で、ことあるごとに明澄に突っかかってくる。

先ほどの社員たちの噂話も、きっと彼女の耳に届いていたに違いない。

職場で揉めごとは避けたい。そう思って、明澄は足早にその場を立ち去ろうとする。だが――宗明日香は一歩前に出て、彼女の行く手をふさぐ。

宗明日香は手に持った淹れたてのコーヒーを掲げながら、意地の悪い笑みを浮かべた。「ねえ、今は雪乃お姉さんが戻ってきたんだからさ……あんたみたいな安っぽい女、誠司兄さんがまた抱くと思ってんの?」

明澄が黙って反応を見せないのをいいことに、明日香はさらに口を尖らせて続ける。

「だったらさ、こっちで紹介してあげよっか?金払いのいいオジサンたち。あんた、腕前は悪くないって評判みたいだし、誰に抱かれても一緒でしょ?」

明澄は手をぎゅっと握りしめた。指先が震えるほどに。けれど顔を上げたとき、その声は冷ややかで、静かに突き放すようだった。「――ここは会社です。色を売る場所じゃありません。商売の話をしたいなら、他をあたってください」

「な、何ですって……!」

間接的に彼女を売春婦扱いするつもりか。

宗明日香の顔色がさっと変わった。

そして突然、熱いコーヒーを明澄に向かって勢いよくぶちまけた。

まさかそこまで狂っているとは思わず、明澄は慌てて腕をかばったが、熱々のコーヒーがそのまま腕にかかり、 雪のように白い肌が一瞬で真っ赤に染まった。

「っ……!」痛みに眉をひそめながら、彼女は怒鳴った。「何考えてるの!」

ちょうど休憩時間だったため、周りには見物している社員が何人もいた。その視線を感じてか、宗明日香はますます得意げな顔になる。

「なに毎日調子に乗ってんのよ。誰も知らないとでも思ってる?あんたなんて、親もいないただの野良猫じゃない……」

――パァン!

宗明日香の言葉の続きを、鋭く響いた平手打ちの音が遮った。

まさか、いつもは言い返すこともせず耐えてばかりの明澄が、自分に手を上げるなんて――宗明日香は完全に意表を突かれ、しばらく呆然としていた。

やっとのことで顔をしかめながら叫ぶ。「な、何よ……よくも私を叩いたわね!」

明澄は冷ややかな目で彼女を見据え、はっきりと言った。「礼儀ってものを、教えてあげてるのよ」

両親を幼い頃に亡くした――それは事実だ。けれど、それを理由に誰かに踏みにじられることなど、決して許さない。

宗明日香の顔は怒りで真っ青になっていた。藤原誠司の従妹として、周囲からは常にちやほやされるのが当たり前だった彼女にとって、こんな真正面からの痛烈な反撃は初めてのことだった。

「このクソ女!」

激情に駆られ、彼女は狂ったように明澄へ突進し、高く振り上げた手で頬を打とうとする。

だが今回は、明澄が先に動いた。素早く手を伸ばし、宗明日香の手首をがっちりと掴む。まったく身動きできないように。

宗明日香は小柄で、明澄ほど背も高くない。じたばたと暴れるその姿は、まるで八本の足をばたつかせるタコのようで、どこか滑稽にさえ見えた。

怒りが頂点に達した宗明日香は、口汚く叫んだ。「自分を何様だと思ってるのよ?所詮あんたなんか、誠司お兄さんの夜のお相手でしかないくせに!あんたなんて、売春婦以下よ!」

耳を塞ぎたくなるほど下劣な言葉だった。その場にいた社員たちは次第に集まり、ざわつき始める。

――「いい加減にしろ」

重く低い男声が背後から響いた。階上のオフィスを出てきたばかりの藤原誠司が目にしたのは、休憩スペースで繰り広げられる喧騒の一幕だった。

その瞬間、休憩室はまるで音が吸い取られたように静まり返った。

「誠司お兄さん……?」宗明日香は思わず声をひそめた。彼女の従兄である藤原誠司は、普段から厳しい人で、母親からも「彼の前では品行方正に」と再三言われていた。

だが――自分が平手を受けた側だと思い出すと、宗明日香は再び強気になり、頬を赤く腫らしたまま、泣きそうな声で訴えた。「誠司お兄さん、見てよ…… 白川明澄、完全に頭おかしくなってるわよ!」

窓の外では陽光が眩しく降り注ぎ、それが男の整った顔立ちに影を落としていた。

その姿を見た瞬間、明澄の鼻先がつんと痛んだ。心の奥底から湧き上がる理不尽な苦しみ。理性を抑えつけていたものが緩むのを感じた。――それに、火傷した手の甲の痛みも、じんと鈍く広がっている。

彼女と視線が交わると、誠司の眉間に深い皺が寄った。「白川補佐、会社の規則はもう忘れたのか?」

その言葉は冷たく、壁のように突き放すもので。明澄の胸はきつく締めつけられた。彼の冷酷さが、まるで酸素を奪う壁のように、彼女の呼吸を止めていく――

四周は静まり返っていた。

明澄は孤独に、しかし凛として立っていた。細い身体はまるで、霧の中に浮かぶ山水画の若竹のようだった。

誠司からは、入社初日にこう告げられていた。「ここは感情をぶつける場所じゃない。君の繰り返す無礼を、俺は見過ごさない」

その言葉を、明澄はよく覚えているし、彼の立場も理解している。

しかし今この瞬間、彼女はどうしても聞きたかった。さっきの言葉を彼も聞いていたのか、それとも――

彼も認めているのか、自分がただの夜の存在でしかないことを。

誠司が現れた途端、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように消えていった。けれど、中には数人、好奇心に負けて遠巻きに様子を伺っている者もいた。

誠司のその冷たいまなざしに、明澄の背筋は凍えたように震えた。

彼女は手のひらをきゅっと握りしめ、こみ上げる悔しさを必死に抑えながら、静かに宗明日香に頭を下げた。

「ごめんなさい。藤原グループの一員として、手を出したのは間違いでした」

それを見て、宗明日香は勝ち誇ったように顎を上げる。「ふん、謝ったからって済むと思ってんの――」

その言葉が終わる前に、明澄の声がぴしゃりと割って入った。「さっきの平手は、藤原グループの社員としてじゃない。白川明澄個人のものよ。だから――謝る気はない」

そう言い残し、彼女はもう男の方を振り返ることなく、その場をすり抜けて歩き去った。

「この……女狐が!」

宗明日香の顔は怒りで引きつっていた。

これまで思いのままに振る舞ってきた彼女にとって、こんな屈辱を味わわされたのは初めてだった。しかも相手は、見下していたあの女。

今、この女を千切りにしたところで、自分のプライドは到底取り戻せそうにない。

憤怒のあまり、宗明日香は声を荒げた。「誠司お兄さん、あの女の言ってること聞いた!? 私の顔をこんなにしといて、あの態度はないでしょ!すぐ呼び戻してよ!百発ビンタじゃ済まないんだから!」

誠司は何も言わず、ただ明澄の痩せた背中をじっと見つめていた。その瞼には、淡い陰が差していた。

「もうやめろ」誠司の声は冷たく、凍りつくようだった。

宗明日香は、これまで数々の汚いやり口で物事をねじ伏せてきた。さっき誠司が明澄をかばわなかったのを見て、彼女は冷たい笑みを浮かべた。やはり、誠司はあの女に何の情も抱いていないらしい。

歯を噛みしめ、目に憎悪を滲ませながら呟く。「次は絶対、あの女の顔をズタズタにさせてやる!」

「明日香!」

誠司の声が鋭く響いた。細められたその瞳には、明確な怒気が宿っていた。

宗明日香は一瞬で全身が凍りついたようになり、手足の先まで冷たくなるのを感じた。

彼の整った顔立ちには、どす黒い陰が差していた。「一度しか言わない。くだらない考えは今すぐ捨てろ。二度と、彼女に手を出すな」

その威圧感は、宗明日香の呼吸すら奪うほどだった。胸の奥で膨らみかけていた邪な企みは、その言葉で瞬時に喉の奥へ押し戻された。

「わ、わかったわ……」震える声でそう答えるのが精一杯だった。

誠司は冷ややかに彼女を一瞥すると、踵を返して去ろうとする。その背に向かって、洲崎牧人にひと言だけ命じた。「部外者は、今後一切立ち入り禁止だ」

宗明日香はまだ気づかず、にこやかにおべっかを言った。「さすが誠司お兄さん、こういう大きな会社ならルール厳しくて当然よね!」

だが次の瞬間、洲崎牧人が一歩前に出て、手で出口を示す。「宗様、どうぞ」

ようやくその意味に気づき、宗明日香の顔色が変わる。自分が“部外者”扱いされたことに、我慢できず誠司の背を追おうとしたが――すでに洲崎が呼んだ警備員に両腕を捕まれ、無理やり入口へと連れて行かれた。

泣き叫ぼうが、暴れようが、容赦はなかった。

……

明澄はオフィスに戻ると、黙って着替えを済ませた。

あの男の冷えきった表情を思い出すたび、胸の奥に静かな虚しさが広がっていく。

そして、定時が訪れた。

ビルの出口で、洲崎牧人が彼女の前に立ちはだかった。

「白川補佐、社長からの急なご指示で、僕がお送りします」

だが明澄は、すぐに首を横に振った。「結構です」

かつては気づけなかった。けれど今なら、はっきり分かる――自分が彼にとって、どれほどの存在だったのか。

いや、何者でもなかったのだと。

誠司が、彼女と一緒に祖母のお見舞いに来るはずがない。

明澄が病院に着いた時、介護士の中村喜美子が丁度祖母の食事の準備をしていた。明澄はその食事を受け取り、自ら祖母に一口ずつ食べさせてあげた。

祖母はこれまでずっと田舎の深山町で暮らしていたが、先月の健康診断で膵炎が発覚した。明澄は祖母の反対を押し切り、田舎から都会の病院へ連れ出し、治療を受けさせることにした。

隠れた結婚のことは、祖母には話していない。

本当は今日、誠司を連れてきて、サプライズのように祖母に紹介するつもりだった。でも、もうその必要もない気がした。

祖母が眠りにつくのを見届けてから、明澄は病室を出て、入口のそばで車を待っていた。

そのとき――病院の正面玄関に、遠くから黒い高級車が一台、静かに停まった。

明澄の目がぱっと輝く。あの車は――藤原誠司のだ。

まさか、彼が自分に会いに来たの?

その瞬間、胸に積もっていた寂しさも苛立ちも、すべて吹き飛んだ。

誠司が会いに来てくれたということは――少しは、まだ自分のことを想ってくれているのかもしれない。

そんな期待が胸に芽生えた瞬間、車のドアが開き、男が長い脚を伸ばしてゆっくりと降りてきた。

明澄は嬉しさを隠しきれず、思わず駆け寄った。

しかし次の瞬間、足が止まり、彼女はその場に凍りついた。

誠司は車を回り込むと、そっと身を屈め、まるで宝物を扱うように若い女性を抱き上げたのだった。

その端正な横顔には、明らかな緊張と深い憂いが浮かんでいる。

一瞬にして、明澄の顔から血の気が引いた。胸の奥で、何かが――音もなく崩れ落ちるのを感じた。

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