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愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった の小説カバー

愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった

結婚して二年の月日が流れた頃、白川明澄の元に届いたのは非情な離婚届だった。絶望の淵で交通事故に遭い、鮮血に染まりながら夫の藤原誠司に助けを求めるが、彼の腕が抱きしめていたのは彼女ではなく、彼の初恋の女性だった。愛する人の裏切りを目の当たりにし、お腹の子供と共に命の灯火が消えゆく中、明澄は静かにその生涯を閉じたはずだった。それから数年の時が過ぎ、誠司にとって「白川明澄」という名は、触れることのできない禁忌の言葉となっていた。しかし、死んだはずの彼女が別の男性と華やかな結婚式を挙げようとしているその時、誠司は会場に現れ、激しい激情と共に叫ぶ。「俺の子供を連れたまま、一体誰と結ばれるつもりだ?」と。一度は完全に断ち切られたはずの愛の絆。しかし、その関係に終止符を打ったのは、果たしてどちらだったのか。失われた過去と隠された真実が交錯し、二人の運命は再び激しく動き出す。裏切りと未練、そして執着が織りなす、切なくも残酷な再会から始まる物語。
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3

男のすらりとした姿が遠くから歩み寄ってきたかと思えば、大股で彼女の前を通り過ぎた。ほんの一瞬の躊躇すらなく。

見えていなかったのか、それとも……見て見ぬふりをしたのか。

けれど白川明澄には見えた。彼の腕の中にいたあの若い女性――ニュースで見覚えのある顔そのものだった。

――小林雪乃、その人だった。

明澄は重たい足取りで病院をあとにした。

魂が抜け出した後の抜け殻のようだった。何も感じられない。思考さえ凍りついてしまう。

タクシーの中で、運転手が行き先を尋ねてきた。

簡単なはずのその問いに、明澄はしばらく答えられなかった。

清樾荘には戻りたくなかった。きっとあの家は、もうすぐ自分の居場所ではなくなるのだろう……

少し間を置いてから、彼女はぽつりと告げた。「……すみません、清水ヶ浜までお願いします」

清水ヶ浜のマンションは、彼女が結婚後に自分で購入した物件だった。

あの頃、いずれ祖母を引き取って一緒に暮らすつもりで、ローンを組んで69平米の部屋を買った。決して広くはないが、二人で住むには十分だった。

そのとき藤原誠司は理解できないと首を傾げ、「もっと大きな家をプレゼントするよ」と言ってきたが、彼女はそれをきっぱり断った。

――今思えば、それが彼女の人生で唯一、正しかった選択だったのかもしれない。

マンションの前に着いても、すぐには中に入らず、公園のベンチに腰を下ろし、冷たい風に身をさらした。少しでも、このぼんやりとした心が、風に吹き飛ばされてくれればと願っていた。

これまでの時を振り返れば、甘さもあったし、苦さもあった。

二年――

七百日以上を共に過ごしてきた。

心というものは、たとえ石のように冷たくても、時間をかけて抱きしめれば、いつか温まるものだと信じていた。

けれど今は、耳元に無数の嘲笑が渦巻いているようだった。――「全てはお前の愚かな片思いに過ぎなかった」と。

夜も更けて、ようやく明澄はマンションの階へと上がった。

エレベーターを出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、部屋の前に立つ藤原誠司の姿だった。

シャツの袖を無造作にまくり、襟元のボタンを二つ外したその姿は、すらりと伸びた首筋と、端正な鎖骨の一部をあらわにしていた。そこにただ立っているだけで、清らかで爽やかで、そして、あまりにも――魅力的だった。

明澄は、数秒間その場に立ち尽くした。

――彼、藤原誠司は……病院で小林雪乃のそばにいたはずでは?

どうしてここに?

二人の視線が重なった。誠司は、片手に外套を引っかけながら、もう一方の手をポケットに突っ込み、やや細めた目で彼女を見つめていた。

「……電話、なんで出ない?」

その声には冷ややかな響きがあり、眠っていないせいか、どこか苛立ちすら滲んでいた。

明澄は慌ててスマートフォンを取り出す。画面を見ると、いつの間にか消音モードになっていたようだった。

そこには、誠司からの不在着信が五件――並んでいた。

二年間で、こんなことは初めてだった。

誠司が、彼女を探して、これほど何度も電話をかけてきたのは――

もしこれが以前のことだったら、明澄はきっと飛び上がって喜んでいたに違いない。宝くじに当たるよりも、何倍も嬉しかったはずだ。

けれど今は違う。彼女はスマートフォンをバッグに放り戻すと、壁にもたれかかり、かすれた声でつぶやいた。「……聞こえなかったの」

誠司は腕を上げ、伏し目がちに腕時計を見やった。その口調には、うっすらと苛立ちが滲んでいた。「……二時間、探した」

彼は小林雪乃を病院に送り届けたあと、帰宅したが、家はもぬけの殻だった。幾度かけても電話は通じず、ついには洲崎牧人に頼んで、彼女が会社を出てからの監視カメラの映像まで確認させた。

まさか、何の一言もなく清水ヶ浜に戻っていたとは――

「今後、出かけるときは一言知らせろ!さあ、帰るぞ」 誠司は、彼女に背を向けると、そのまま振り返りもせずにエレベーターの方へ歩き出した。

……つまり、行き先は清樾荘だということだ。

彼のしなやかで堂々とした背中を見つめながら、明澄の胸に、ほんのわずかな未練と欲がよぎった。

――これからも、私たちは“夫婦”でいられるのだろうか。

けれど……

誠司が途中で振り返り、彼女が動かずに立ち尽くしているのを見て、苛立ち混じりに眉をひそめた。「……抱きに来てほしいのか?」

頭上のセンサーライトが彼の顔を照らし出し、完璧に整ったその容姿に、一片の隙もなかった。

……なのに。明澄は深く息を吸い込み、まっすぐ彼を見つめた。「誠司……私たち、離婚しましょう」

「……今の、どういう意味だ」

誠司の声は冷えきっていて、その端正な顔立ちが一瞬、翳りを帯びた。

「実家に戻る。どうせすぐに私たちの関係もなくなるんだから」

明澄は無理やり笑みを浮かべようとした。けれど胸の奥では、どうしようもない痛みが渦巻いていた。誰かが心臓をぎゅっと掴んで、乱暴に引き裂いているみたいに。

「……関係?」

誠司は口の端を引き上げて、ひどく冷たい笑みを浮かべた。「明澄、お前の目には、俺たちが“どんな関係”に見えてた?」

その問いに、明澄は息を飲み、言葉を失った。

そうだ。最初から誠司は、一貫して姿勢を崩していなかった。――契約結婚。情は交わさない。ただの取り決め。世間から見れば、二人はただの仕事上の関係者。いや、それ以下かもしれない。

彼は今もなお、北城市で最も注目される“独身貴族”。数えきれないほどの名家の令嬢たちが、彼の隣を狙って競い合っている。

……今、彼がああして“関係”を口にしたのは、もしかして――私が、彼にしがみつくつもりだとでも思ってるの?

そんな疑念が胸をよぎり、明澄は唇を噛みしめた。喉の奥にせり上がってくる苦みを、どうにか押し込めるようにしてから、きっぱりと言った。「……ごめんなさい、藤原社長。私の勘違いでした。どうぞ、お引き取りください。清水ヶ浜には、もう来ないでください」

言い終えた瞬間、我慢していた涙がにじんだ。こらえきれずに、目の端がじわりと赤く染まっていく。

――だって、簡単に割り切れるはずがない。相手は、十年も愛し続けてきた人なのだ。

それでも――たとえ心臓が千切れるほど痛んでも、彼女はその手を離すしかなかった。

これ以上、自分自身を“哀れな笑いもの”にしたくなかった。

廊下のセンサーライトが、ぱちぱちと不安定に点滅していた。

その淡い光の中で、誠司は目を細め、唇をきつく閉ざしたまま微動だにしない。全身から、鋭く刺さるような、危うい空気を放っていた。

多少のわがままなら目をつぶってきた。けれど、今回ばかりは——明らかに一線を越えていた。

今にも噴き出しそうだった怒りは、彼女の瞳にうっすらと滲む光を見た瞬間、ほとんどが消えた。誠司は声を潜めて言った。「もし、宗明日香のことが原因なら——」

「関係ないわ。藤原社長、お引き取りください」

彼らの間には、宗明日香どころではない深い溝があった。

明澄は疲れていた。返す言葉もなく、彼を避けるようにしてドアノブを握り、中へ入ろうとする。

そんな彼女の態度に、誠司は苛立ちを隠せなかった。何を言っても跳ね返される、この壁のような無関心。

彼はネクタイを乱暴に引き緩め、一歩踏み出すと、彼女の手首を強く掴んだ。逃がさぬよう、しっかりと——

「……もう、いい加減にしろよ」

次の瞬間、彼の眉がさらに深く寄る。そして迷いなく、彼女の肩を抱き寄せると、そのままくるりと体の向きを変え——強く、胸の中に閉じ込めた。

抱きしめた身体は、まるで焼けた炭を抱えているように熱かった。

「……熱、あるのか?」

明澄は意識が朦朧としていた。火照った頬、霞む視界、そのまま誠司の胸にもたれかかる。足も、もう力が入らない。

空気が、妙な熱を帯びてゆく。

彼が身を屈めて顔を覗き込んでくる仕草は——今にもキスしそうな距離感だった。

明澄の思考はわずかに遅れて動き出す。このままじゃ、まずい——そう気づいた時には、条件反射のように彼の胸を押して、後ろへ下がろうとした。

けれど、動く前に、腰を強く引き寄せられる。彼の腕に絡め取られ、また抱き戻されてしまった。誠司の顔には冷たい影。沈んだ声が低く響く。「……何から逃げてる」

頭上の照明がわずかに揺れた。次の瞬間、明澄の身体はふわりと宙に浮く。気づけば、誠司の腕の中で横抱きにされていた。

彼は一切の躊躇もなく、そのままエレベーターへと歩き出す。

熱に浮かされた頭で、明澄は小さく声を漏らした。「……何するの」

誠司は眉間にうっすらと皺を寄せた。「病院だ」

「だめ!」

叫ぶようなその声で、一気に意識が冴えわたる。

——点滴なんかされたら、お腹のこの小さな命が、守れなくなる!

——たとえ、この子が望まれない存在だとしても。それでも、お腹の中にいる限り、自分はこの子の母親だ。だからこそ、守らなければならない。命を、どんな形であれ——

明澄は必死に誠司の腕の中でもがいた。けれど、彼の力はあまりに強く、両腕でしっかりと抱きしめられていて、逃れる隙などどこにもない。

「……病気なら、医者に診てもらうべきだ」 その声は冷たくも揺るがず、決して反論を許さない響きだった。

誠司は彼女の抵抗を意にも介さず、そのままエレベーターへ向かって歩き出す。心臓が、喉元まで跳ね上がる。だめ、こんなことになったら——!明澄は咄嗟に彼の腕にすがりついた。涙交じりの声が、息を詰めるようにして漏れた。

「……病院だけは……だめなの!」

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