
夫の書斎、秘密の報告書
章 3
菊地真理 POV:
成也は私の突然の提案に戸惑いながらも, 頷いた. 車の中は, 重苦しい沈黙に包まれていた. エンジンの音が, 私たちの間に広がる壁のように感じられる. 私は窓の外に流れる夜の街並みをぼんやりと眺めていた. 成也は, 時折, 私に視線を投げかけるが, 私はそれに応えなかった.
彼の手に, そっと私の手が重ねられた. その温もりが, 私には何の感情も呼び起こさない. かつては, この手の温かさが, 私をどれほど安心させてくれただろう. しかし, 今では, それはただの偽りの温もりだ.
「真理, すまなかった. 今日の乃々紗のことは…」
成也が, 口を開いた. 彼の声は, 罪悪感に満ちていた.
「いや, いいの」
私は, 彼の言葉を遮った.
「きっと, 私が悪かったのね」
私は, 自嘲するように呟いた. 彼の言葉など, もう私には届かない.
「そんなことはない. 君は, いつも私を支えてくれた. 乃々紗のことは…あの子は体が弱いから, つい, 私も…」
彼の言葉が, 私の耳には, 砂を噛むように響いた. 体の弱い乃々紗. その言葉が, 私の心の中で, 子供を失ったあの日と, 私を救わず乃々紗を優先したあの報告書と結びついた.
「ねぇ, 成也さん」
私は彼の顔を見た. 彼の目は, 私を真っ直ぐに見つめていた.
「もし, 私たちが…あの時, 子供を失わなかったら, どうなっていたと思う? 」
私の言葉に, 成也の顔色が, 一瞬にして青ざめた. 彼は, ハンドルを握る手に力を込めた.
「真理…その話は…」
「怖いの? 」
私は, 冷たい声で尋ねた.
「私たちが, あの時, 無事に子供を授かっていたら, あなたは, 乃々紗を優先したかしら? 」
成也は, 答えなかった. 彼の視線は, 前方の道路に固定されていた. その沈黙が, 私の問いへの答えだった.
一瞬の沈黙の後, 彼の携帯電話が鳴り響いた. 着信画面には, 「乃々紗」の文字.
成也は, 一瞬ためらったが, 電話に出た.
「もしもし, 乃々紗…どうした? 」
彼の声は, 私と話していた時とは打って変わって, 優しい響きを帯びていた. 電話の向こうから, 乃々紗のか細い声が聞こえてくる.
「ええ, 分かった. すぐに駆けつけるよ」
成也は, 電話を切った. 彼の顔には, 再び心配の色が浮かんでいる.
「真理, すまない. 乃々紗が…少し気分が悪いらしくて. すぐに病院に連れて行かないと」
彼は, 私に視線を向けた. その目には, 私への申し訳なさよりも, 乃々紗への心配の方が強く表れている.
「そう…分かったわ」
私は, 静かに答えた. 何の感情も込めていない声だった.
「私は, このまま別荘に向かうわ. あなたは, 乃々紗さんのところに行ってあげて」
成也は, 私の言葉に, 驚いたような顔をした.
「だが, 真理…君一人で…」
「大丈夫よ. 慣れているもの」
私は, 微笑んだ. その笑顔は, 私の心と同じくらい, 冷たいものだった. 成也は, 私の言葉に, 何も言えなかった. 彼は, 私を途中の駅で降ろすと, 乃々紗の元へと車を走らせた. 彼の車のテールランプが, 暗闇の中に消えていく.
私は一人, タクシーを拾い, 海辺の別荘へと向かった. 外は, 嵐の前の静けさだった.
別荘に着くと, 私は携帯電話を取り出した. 乃々紗のSNSアカウントを開く. そこには, 数分前に投稿されたばかりの写真がアップされていた. 病院のベッドに横たわる乃々紗. その傍らには, 心配そうに見つめる成也の姿.
「成也お兄様が, ずっとそばにいてくださるわ. 優しいお兄様」
彼女の投稿には, そんな言葉が添えられていた. 私の心臓が, 再び冷たい氷でできた塊のように感じられた. 彼は, 私との約束を破り, 乃々紗の元へと駆けつけたのだ.
私は, 成也の携帯電話に電話をかけた. 呼び出し音が鳴る. しかし, 誰も出ない.
その時, 電話の向こうから, 乃々紗の声が聞こえてきた.
「もしもし? あら, 菊地真理お姉様じゃない. こんな夜中に, 何の御用かしら? 」
乃々紗の声は, どこか得意げだった. 私の心臓が, 激しく脈打つ.
「成也さんは…? 」
私は, 震える声で尋ねた.
「成也お兄様なら, 私の隣で眠っていらっしゃるわ. 私が, 寂しいからって, お願いしたの. お姉様が, 一人で寂しく朝日を見るなんて, 可哀想ね」
彼女の声が, 私の耳元で嘲笑うように響いた.
「そういえば, お姉様, あの船の事故のこと, まだ覚えていらっしゃるかしら? あの時, 成也お兄様は, 私を一番に助けるようにって, はっきりと命令してくださったのよ. お姉様が, お腹に子供がいたとしても, 関係ないって. ふふふ, お姉様って, 本当に不運ね」
乃々紗の言葉が, 私の脳裏に, あの日の惨状を鮮明に蘇らせた. 炎, 水, そして成也の冷酷な言葉.
「あの火傷も, 流産も, 全部, 私が仕組んだことよ. あなたなんかいらない. 成也お兄様には, 私がいればいいのよ! 」
彼女の言葉は, 私の心を, 完全に打ち砕いた. 私は, 携帯電話を握りしめる手に力を込めた. 指の爪が, 手のひらに食い込み, 血がにじむ.
私は, 震える手で, 電話を切った.
外の風が, 激しく窓を叩く. 嵐の夜が始まろうとしていた. 私は一人, 別荘の窓辺に立ち, 荒れ狂う海を見つめた. 成也は, 来ない. 彼は, 乃々紗の元へと行ってしまった. 私との約束など, 彼にとっては, どうでもいいことなのだ.
かつて成也が, 私に囁いた愛の言葉が, 虚しく私の耳に響く.
「真理, 君こそが, 僕の永遠の愛だ」
「どんな時も, 君を一番に守る」
彼の言葉は, 今や, 私への最も残酷な嘲笑となった. 乃々紗には, あれほど優しかった彼が, 私には, 冷酷な裏切り者だった. 私の心は, 完全に冷え切っていた. もう, 何も感じない. 何も求めない.
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