愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった の小説カバー

愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった

8.3 / 10.0
結婚して二年の月日が流れた頃、白川明澄の元に届いたのは非情な離婚届だった。絶望の淵で交通事故に遭い、鮮血に染まりながら夫の藤原誠司に助けを求めるが、彼の腕が抱きしめていたのは彼女ではなく、彼の初恋の女性だった。愛する人の裏切りを目の当たりにし、お腹の子供と共に命の灯火が消えゆく中、明澄は静かにその生涯を閉じたはずだった。それから数年の時が過ぎ、誠司にとって「白川明澄」という名は、触れることのできない禁忌の言葉となっていた。しかし、死んだはずの彼女が別の男性と華やかな結婚式を挙げようとしているその時、誠司は会場に現れ、激しい激情と共に叫ぶ。「俺の子供を連れたまま、一体誰と結ばれるつもりだ?」と。一度は完全に断ち切られたはずの愛の絆。しかし、その関係に終止符を打ったのは、果たしてどちらだったのか。失われた過去と隠された真実が交錯し、二人の運命は再び激しく動き出す。裏切りと未練、そして執着が織りなす、切なくも残酷な再会から始まる物語。

愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった 第1章

「おめでとうございます。ご懐妊です」

白川明澄の思考は、どこか宙を漂っていた。

午後、医師にそう告げられた瞬間の言葉が、まだ頭の中をぐるぐると回っている。

ふいに――藤原誠司の指がぐいと肌を締め上げた。低く押し殺した声が、耳元で響く。「何を考えてた?」

返事をする間もなく、彼は明澄の首筋に手を回すと、深く唇を重ねた。

それから、無言のまま浴室へと姿を消す。

ベッドに残された明澄は、まるで糸を断たれた操り人形のように無力に横たわっていた。汗に濡れた髪が頬に張りつき、瞳には微かな水気が揺らいでいる。全身から力が抜け、激しい雨に打たれた蝶のように、かすかに震えるだけだった。

しばらくして、明澄は体を起こし、ベッドサイドの引き出しを開けた。

午後、胃の不調で病院に行った際に血液検査を受け――医師に「妊娠してからもうすぐ五週目です」と告げられたのだ。

その瞬間、頭が真っ白になった。毎回、ちゃんと避けていたはずなのに。

記憶をたぐり寄せるように、必死で思い返す――たしか先月、一度だけ……酒会の帰り、誠司が自宅まで送ってくれた夜。玄関の前で、ふいに尋ねられた。「今って、安全日か?」

まさか「安全日」なんて、こんなにもあてにならないなんて……

浴室のほうから、しとしととシャワーの音が聞こえてくる。その中にいるのは、彼女が密かに結婚してもう二年になる夫――そして、会社での直属の上司でもある、藤原グループの社長・藤原誠司だった。

そもそもの始まりは、一度の酒の席での出来事。入社して間もない頃、酔いに任せて、彼と一夜を共にしてしまった。

その後、誠司の祖父が突然倒れた。彼は「結婚した姿を祖父に見せたい」と言って、偽装結婚を提案してきた。

二人は婚前契約を結び、社内では秘密の夫婦関係を演じることになった。契約はいつでも破棄できる条件で。

明澄は、まさかこんな大きな幸運が自分に舞い込むなんて――夢にも思わなかった。

八年越しの片想いの相手と結婚できるなんて、信じられないほどの奇跡。彼女は迷うことなく、その申し出を受け入れた。

結婚後、誠司は多忙を極め、月の半分以上は姿を見せなかった。

しかし二年もの間、彼の身近に他の女性の気配すらなかった。浮き足立つような噂も、一片さえ立ち上がらなかった。

少し冷たいところはあるけれど、それを除けば藤原誠司はまさに理想の夫だった。

明澄は、手のひらに握りしめた妊娠検査の報告書を見つめながら――甘くて、不安な気持ちで胸がいっぱいになっていた。

彼に伝えようと決めた!

それからもう一つ、どうしても伝えたいことがあった。実は、二年前が初めての出会いなんかじゃない。彼女は十年も前から、ずっと彼を想い続けていたのだ――

バスルームの水音が、次第に静まっていく。

ちょうどその時、誠司のスマホが鳴った。彼は腰にバスタオルを巻いただけの格好でベランダに出て、電話を取った。

明澄が時計を見ると、もう日付はとうに変わっていた。

なぜだか胸騒ぎがした。こんな夜更けに、一体誰からの電話なのだろう?

通話を終えた誠司が戻ってくる。まるで気にも留めない様子で、腰のバスタオルを外した。

彼の身体は驚くほど整っていた。引き締まった腹筋はまるで彫刻のように美しく、全身の筋肉には無駄がない。長い脚と引き上がったヒップ、そのすべてが、あまりにも官能的だった。

何度肌を重ねた仲だとはいえ、明澄の頬は真っ赤に染まり、胸の鼓動は抑えきれなかった。

誠司はベッド脇まで来ると、シャツとスラックスを手に取り、さっと身に着けた。長い指先でネクタイを締めるその所作も、隙がない。

整った顔立ちは陰影まで美しく、どこか気品をまとっていて――目を奪われるほど、完璧だった。

「もう休めよ」 彼はそう言った。

出かけるつもり……?

明澄の胸に、かすかな失望が広がった。手に握りしめた妊娠検査の報告書を、思わずそっと後ろに隠す。それでも、迷った末に声をかけた。「もう、こんな時間だよ」

ネクタイを締めていた誠司の手がふと止まり、彼女のふっくらとした耳たぶを指先でつまんでから、唇の端をわずかに上げて言った。「今夜は、眠る気がないのか?」

明澄の頬が一瞬で真っ赤になり、心臓が暴れだす。何か言いかけたその瞬間――彼はすっと彼女から離れた。「いい子にしてろ。まだ用事がある。待たなくていい」

そう言い残し、誠司はそのまま玄関へ向かって歩き出した。

「……宴」

明澄は思わず追いかけ、背中に呼びかけた。

誠司が振り返る。シャープな顎のラインが月明かりに映え、その視線はまっすぐ彼女を射抜いてくる。

「どうした?」

その声には、外気の冷たさがほんのり混じっていた。言葉の温度が、少しだけ下がったように感じられた。

明澄の胸の奥が、なぜだかぎゅっと詰まるように苦しくなった。けれど、静かな声で尋ねる。

「明日……一緒におばあちゃんに会いに行ける?」

祖母の体調は思わしくない。できれば、誠司にも顔を見せて安心させてあげたかった。

「明日になってから考える」 誠司は、約束もしなければ、否定もせず、そのまま出て行った。

明澄はシャワーを浴びたあとも、なかなか眠れずにベッドの中で何度も寝返りを打った。

どうしても眠れず、仕方なく起きて、温かいミルクを一杯作った。

ふとスマートフォンの画面を見ると、芸能ニュースの通知が届いていた。

こういうニュースには興味がない。閉じようとしたそのとき――ふと、見慣れた名前が視界に飛び込んできた。

#EVの人気デザイナー・小林雪乃が帰国 謎の恋人と空港でツーショット#

記事には、小林雪乃がバケットハットを被り、謎の男性と共に空港に現れたとある。写真の中の男性は顔がはっきり映っていないものの、スタイルの良さは一目でわかる。

明澄はその写真を指先で拡大した。次の瞬間――頭の中に、鈍い衝撃音が響いた。

あのシルエットは――藤原誠司だった。

ということは……今日の午後、急に会議をキャンセルしたのは、小林雪乃を迎えに行くためだったのか?

その瞬間、明澄の胸に、重たい石がぎゅっと押し込まれたような苦しさが広がった。息苦しくて、思わず胸を押さえてしまう。

震える指先のまま、どうしたのか、自分でもわからないうちに――誠司の名前をタップして、電話をかけてしまっていた。

明澄は動揺しながら電話を切ろうとした。だが、そのとき相手の声が届いた。

「もしもし――」

女の声は、とても優しかった。

明澄は一瞬、動きを止めた。次の瞬間、彼女は勢いよく携帯を放り投げた。

そして、胃がかき乱されるような強烈な吐き気に襲われ、堪えきれず洗面所へ駆け込んだ。嘔吐は止まらなかった。

……

夜が明けて。

明澄は、いつも通り会社に向かった。

誠司と電撃結婚した当初、彼は彼女に家庭に入ることを望んでいた。しかし、明澄は自立を望んだ。

誠司はしぶしぶそれを受け入れたが、他所で働くことは認めず、自分の傍に置いて小さな補佐をさせていた。実際のところ、彼女の仕事はお茶を淹れたり雑務をこなしたりする程度だった。

重要な案件は、すべて特別補佐の洲崎牧人に任せていた。

会社の中で、明澄の正体を知っているのは洲崎ただ一人だった。

藤原グループの社長室では、これまで男性アシスタントしか採用されたことがなかった。そんな中、ここ2年間唯一の女性として残っているのが明澄だった。そのため社内では密かに囁かれていた――明澄と藤原社長の関係は、単なる上司と部下以上のものなのかもしれない、と。

だが、時が経つにつれて誰もが気づき始めた。藤原社長は、明澄に対して特別な態度をとることがまるでなかったのだ。それがかえって社内の彼女への目を冷たくさせた。

色仕掛けで取り入ったところで、長く続くはずがない――そんな軽蔑の眼差しが向けられていた。

そのとき、同僚が一枚の書類を手渡しながら、「これ、社長室に届けてくれない?」と頼んできた。

昨夜、宴は帰宅しなかった。そして彼が帰らなかったあの夜、明澄もまた一睡もできずにいた。

電話の向こうにいたあの女は――誰? まさか、彼と一晩一緒に過ごしていたの?そんな疑念が頭の中を渦巻く。

答えはもう、ほとんど見えていた。それでも、彼女は認めたくなかった。認めたら、崩れてしまいそうで……

人は結局、痛い思いをしないと目が覚めないのかもしれない。

今の彼女の心は、嵐のあとの海のように静かだった。明澄は思った――もう、どうなってもいい。ただ、ひとつの答えが欲しい。それが、十年の片想いに終止符を打つための最後の一歩になるのだから。

彼女は落ち着いた様子でエレベーターのボタンを押し、上階へ向かった。降りる直前には髪を軽く整え、自分の状態が万全であることを確かめた。

藤原社長室の前にたどり着いたそのとき、少し開いたマホガニーの扉の隙間から聞こえてきた男の声に、思わず立ち止まる。

「お前、本当に明澄さんのこと、好きなのか?」

話していたのは誠司の幼なじみ、河合延真だった。

「何が言いたいんだ」誠司の声は冷たく澄んでいた。

河合は小さく舌打ちした。「俺は明澄さん、いい子だと思うけどな。お前の好みじゃないのか?」

「なら、お前に紹介してやるよ?」男は軽く投げるように返した。

「やめとくよ」

部屋の中から聞こえてきた河合の嘲るような笑い声が、ひどく耳に刺さった。

彼らは彼女のことを、まるで何かのモノでも扱うかのように語っていた……

明澄の呼吸が一瞬詰まる。資料を握る手に力が入り、ひんやりとした汗が掌ににじむ。

ほどなくして、再び河合延真の声が聞こえた。

「雪乃さんのあの報道のスキャンダル相手って……お前だろ!」

「ああ」

「へえ、お前もずいぶん必死だな。彼女を喜ばせるためなら、何でも差し出すってわけか」

河合は感慨深げにそう言い、さらにからかうように続けた。「昨夜は雪乃さんとずっと一緒だったんだろ?久々の再会でまるで新婚みたいだったんじゃないか?もしかして……ヘヘ、ってさ」

その瞬間、明澄の頭上に雷鳴が轟いたようだった。

顔から血の気が引き、身体の芯まで凍りつくような冷たさが全身を包み込む。

一夜――!

久々の再会でまるで新婚みたい!

一文字一文字が刃となって、明澄の胸に深く突き刺さった。

頭の中では無数の声が渦巻き、叫び合い、視界がぐらりと揺れる。目の前の景色がぼやけていき、音も、遠く、霞んで聞こえなくなっていく。

この場から逃げ出したい――そう思った瞬間、カチャ、と音を立てて扉が開いた。

「明澄さん?」

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