
夫の書斎、秘密の報告書
章 2
菊地真理 POV:
翌朝, 私はいつものように目を覚ました. ベッドの隣には, まだ深く眠る成也がいた. 昨夜の衝撃的な真実が, まだ心臓を締め付けている. しかし, 私の顔には一切の感情が表れていないはずだ. 私は仮面を被ることに慣れていた.
洗面台の前で, 私は自分の顔をじっと見つめた. そこには, 完璧に整えられた妻の顔があった. 化粧が, 私自身の感情を隠す盾となる. 鏡の中の私は, もう怯える私ではなかった.
リビングに降りると, テーブルには朝食が並べられていた. いつも通りだ. 私が淹れた紅茶の香りが, 部屋を満たす. 成也が降りてきて, 椅子に座った.
「おはよう, 真理」
彼の声は, 昨夜と変わらない優しさを装っていた. 私はただ, 無言で頷き, 彼のカップに紅茶を注いだ.
「今日はいよいよ乃々紗の発表会だね. 君の作品が世に出るんだ. 嬉しいかい? 」
彼は私の顔を見ずに, 新聞を広げながら言った. 私の作品. 私が夜を徹して, 心を込めて作った香水『エターナル・ラブ』. その香水には, 私たちの愛が永遠に続くようにという, 私の切なる願いが込められていた. しかし, その願いは, 彼の手によって踏みにじられた.
「ええ, もちろんよ. とても光栄だわ」
私は, 乾いた声で答えた. 心の中では, 吐き気がしていた. これは, 私にとって, 彼らの欺瞞に満ちた世界に, 妻として出席する最後の機会となるだろう.
会場に着くと, すでに多くの招待客で賑わっていた. きらびやかな衣装を纏った人々が, シャンパングラスを片手に談笑している. その中心には, もちろん, 乃々紗がいた. 彼女は白いドレスを身にまとい, まるで純真無垢な天使のように微笑んでいる. しかし, 私の目には, その笑顔の裏に隠された醜悪な本性が見えていた.
「乃々紗様, 素晴らしい香水ですね! 」
「一体, どのようにしてこんな香りを生み出されたのですか? 」
周囲の称賛の声が, 乃々紗に降り注ぐ. 「ありがとう存じます. これも, 成也お兄様の支えがあったからこそ. そして, 菊地真理お姉様の助言も, ほんの少しございましたのよ」
乃々紗は, 謙虚を装いながら, 私に視線を向けた. その目は, 一瞬だけ, 悪意に満ちた光を放った. それは, 私に対する勝利宣言のようだった.
私の心臓が, 冷たい氷でできた塊のように感じられた. あの女は, 私の努力を, 私の才能を, 私の人生を, 全て奪い去ろうとしている.
「乃々紗様, 今夜は特に美しいですね」
成也が乃々紗の隣に立ち, その肩に手を置いた. 彼の顔には, 私が滅多に見ることのない, 深く優しい愛情が浮かんでいる. その瞬間, 私の存在は, 彼らの間にある見えない壁によって完全に遮断されたように感じた.
私の視線は, 展示されている香水『エターナル・ラブ』に吸い寄せられた. 洗練されたボトルデザイン. その中に揺れる琥珀色の液体. それは, 私の魂の結晶だった. 私がどれほどの情熱と時間を, この香りに注ぎ込んだか.
「まさか, これが…」
私の唇から, かすれた声が漏れた. それは, 私がかつて成也のために作った, 特別な香水だった. 彼への愛を, 形にしたものだ. それなのに, それが今, 乃々紗の名前で, 世に出されようとしている.
「あら, お姉様, どうかなさいましたの? 」
乃々紗が, 私のすぐ隣に立っていた. 彼女の白い指が, 私の腕に触れる. その触れた場所から, 冷たい悪寒が走った.
「この香水は, まさか…」
私は, 震える声で尋ねた. 乃々紗は, 私の耳元に顔を寄せ, 囁いた.
「ええ, お姉様のために, 私が, 特別に調合したものよ. 成也お兄様が, お姉様が調香師としての才能を枯らさないようにと, 私の名を借りて, 発表を許可してくださったの. 感謝して頂戴ね」
彼女の言葉は, 蜜のように甘く, しかしその裏には, 猛毒が隠されていた. 彼女は, 私の才能を「枯らさないように」という名目で, 私から全てを奪ったのだ.
私の爪が, 手のひらに食い込んだ. 怒りが, 私の血管を煮えたぎらせる. しかし, 私は感情を表に出さない.
「…そう. それは, ありがとう」
私は, 絞り出すような声で言った. その時, 乃々紗が, 突然バランスを崩し, 展示台にぶつかった. 瓶がいくつか倒れ, ガラスが砕け散る音が会場に響き渡った.
「きゃっ! 」
乃々紗は, 小さな悲鳴を上げた. 彼女の手のひらから, 血がにじんでいる. 会場の視線が, 一斉に私たちに集まった.
「乃々紗様! 大丈夫ですか! ? 」
成也が, 乃々紗の元へ駆け寄った. 彼の顔には, 深い心配の色が浮かんでいる. 彼は, 私の存在など, 最初から目に入っていないかのように, 乃々紗の小さな擦り傷を心配している.
「お姉様が, 急に押したから…」
乃々紗は, 成也の腕の中で, か細い声で囁いた. その言葉が, 会場中に響き渡る. 人々の視線が, 私に突き刺さる. 非難, 疑惑, 軽蔑. それらの視線が, 私を貫いた.
「真理! 一体, 何をしていたんだ! 」
成也の声が, 氷のように冷たく, 私の心を凍らせた. 彼は, 私の目を見て, まるで私がこの世で最も忌まわしい存在であるかのように, 私を睨んだ.
「成也さん…私は…」
私は, 何か言い訳をしようとした. しかし, 言葉が喉に詰まって出てこない.
「この香水は, 私が作ったものよ! 乃々紗さん, あなた, 私の作品を盗んだでしょう! 」
私は, 怒りと絶望に震える声で叫んだ. 会場が, 一瞬, 静まり返る.
成也の目が, 驚きに見開かれた.
「真理, 何を言っているんだ. 乃々紗が, 君の作品を奪うわけがないだろう. 乃々紗は体が弱いんだ. 君も知っているだろう? 」
彼はそう言って, 乃々紗を庇った. 彼の言葉は, 私の心を打ち砕く最後のハンマーだった. 彼の目には, 疑念と, 私への失望が混じっていた.
私が作った『エターナル・ラブ』. それは, 私たち二人の永遠の愛を願って作られた. しかし, 今やそれは, 彼らの裏切りの象徴となった.
私の口から, 乾いた笑いが漏れた. それは, 悲しみでも, 怒りでもない, ただの空虚な響きだった.
「ふふふ…あはははは! 」
私の笑い声が, きらびやかな会場に響き渡る. 人々の視線が, 私を狂人を見るように見ている.
成也の顔が, わずかに狼狽の色を帯びた. 彼は私の腕を掴み, 会場から連れ出そうとした.
「真理, 落ち着くんだ. 話は後で聞くから」
彼の言葉には, 今や何の温かみもなかった. 彼の触れる手が, 私には汚れたもののように感じられた.
私は, 彼の腕を振り払った. そして, 彼の目を見つめ, 言った.
「成也さん…お願いがあるの」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
「私と一緒に, 朝日を見に行かない? あの海の別荘で」
それは, 私たちにとって, 最初で最後の, そして最も残酷な, 別れの儀式となるだろう.
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