
大統領の妻をやめたら、マフィアのドンがパパでした。
章 2
しかし、彼女の平手が振り下ろされる直前、その手首は大きな手によってがっしりと掴まれた。
まるで万力のような力だった。
藤堂柚が顔を上げると、冷ややかな長谷川彰の瞳と真正面からぶつかった。
「正気か!」彰の声には、逆らうことを許さない威厳が満ちていた。「ここは御霊前だぞ。一体何をするつもりだ!」
柚は目を真っ赤に充血させて彼を睨みつけ、「放して」と声を絞り出した。
「自分が今、何をしようとしたか分かっているのか?」彰は声を低くした。「詩織は善意で弔問に来てくれたんだ。それを殴ろうとするなんて。このことが外に漏れたら、世間はお前をどう見ると思う?」
善意……ね。
柚にとって、その言葉はあまりにも滑稽で、荒唐無稽だった。
彼の目には、柏木詩織は永遠に優しく善良で、忘れられない純真な女性なのだ。そして自分、柚は、ただの理不尽で厄介な存在に過ぎない。
柚の声は震え、一言一言が喉の奥から無理やり絞り出されるようだった。
「聞かせて。どうして……。どうして、母が待ち望んでいた心臓を、詩織に渡したの?」
その言葉が発せられた瞬間、霊堂にいた弔問客たちは皆、息を呑んだ。
彰の眉が、ほとんど気づかれないほどわずかに動いた。
弔問客たちは場の空気が尋常でないことを察し、皆、気を利かせてそっとその場を離れていった。広々とした霊堂には、彼ら数人だけが残された。
「何を言っている?」彰の声は、依然として落ち着き払っていた。「心臓だと?」
柚は彼をじっと見つめ、爪が手のひらの柔らかい肉に深く食い込んだ。
「去年の11月、中央総合病院で。本来、母に適合するはずだった心臓――あなたが自分の権力とコネを使って、それを詩織に回したんでしょう?」
彰は、2秒ほど沈黙した。
彼はその出来事を思い出したようで、口調がいくらか和らいだ。
「あの時、詩織が突然心臓発作を起こして、非常に危険な状態だったんだ。緊急で移植手術が必要だった。そして、その心臓が彼女に最も適合していた……」
「じゃあ、母の状態は危険じゃなかったとでも言うの?」 柚は彼の言葉を遮った。「母はその心臓を八ヶ月も待っていたのよ!医者は、いつ心不全で亡くなってもおかしくないって言っていたのに!」
最後の言葉は、ほとんど叫び声だった。
彰の喉仏が上下に動いた。
彼は涙に濡れた柚の顔を見つめ、心臓が締め付けられるのを感じた。唇を動かし、言った。「……知らなかった」
「君のお母さんが心臓移植を待っていることは知っていた。だが、彼女の状態が……。そこまで深刻だとは本当に知らなかったんだ。 まだ待機リストにいて、時間があるものだとばかり思っていた。 詩織の当時の状況はもっと緊急で、医者は48時間もたないかもしれないと言っていたんだ」
その時、詩織が顔を上げ、その瞳はすぐに涙で潤んだ。
「柚、ごめんなさい。本当にごめんなさい……。伯母様もその心臓を待っていたなんて、知らなかったんです。 もし知っていたら、絶対に――」
「絶対に何?」 柚は鋭く彼女に顔を向けた。その視線は、まるで刃物のように鋭かった。「さっき私にこっそり言ったこと、皆の前でもう一度言ってみる度胸はある?」
詩織の顔色は瞬時に青ざめ、か細い声が震えた。
「藤堂さん、お母様を亡くされて、とてもお辛いお気持ちなのは分かります。でも、そんなふうに私を中傷しないでください……。私は本当に、伯母様を弔問しに来ただけなんです……」
「ごめんなさい、全部私のせいなんです……」
掌に乗るほどの小さな顔に涙の雫を浮かべ、その姿はどこまでも楚々として可憐だった。
彼女の体はふらつき始め、今にも気を失って倒れそうに見える。
「詩織!」彰は素早く反応し、彼女を支えた。
詩織は弱々しく彼の腕に寄りかかり、唇をわずかに動かした。「藤堂さん……。ごめんなさい……。私……。とても苦しい……」
言い終わると、詩織は力を失い、その場に倒れ込んだ。
「詩織!」彰の声に、焦りが滲んだ。
詩織は彼の腕の中でぐったりと寄りかかり、その顔は血の気が失せて真っ白だった。
彰は柚に視線を向けた。その瞳は冷たく、鋭かった。「君は本当に、どうしようもない女だな」
そう言うと、彼は身をかがめて詩織を抱き上げ、霊堂の出口へと向かおうとした。
柚は彼の前に立ち、静かな声で言った。「長谷川彰、私たち、離婚しましょう」
詩織を抱きかかえていた彰の体が、その場で硬直した。
「何だと?」
「あなたは、ずっと彼女を忘れられなかったんでしょう?」 柚の声は、波1つ立てずに静かだった。「あなたたちを自由にしてあげる。もう、自由よ」
「藤堂柚、よく考えろ」彼の声は低く、怒りを押し殺した雷鳴のように響いた。
「よく考えたわ」
彰は数秒間彼女を見つめ、ふと冷笑を浮かべた。「いいだろう。 後悔するなよ。 あの時、君が俺の祖父を助けてくれた。その恩に報いるために、俺は君と結婚したんだ。 今日から、俺たちの間はこれで終わりだ。お互い、貸し借りなしだ」
そう言い放つと、彼は詩織を抱きかかえ、大股で霊堂を後にした。
黒いマイバッハがエンジンをかけ、ゆっくりと屋敷の敷地から出ていく。
門の外で様子をうかがっていた親戚たちは慌てて道を譲り、小声で噂話を始めた。
霊堂には再び静寂が戻った。
柚は、その場に立ち尽くし、車が門の向こうに消えていくのを見つめていた。
誰も知らない。先ほどの、何気ない会話のように見えたやり取りが、3年にわたる結婚生活に終止符を打ったことを。 そして誰も知らない。彼女が彼の妻だったことを――いや、これからは、元妻だ。
彼女は振り返り、母の遺影の前に歩み寄った。母の穏やかな笑顔を見つめ、ついに涙が止めどなく溢れ出した。
「お母さん、ごめんなさい……。親不孝な娘でごめんなさい……。お母さんが待ち望んでいた心臓さえ、守ってあげられなかった……」
彼女は膝から崩れ落ち、冷たい床に額を押し当てて、肩を激しく震わせた。
門の外からため息が聞こえ、誰かが首を振った。
「あの子、本当に可哀想に。お母さんを亡くしたばかりなのに、旦那さんにはあんなに冷たくされて……」
「あの女、どう見ても仮病でしょう……。あんな都合よく倒れるなんて……」
「でも、あの方は柏木家のお嬢様よ。大統領ともあろう方が、あちらを特別扱いするのは当然だわ」 「柚なんて、何者でもない。親もいない孤児じゃない……」
「声が大きいわよ……」
柚は、そんな噂話には耳を貸さなかった。
存分に泣いた後、彼女はゆっくりと顔を上げ、涙を拭った。
首にかけていた翡翠のペンダントが、服の中から滑り落ちた。
彼女はそのペンダントを見つめ、母が亡くなる前に言った言葉を思い出した。
「柚、このペンダントはあなたの本当の両親が残した形見よ。 あなたは私の実の娘じゃない。私が引き取った子なの。 私が死んだら、必ず自分の家族を探すのよ」
(だから、自分は藤堂家の娘ではなかったのだ)
柚はペンダントを強く握りしめた。その瞳の奥で、何かがゆっくりと冷たく凍てついていった。
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