彼のポーンから女王へ の小説カバー

彼のポーンから女王へ

7.9 / 10.0
名門政治家一家の令嬢でありながら、反骨心溢れるジャーナリストとして生きる神宮寺詩音。彼女が唯一安らぎを覚えたのは、冷徹な実業家・一条怜との密やかな情事だった。しかし、彼が詩音を求めた真の目的は、恩人の娘である白石華恋への義理を果たすため、詩音を「飼い慣らす」ことに過ぎなかった。怜は常に華恋を最優先し、詩音が危機に陥っても冷酷に見捨て、ついには「教育」と称して彼女を留置場へ送り込み、暴行を黙認する。決定的な別れは、凄惨な交通事故の瞬間に訪れた。怜は迷わず華恋をその身で庇い、詩音だけを衝撃の渦中に置き去りにしたのだ。自分は愛される存在ではなく、単なる「負債」だったと悟った詩音は、病院のベッドで復讐と決別を誓う。彼女は怜の完璧な世界を崩壊させるべく、自分に平穏を約束する別の億万長者からの求婚を受け入れた。かつての愛を燃え殻に変え、彼女は「駒」から「女王」へと這い上がるための新たな人生を歩み始める。

彼のポーンから女王へ 第1章

神宮寺詩音、政界の名門に生まれた反逆のジャーナリスト。

唯一の逃げ場所は、一条怜との禁断の情事だった。

氷と理性でできた彫刻のような、冷徹なCEO。

彼は私を「美しい破滅」と呼んだ。彼のペントハウスの壁に閉じ込められた嵐、それが私だった。

でも、私たちの関係は嘘で塗り固められていた。

彼が私を「手懐けよう」としていたのは、別の女への恩返しのためだったと知ってしまった。

その女、白石華恋は、父の首席秘書官の娘。病的なほどか弱く、怜は彼女に返せないほどの恩義を感じていた。

彼は公の場で彼女を選び、私には見せたことのない優しさで彼女の涙を拭った。

彼は彼女を守り、擁護し、私がゴロツキに追い詰められた時でさえ、私を見捨てて彼女の元へ駆けつけた。

究極の裏切りは、彼が私を留置場に放り込み、暴行させたこと。「思い知らせる必要がある」と、蛇のように冷たい声で囁きながら。

そして、交通事故の瞬間、最後のとどめを刺された。

彼は一瞬の躊躇もなく華恋の前に身を投げ出し、その体で彼女を庇い、私をたった一人、迫りくる衝撃に晒した。

私は彼の愛する人ではなかった。切り捨てるべき負債だったのだ。

病院のベッドで、壊れた体で横たわりながら、私はようやく悟った。

私は彼の美しい破滅なんかじゃなかった。ただの道化だった。

だから、私にできる唯一のことをした。

彼の完璧な世界を焼き尽くし、私に平穏を約束してくれた心優しい億万長者からのプロポーズを受け入れ、新たな人生を歩み始めた。

私たちの愛の燃え殻を、置き去りにして。

第1章

神宮寺詩音という女は、矛盾そのものだった。

世間にとっての彼女は、政界の名門・神宮寺家に生まれた予測不能なワイルドカード。

彼女の記事が載るたび、父である神宮寺壮介大臣の心労は絶えなかった。

彼女は聡明で、反抗的で、そして時限爆弾のような存在だった。

だが、影の中では、東京の街を見下ろす無機質なペントハウスの静寂の中では、彼女は全くの別人だった。

そこでは、彼女は秘密であり、情熱であり、一条怜の世界という四つの壁に閉じ込められた嵐だった。

巨大テックセキュリティ企業「一条セキュリティ」のCEO、一条怜は、氷と理性でできた彫刻のような男だった。

その力は制御され、感情は固く閉ざされた金庫の中。

彼は私の家族が体現する全てでありながら、完全に独立した一人の男だった。

二人の情事は、燃え上がるように激しく、絶望的で、決して交わるはずのない二つの世界の衝突だった。

それが彼女の唯一の逃げ場所だった。

そして、それは終わろうとしていた。

詩音は彼のベッドに横たわり、床から天井まである窓から差し込む朝の光を浴びていた。

彼女は、父が成立させようとしている法案を頓挫させるため、ある男を破滅させる計画を立てていた。汚職にまみれた組合のボス。それは良い記事になる。そして、それは彼女自身の家族に対する宣戦布告でもあった。

彼女は身支度をする彼を見ていた。柔らかなコットンのシャツが、ぱりっと糊のきいた仕事用のシャツに変わっていく。その変身はいつも一瞬で、恋人の姿は消え、CEOがその場に現れる。

「行かないで」

静かな部屋に、彼女の言葉が懇願のように響いた。

彼は振り返らなかった。ただ、暗い窓に映る自分の姿を見て、ネクタイを締め直すだけ。

「7時から役員会議だ」

「キャンセルして」

彼はようやく振り返ったが、その表情は読み取れない。

「できないと知っているだろう」

その拒絶は、慣れ親しんだ痛みだった。彼女は彼がブリーフケースを手に取るのを見ていた。その動きは正確で無駄がない。別れのキスも、名残惜しそうな素振りもない。いつものことだった。

「怜さん」

彼女はもう一度試みた。胃のあたりが絶望で締め付けられる。

「後で話そう」

彼はそう言うと、行ってしまった。ドアがカチリと閉まり、広大で空虚な空間に彼女は一人取り残された。「後で」。彼の「後で」という約束は、決して姿を現さない亡霊だった。

部屋の冷気が骨身に染みた。彼女は待たなかった。自分のスマートフォンを掴み、父の首席秘書官に電話をかけた。彼女の声は硬く、明瞭だった。

「父に伝えて。受け入れる、と」

電話の向こうで、一瞬、衝撃を受けたような沈黙が流れた。

「……有栖川氏の提案を、受け入れるということですか?」

「ええ」

詩音は虚ろな目で言った。

「有栖川純との政略結婚。やります」

その提案は、数週間前からテーブルの上にあった。神宮寺大臣が、謎に包まれたIT業界の億万長者から巨額の選挙献金を引き出すための政略。それは取引であり、彼女はその商品だった。

「条件が一つある」

彼女は付け加えた。その声は低く、危険な響きを帯びていた。

「何なりと、詩音様。大臣はお喜びになります」

「今日中に発表してほしい。この午前中に。一時間以内にプレスリリースを出すようにして」

「もちろんです」

男は喜びのあまり、どもりながら答えた。

「お任せください」

彼女は電話を切った。決断の最終性が、死装束のように彼女にのしかかる。一つの檻から、別の檻へと移るだけだ。

荷物をまとめていると、ナイトテーブルに置かれたもう一台のスマートフォンが目に入った。怜の私用の端末。彼がこれを置いていくなんて、あり得ない。冷たい恐怖が彼女を襲った。彼女はそれを手に取った。画面に新しいメッセージが点灯する。

白石華恋からだった。

メッセージは単純で、見せかけのように甘ったるい。

「怜さん、大丈夫?彼女、一緒だったんでしょ。酷いことされなかった?」

華恋。父の首席秘書官のか弱く、子鹿のような瞳をした娘。怜が返せないほどの恩義を感じている女。数年前、怜のキャリアが始まる前に彼を破滅させたであろう企業スパイ事件の罪を、華恋が被ったのだ。それ以来、彼は彼女に借りがあり、華恋はその事実を外科手術のような精密さで利用していた。

詩音の脳裏に、一ヶ月前の出来事が蘇る。あるネタを追っている最中、情報源の警備員に暴行された時のことだ。痣だらけで震えながら怜の部屋のドアを叩いた。彼は冷たい論理の仮面をつけたまま彼女を見つめ、「次はもっと気をつけろ」と言っただけだった。痛むかと尋ねることさえしなかった。

だが、華恋に対しては、いつも心配があった。いつも優しい触れ方があった。

苦い味が口の中に広がった。彼女は服をひっかけると、無謀な計画が頭に浮かんだ。彼は役員会議のためにオフィスにいるはずだ。そこへ行って、彼を問い詰め、真実を自分の目で確かめる。

タクシーを拾うと、心臓が肋骨に激しく打ち付けられた。だが、一条セキュリティの超高層ビルに近づいた時、彼女は彼を見た。彼は会議になど出ていなかった。通りの向かいにある小さなカフェに入っていくところだった。

そして、彼は一人ではなかった。

白石華恋が、彼の腕に寄り添っていた。詩音は運転手に金を払い、車から滑り降りると、駐車されたバンの後ろに隠れた。カフェの窓越しに、二人を見つめた。

華恋は泣いていた。その繊細な顔は苦悩に満ちている。怜は身を乗り出し、珍しく柔らかな表情をしていた。詩音には聞こえない何かを言った。そして、彼は手を伸ばし、華恋の頬の涙を、親指で優しく拭った。

その仕草はあまりに優しく、親密で、まるで物理的な一撃のように感じられた。彼は一度だって、あんな風に優しく私に触れたことはなかった。

詩音の周りの世界が、鈍い轟音と共に色褪せていく。彼女の秘密の人生の土台、唯一本物だと思っていたものが、ガラガラと崩れ落ちていった。

父は私を売った。それは野心から生まれた裏切りであり、許せなくても理解はできた。父は二年前に、尊敬する男に「手懐けさせる」ために、手に負えない娘を差し出したのだ。「あいつに少し規律を教えてやってくれ」と、まるで手に負えないペットのように言った。

最初、彼女は全力で彼に抵抗した。彼のサーバーをハッキングし、彼の車を大破させ、彼のオフィスを百匹の黒猫で埋め尽くした。彼の氷のような自制心を打ち破るために、あらゆることをした。彼はその全てを、腹立たしいほど冷静に処理し、非難の一言もなく彼女の起こした混乱を片付けた。

転機は彼の誕生日に訪れた。彼を辱めるための些細な反抗として、彼女は彼のワインに薬を盛った。だが、薬は予期せぬ効果をもたらした。彼を眠らせるのではなく、彼の自制心の層を剥ぎ取り、生々しく無防備な彼を露わにしたのだ。その夜、混乱と欲望の靄の中で、彼は彼女を強く引き寄せ、それまで聞いたことのない感情のこもった荒々しい声で言った。彼は私を「美しい破滅」と呼んだ。

そして、その弱さを見せた瞬間に、私は彼に恋をした。完全に。

私たちの秘密の世界が生まれた。盗まれた夜と囁かれる秘密の世界。そこでは、権力者のCEOと反逆のジャーナリストが、裁かれることなく存在できた。彼は私を、反逆の下にある炎を、本当の意味で見てくれていると思っていた。彼はそのために私を愛してくれているのだと。

先月、彼が表彰される授賞式で、愛していると伝えようと計画していた。新しいドレスを買い、頭の中で何千回も言葉を練習した。

彼は現れなかった。

翌日、タブロイド紙は彼と華恋が高級レストランで食事をする写真で埋め尽くされていた。見出しはこうだ。「IT界の帝王・一条怜と慈善活動家・白石華恋、愛の再燃か?」

詩音は泥酔した。彼のペントハウスに行き、高価な花瓶を叩き割った。クリスタルの破片が、彼女の砕け散った希望のように床に散らばった。

彼がようやく現れた時、彼は彼女を見なかった。床の惨状を見ていた。

「清掃員に片付けさせる」

彼が言ったのはそれだけだった。

その瞬間、愛は死に始めた。今、華恋と一緒にいる彼が、私には決して見せなかった優しさで彼女の涙を拭うのを見ることは、最後の、致命的な一撃だった。それは彼が華恋に負っている借金だけの問題ではなかった。それは選択だった。そして彼は、一度たりとも、私を選んだことはなかった。

冷たく、硬い決意が彼女の心に宿った。私はもう、父のゲームの駒であるだけではない。怜のゲームの中でも、道化だったのだ。

彼女は窓から背を向け、神宮寺家の屋敷へと、確かな足取りで戻っていった。

書斎で父、神宮寺壮介大臣を見つけた。継母と華恋の母である恵美が、近くでうろついている。

「発表は済んだ」

壮介は珍しく笑みを浮かべて言った。

「有栖川との提携は素晴らしい一手だ、詩音」

「もう一つ条件がある」

彼女は感情のない声で言った。

彼の笑みが消えた。

「何だ?」

「勘当してほしい。公に。神宮寺の名前を私から剝奪して。私は神宮寺の人間としてではなく、ただの神宮寺詩音としてシアトルへ行く。この家からは何もいらない」

大臣は彼女を見つめた。その顔は信じられないという表情と怒りに満ちていた。しかし、恵美の目には勝利の光がちらついていた。

「馬鹿げたことを言うな」

壮介は唸った。

「そうかしら?」

詩音の唇が苦々しい笑みに歪んだ。

「それとも、あなたの野心の代償を思い出させているだけ?十年前、あなたが『不正に処理した』組合の年金基金のこと、覚えてる?あなたの最初の大きな選挙の直前に消えたやつ。私は覚えてる。記録も持ってる。私を勘当するか、それともあなたがどんな人間か、世間に知られるか」

彼の顔が青ざめ、そして怒りで赤くなった。彼は立ち上がり、まるで彼女を殴るかのように手を上げた。

「出て行け」

彼は震える声で吐き捨てた。

「お前はもう私の娘ではない」

「結構」

彼女はそう言って、去ろうとした。ドアにたどり着いた時、彼女は立ち止まった。

「それと、もう一つ、壮介さん。有栖川純の会社はデータセキュリティが専門よ。世界最先端のね。私なら、自分の秘密がどこに保管されているか、これからすごく気をつけるわ」

彼女は振り返ることなく出て行った。かつての自分の寝室に入り、ドアに鍵をかけると、ようやく崩れ落ちることができた。父からの愛の欠如と、計画的に心を打ち砕いた男への悲しみで、嗚咽が彼女の体を揺さぶった。怜から逃れるためだけに、彼女は自分の名前、家族、全アイデンティティを犠牲にしたのだ。

その夜遅く、最後の荷物を詰めていると、廊下で声が聞こえた。父の、温かく父親らしい声。それに続く、白石華恋の柔らかく甘い声。

「心配するな、お嬢さん。ここはいつだってお前の家だ」

詩音は凍りついた。ドアを少し開けて覗き込むと、父が華恋を、私の部屋の真向かいの部屋へと案内していた。母が亡くなってから、誰も触れることのなかった、母の部屋に。

彼は母の部屋を華恋に与えようとしていた。

冷たく、感覚を麻痺させるような静けさが詩音を包んだ。彼女は静かにドアを閉めた。ここにはもう、彼女のためのものは何もない。何も。

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