
大統領の妻をやめたら、マフィアのドンがパパでした。
章 3
母の葬儀を終えた藤堂柚は、自分の住まいに戻った。
そこは、彼女が3年間暮らした場所――郊外の人里離れた場所に建つ1軒家だった。
1軒家とは名ばかりで、実際には長谷川彰が所有する数ある不動産の中でも最も目立たない物件の1つに過ぎない。立地は不便で、周りには何もなかった。
彼女は主寝室のドアを開け、荷造りを始めた。
私物は多くない。数着の着替えを除けば、何も持っていく気はなかった。
3年間暮らしたこの寝室には、彼女自身の痕跡が何1つ感じられなかった。
「奥様、何をなさっているのですか?」ドアの向こうから、 家政婦の宮田さんの驚いた声が聞こえた。
柚は顔を上げずに答えた。「荷造りよ。 ここを出ていくの」
宮田はその場に立ち尽くし、複雑な表情を浮かべた。
彼女はこの屋敷で3年間働いてきたが、彰に会ったことはほとんどない。この3年間、柚がどれほど孤独に長い日々を過ごしてきたかを、彼女は間近で見てきた。
「ですが、旦那様が……」
「すぐに新しい人が私の代わりに来るわ」 柚はスーツケースのファスナーを閉めながら、淡々と言った。
宮田は何かを言おうと口を開いたが、結局何も言えず、黙って部屋を後にした。
柚は3年間暮らした寝室を見渡した。
部屋は単調な白と黒とグレーで統一され、冷たく、まるで彰という男そのものだった。
丸3年。
誰も彼女を訪ねてくることはなかった。唯一そばにいてくれたのは、宮田だけだ。
世間は彼女の存在を知らない。メディアが報じるのは、大統領本人の業績や外交活動ばかり。時折、彼の結婚に関する憶測が流れることもあったが、 そのヒロインが彼女であることは一度もなかった。
その時、階下から突然、尋常ではない物音が聞こえてきた。
柚が部屋を出て階段を下りようとすると、ホールにボディガードたちが2列に整然と並んでいるのが見えた。
彰がその真ん中に立っている。背筋を伸ばし、端正な顔立ちの彼は、人目を引く存在だった。
柚は足を止めた。
彼がここに来るとは、まったく予想していなかった。
この3年間、彼がこの家に戻ってきた回数は、片手で数えられるほどしかない。
スーツケースを引いて階段を下りてくる柚を見て、彰は眉をひそめた。 「どこへ行くつもりだ?」
柚は彼を見ることなく、階段を下り続けた。
彰は数歩で階段を駆け上がり、彼女の前に立ちはだかった。
彼の視線が彼女の持つスーツケースに落ち、その眼差しが険しくなる。「どこへ行くのかと聞いている」
「離婚協議書はもう大統領執務室に届いているはずよ」 柚は静かな声で言った。「署名したら、誰かに私に送らせて。もう会う必要はないわ」
彰は数秒間彼女を見つめ、突然冷笑を浮かべた。
「離婚の話は後だ」彼は反論を許さない口調で命じた。 「今すぐ俺と一緒に柏木詩織に謝りに行くんだ。葬儀での君の態度はあまりにも失礼だった」
柚はついに顔を上げ、彼を見た。
その瞳は、波1つ立たない死んだ水面のように静まり返っていた。
「何ですって?」
「詩織は君に怒鳴られて、心臓発作を起こしかけたんだ。彼女は手術を受けたばかりで、医師から刺激を与えないよう言われている。この件で彼女に非はない。君は彼女に謝罪しなければならない」
柚はスーツケースのハンドルを握る手に、 無意識に力を込めた。
「非がない」――その言葉は、血の滲む傷口に塩を塗り込むようだった。
「彰、詩織に非があるかどうかは、あなた自身が彼女に聞くべきよ。 でも、私は絶対に謝らない。死んでも」
彼女はそう言い放つと、スーツケースを引いて彰のそばを通り過ぎ、前へと進んだ。
「柚!」彰の声が鋭く響いた。「今日、この門を出ていくなら、二度と戻ってくるな!」
柚の足がわずかに止まった。
彼女は振り返らず、ただ静かに答えた。「安心して。最初から戻るつもりなんてないから」
彰は呆然とした。白いワンピースをまとった柚の後ろ姿はか細く、振り返りもしない彼女からは、すべてを諦めたような静けさだけが漂っていた。
「いいだろう、結構だ。そこまで言うなら、時間を無駄にする必要もない」彰は怒りのあまり笑みを浮かべた。「今すぐ離婚協議書に署名しろ。今日から、君はファーストレディではなくなる」 そう言うと、彼は側近に離婚協議書を持ってこさせた。
柚は書類に目を通すことすらなく、直接署名した。
結婚して以来、彰は彼女に無関心だった。世間は彼に妻がいることすら知らず、「ファーストレディ」の存在など、なおさら知る由もなかった。
柚があまりにもあっさりと署名したのを見て、彰の顔色は一瞬で険しくなった。
彼は非常に驚いていた。彼女が離婚を切り出したのは、ただの意地やわがままだと思っていたのだ。まさか本当に署名し、しかも何の条件も提示しないとは。
柚は背筋を伸ばし、脇目も振らずに彼のそばを通り過ぎた。
3年間の愛のない結婚生活は、今や図々しい女に居場所を奪われようとしている。未練など何もない。いっそ、きっぱりと去るまでだ。
「彰、あなたは本当に哀れな人ね。あなたのような人に、本当の愛が手に入ることは永遠にないわ」
その言葉を残し、柚は振り返ることなく去っていった。
その時、数人の大統領府の職員が慌てた様子で駆け込んできた。
「大統領、外に高級車が多数現れ、門を塞いでおります!」
彰はわずかに眉をひそめた。
ここは大統領府の付属施設であり、警備は非常に厳重だ。一般車両がここまで入ってくることはあり得ない。
彰の顔色は険しくなり、怒鳴るように尋ねた。「何者だ?」
職員が答える間もなく、外から1糸乱れぬ足音が聞こえてきた。
1隊の人間が近づいてくるようだ。
柚がドアの方に目をやると――いつの間にか、 黒いスーツを着た男たちが二列に並んで立っていた。
彼らは皆サングラスをかけ、背筋を伸ばし、人を寄せ付けない威圧感を放っている。
その黒服の男たちの真ん中に、1人の若い男が立っていた。
彼は仕立ての良い黒いトレンチコートをまとい、長身で、彫りの深い顔立ちをしていた。その眉間には冷徹な雰囲気が漂い、鷹のように鋭い眼差しと、人を圧倒するほどのオーラを放っている。
しかし、彼の視線が柚に注がれた瞬間、その顔に痛ましさと慈しみの表情が浮かんだ。
「柚、やっと見つけた」
男は彼女を優しく見つめ、何かを言おうとして、唇を震わせた。
柚は呆然とした。「あなたは……?」
彼女は目の前の男に会った覚えはなかった。
だが、なぜか彼が自分を見た瞬間、心臓が跳ねた。
その感覚はとても奇妙だった。
恐怖でも、緊張でもない。
それは……。言葉では言い表せないほどの、不思議な懐かしさだった。
男は口を開いて説明した。「柚、俺は君の兄だ。五十嵐貴臣。迎えに来た」
(兄?)
(自分は夢でも見ているのだろうか?)
(ついに、本当の家族が迎えに来てくれたのだ)
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