
愛を諦めたあの日、彼はまだ私を手放していなかった
章 3
男のすらりとした姿が遠くから歩み寄ってきたかと思えば、大股で彼女の前を通り過ぎた。ほんの一瞬の躊躇すらなく。
見えていなかったのか、それとも……見て見ぬふりをしたのか。
けれど白川明澄には見えた。彼の腕の中にいたあの若い女性――ニュースで見覚えのある顔そのものだった。
――小林雪乃、その人だった。
明澄は重たい足取りで病院をあとにした。
魂が抜け出した後の抜け殻のようだった。何も感じられない。思考さえ凍りついてしまう。
タクシーの中で、運転手が行き先を尋ねてきた。
簡単なはずのその問いに、明澄はしばらく答えられなかった。
清樾荘には戻りたくなかった。きっとあの家は、もうすぐ自分の居場所ではなくなるのだろう……
少し間を置いてから、彼女はぽつりと告げた。「……すみません、清水ヶ浜までお願いします」
清水ヶ浜のマンションは、彼女が結婚後に自分で購入した物件だった。
あの頃、いずれ祖母を引き取って一緒に暮らすつもりで、ローンを組んで69平米の部屋を買った。決して広くはないが、二人で住むには十分だった。
そのとき藤原誠司は理解できないと首を傾げ、「もっと大きな家をプレゼントするよ」と言ってきたが、彼女はそれをきっぱり断った。
――今思えば、それが彼女の人生で唯一、正しかった選択だったのかもしれない。
マンションの前に着いても、すぐには中に入らず、公園のベンチに腰を下ろし、冷たい風に身をさらした。少しでも、このぼんやりとした心が、風に吹き飛ばされてくれればと願っていた。
これまでの時を振り返れば、甘さもあったし、苦さもあった。
二年――
七百日以上を共に過ごしてきた。
心というものは、たとえ石のように冷たくても、時間をかけて抱きしめれば、いつか温まるものだと信じていた。
けれど今は、耳元に無数の嘲笑が渦巻いているようだった。――「全てはお前の愚かな片思いに過ぎなかった」と。
夜も更けて、ようやく明澄はマンションの階へと上がった。
エレベーターを出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、部屋の前に立つ藤原誠司の姿だった。
シャツの袖を無造作にまくり、襟元のボタンを二つ外したその姿は、すらりと伸びた首筋と、端正な鎖骨の一部をあらわにしていた。そこにただ立っているだけで、清らかで爽やかで、そして、あまりにも――魅力的だった。
明澄は、数秒間その場に立ち尽くした。
――彼、藤原誠司は……病院で小林雪乃のそばにいたはずでは?
どうしてここに?
二人の視線が重なった。誠司は、片手に外套を引っかけながら、もう一方の手をポケットに突っ込み、やや細めた目で彼女を見つめていた。
「……電話、なんで出ない?」
その声には冷ややかな響きがあり、眠っていないせいか、どこか苛立ちすら滲んでいた。
明澄は慌ててスマートフォンを取り出す。画面を見ると、いつの間にか消音モードになっていたようだった。
そこには、誠司からの不在着信が五件――並んでいた。
二年間で、こんなことは初めてだった。
誠司が、彼女を探して、これほど何度も電話をかけてきたのは――
もしこれが以前のことだったら、明澄はきっと飛び上がって喜んでいたに違いない。宝くじに当たるよりも、何倍も嬉しかったはずだ。
けれど今は違う。彼女はスマートフォンをバッグに放り戻すと、壁にもたれかかり、かすれた声でつぶやいた。「……聞こえなかったの」
誠司は腕を上げ、伏し目がちに腕時計を見やった。その口調には、うっすらと苛立ちが滲んでいた。「……二時間、探した」
彼は小林雪乃を病院に送り届けたあと、帰宅したが、家はもぬけの殻だった。幾度かけても電話は通じず、ついには洲崎牧人に頼んで、彼女が会社を出てからの監視カメラの映像まで確認させた。
まさか、何の一言もなく清水ヶ浜に戻っていたとは――
「今後、出かけるときは一言知らせろ!さあ、帰るぞ」 誠司は、彼女に背を向けると、そのまま振り返りもせずにエレベーターの方へ歩き出した。
……つまり、行き先は清樾荘だということだ。
彼のしなやかで堂々とした背中を見つめながら、明澄の胸に、ほんのわずかな未練と欲がよぎった。
――これからも、私たちは“夫婦”でいられるのだろうか。
けれど……
誠司が途中で振り返り、彼女が動かずに立ち尽くしているのを見て、苛立ち混じりに眉をひそめた。「……抱きに来てほしいのか?」
頭上のセンサーライトが彼の顔を照らし出し、完璧に整ったその容姿に、一片の隙もなかった。
……なのに。明澄は深く息を吸い込み、まっすぐ彼を見つめた。「誠司……私たち、離婚しましょう」
「……今の、どういう意味だ」
誠司の声は冷えきっていて、その端正な顔立ちが一瞬、翳りを帯びた。
「実家に戻る。どうせすぐに私たちの関係もなくなるんだから」
明澄は無理やり笑みを浮かべようとした。けれど胸の奥では、どうしようもない痛みが渦巻いていた。誰かが心臓をぎゅっと掴んで、乱暴に引き裂いているみたいに。
「……関係?」
誠司は口の端を引き上げて、ひどく冷たい笑みを浮かべた。「明澄、お前の目には、俺たちが“どんな関係”に見えてた?」
その問いに、明澄は息を飲み、言葉を失った。
そうだ。最初から誠司は、一貫して姿勢を崩していなかった。――契約結婚。情は交わさない。ただの取り決め。世間から見れば、二人はただの仕事上の関係者。いや、それ以下かもしれない。
彼は今もなお、北城市で最も注目される“独身貴族”。数えきれないほどの名家の令嬢たちが、彼の隣を狙って競い合っている。
……今、彼がああして“関係”を口にしたのは、もしかして――私が、彼にしがみつくつもりだとでも思ってるの?
そんな疑念が胸をよぎり、明澄は唇を噛みしめた。喉の奥にせり上がってくる苦みを、どうにか押し込めるようにしてから、きっぱりと言った。「……ごめんなさい、藤原社長。私の勘違いでした。どうぞ、お引き取りください。清水ヶ浜には、もう来ないでください」
言い終えた瞬間、我慢していた涙がにじんだ。こらえきれずに、目の端がじわりと赤く染まっていく。
――だって、簡単に割り切れるはずがない。相手は、十年も愛し続けてきた人なのだ。
それでも――たとえ心臓が千切れるほど痛んでも、彼女はその手を離すしかなかった。
これ以上、自分自身を“哀れな笑いもの”にしたくなかった。
廊下のセンサーライトが、ぱちぱちと不安定に点滅していた。
その淡い光の中で、誠司は目を細め、唇をきつく閉ざしたまま微動だにしない。全身から、鋭く刺さるような、危うい空気を放っていた。
多少のわがままなら目をつぶってきた。けれど、今回ばかりは——明らかに一線を越えていた。
今にも噴き出しそうだった怒りは、彼女の瞳にうっすらと滲む光を見た瞬間、ほとんどが消えた。誠司は声を潜めて言った。「もし、宗明日香のことが原因なら——」
「関係ないわ。藤原社長、お引き取りください」
彼らの間には、宗明日香どころではない深い溝があった。
明澄は疲れていた。返す言葉もなく、彼を避けるようにしてドアノブを握り、中へ入ろうとする。
そんな彼女の態度に、誠司は苛立ちを隠せなかった。何を言っても跳ね返される、この壁のような無関心。
彼はネクタイを乱暴に引き緩め、一歩踏み出すと、彼女の手首を強く掴んだ。逃がさぬよう、しっかりと——
「……もう、いい加減にしろよ」
次の瞬間、彼の眉がさらに深く寄る。そして迷いなく、彼女の肩を抱き寄せると、そのままくるりと体の向きを変え——強く、胸の中に閉じ込めた。
抱きしめた身体は、まるで焼けた炭を抱えているように熱かった。
「……熱、あるのか?」
明澄は意識が朦朧としていた。火照った頬、霞む視界、そのまま誠司の胸にもたれかかる。足も、もう力が入らない。
空気が、妙な熱を帯びてゆく。
彼が身を屈めて顔を覗き込んでくる仕草は——今にもキスしそうな距離感だった。
明澄の思考はわずかに遅れて動き出す。このままじゃ、まずい——そう気づいた時には、条件反射のように彼の胸を押して、後ろへ下がろうとした。
けれど、動く前に、腰を強く引き寄せられる。彼の腕に絡め取られ、また抱き戻されてしまった。誠司の顔には冷たい影。沈んだ声が低く響く。「……何から逃げてる」
頭上の照明がわずかに揺れた。次の瞬間、明澄の身体はふわりと宙に浮く。気づけば、誠司の腕の中で横抱きにされていた。
彼は一切の躊躇もなく、そのままエレベーターへと歩き出す。
熱に浮かされた頭で、明澄は小さく声を漏らした。「……何するの」
誠司は眉間にうっすらと皺を寄せた。「病院だ」
「だめ!」
叫ぶようなその声で、一気に意識が冴えわたる。
——点滴なんかされたら、お腹のこの小さな命が、守れなくなる!
——たとえ、この子が望まれない存在だとしても。それでも、お腹の中にいる限り、自分はこの子の母親だ。だからこそ、守らなければならない。命を、どんな形であれ——
明澄は必死に誠司の腕の中でもがいた。けれど、彼の力はあまりに強く、両腕でしっかりと抱きしめられていて、逃れる隙などどこにもない。
「……病気なら、医者に診てもらうべきだ」 その声は冷たくも揺るがず、決して反論を許さない響きだった。
誠司は彼女の抵抗を意にも介さず、そのままエレベーターへ向かって歩き出す。心臓が、喉元まで跳ね上がる。だめ、こんなことになったら——!明澄は咄嗟に彼の腕にすがりついた。涙交じりの声が、息を詰めるようにして漏れた。
「……病院だけは……だめなの!」
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