
再婚相手は元婚約者の宿敵
章 2
芦田結菜 POV:
清彦の言葉が, 私の耳の奥で反響していた. 「結菜にはまだ知ってほしくない」. 彼が私の感情をこれほどまでに軽んじていたことに, 胸が締め付けられる思いだった. 私はドア越しに, 裕子姉さんが清彦に何かを強く訴えているのを聞いた. だが, 私の心には, もう彼の声しか残っていなかった.
その夜, 私は一睡もできなかった. 午前三時頃, 清彦からメッセージが届いた. 「急な出張が入った. 数日戻れない」という短い文面だった. 彼は, 私がもう真実を知ってしまったことも知らず, また私を騙そうとしている. 私の指は震えながら, そのメッセージをゴミ箱に移動させた.
私は荷物をまとめ始めた. クローゼットから自分の服を取り出し, スーツケースに詰める. 七年間, 彼と一緒に選んだ服, 彼がプレゼントしてくれたアクセサリー. それら一つ一つが, 偽りの愛の証拠のように感じられた. 私はそれらを全てゴミ袋に詰め込んだ.
裕子姉さんが部屋を訪れた. 「結菜, 清彦から何か連絡あった? 」私は首を横に振った. 「いいえ, ありません. 姉さん, 私の話を聞いてくれますか? 」私の声は, 自分が思っていたよりもずっと冷たく響いた.
数日後, 私はSNSを開いた. 栞代が新しいウェディングケーキを発表していた. それは, 私のレシピを盗んだ, あのウェディングケーキだった. 彼女は満面の笑みで, 「私の長年の夢が叶った」と投稿していた.
私はコメント欄に, 一言だけ書き込んだ. 「この夢は, 誰かの悪夢の上に成り立っている. 」
栞代からの返信はすぐに来た. 「アラ? 結菜ちゃん, まだそんな古いケーキに執着しているの? 時代は常に進化しているのよ. 」彼女の言葉は, 私を嘲笑っているようだった.
私はSNSを閉じた. もう, 何一つ見る価値もない. 心の中には, 深い絶望と, 小さな, しかし確かな怒りが燃え上がっていた. 私はこの家から, 彼の人生から, 完全に消え去ることを決意していた.
清彦が帰ってきたのは, 一週間後の夜だった. 彼は玄関に入るとすぐに, 家の中の変化に気づいたようだった. 私の洋服や私物が入っていたはずの場所が, がらんとしている.
「結菜, どうしたんだ? 何かあったのか? 」彼の声には, 僅かな戸惑いと, 苛立ちが混じっていた.
私はリビングのソファに座り, 彼の方を見ずに答えた. 「何もありません. 少し模様替えをしただけです. 」
彼は私の隣に腰を下ろした. ぎこちない沈黙が流れた. 彼の指先が, 私の腕に触れようとした瞬間, 私は身を引いた.
「結菜, 疲れているのか? 顔色が悪い. 」彼は心配そうな顔をしている. その表情が, 私には演技にしか見えなかった.
「もうすぐ世界的なコンクールがあるんだ. 君のウェディングケーキがあれば, きっと大成功する. 」彼は私の手を取り, 懇願するように言った. 「君の最高の作品を, 私に貸してほしい. 」
私の心の中で, 何かが音を立てて砕け散った. 彼はまだ, 私を騙し続けようとしている. 私が既に真実を知っていることさえ, 気づいていない. 私は彼の言葉を聞きながら, 心の中で彼に冷酷な評価を下していた. 彼はただ, 私の才能を利用したいだけなのだ. 私への愛など, 最初から存在しなかったのだ.
「清彦さん, 私にはもう, あなたのために作るケーキはありません. 」私は彼の目を真っ直ぐに見つめて言った.
彼は驚いたように目を見開いた. 「どうしたんだ? 急に. 何か不満があるなら言ってくれ. 」
「不満? ええ, たくさんあります. 私がこの七年間, あなたのためにどれほどの犠牲を払ってきたか, あなたは本当に理解していますか? 」私の声は静かだったが, その中に隠された怒りは, 私自身も恐ろしいほどだった.
彼はすぐに私の感情を誤解したようだった. 「そうか, 君はウェディングケーキのことか. 分かった, コンクールが終わったら, すぐに君のために豪華な結婚式を挙げよう. パリの有名ブランドのドレス, 君がずっと欲しがっていたあの限定品のティアラも. 」彼は私の頬を優しく撫でた.
彼は私の心を全く見ていなかった. 私の心の痛みも, 彼の裏切りでどれほど深く傷ついたかも. 彼はただ, 物質的なもので私を操ろうとしている. 私は彼の手を振り払った.
「清彦さん, 私をどこかに連れて行ってくれませんか? 」私は言った.
彼は少し驚いたようだったが, すぐに表情を和らげた. 「ああ, もちろんだ. どこへでも連れて行こう. 」
私は彼の車に乗り込んだ. 心の中で, これが彼との最後のドライブになるだろうと確信していた. 車が夜の道を走り始めた時, 突然彼の携帯電話が鳴った.
「もしもし, 栞代? 一体どうしたんだ? 」彼の声が, 私の耳に鋭く突き刺さった.
栞代の声が電話の向こうから聞こえる. 「清彦さん, 私, 事故に遭っちゃった…」それは弱々しく, しかしはっきりと聞こえた.
清彦の顔色が変わった. 「何? 事故だって? どこだ! 」彼はハンドルを急旋回させ, 車は危険なスピードで方向を変えた. 私の体はシートに強く押し付けられた.
「落ち着いてください, 清彦さん! 危ない! 」私は叫んだ.
だが, 彼は私の声を全く聞いていなかった. 彼の目は血走り, 完全に栞代のことしか見ていないようだった. 車は猛スピードで夜の道を駆け抜ける. そして次の瞬間, 鈍い衝撃音と共に車体が大きく揺れた. 私の頭が窓に強く打ち付けられ, 目の前が真っ暗になった. 意識が朦朧とする中, 私は清彦の叫び声を聞いた. それは, 私の名前ではなく, 栞代の名前だった.
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