
奪われた全て、愛人の嘘
章 2
奈緒子 POV:
翔鶏と友穂が二階へ上がっていく足音が遠ざかると, 私はリビングに残された離婚届を虚ろな目で見つめた. 私の手は震え, ペンを持つこともできなかった.
「奈緒子さん, サインしたの? 」友穂の声が, 階段の上から聞こえてきた. その声には, 冷たい嘲笑が混じっていた.
私は, 何も答えなかった.
数秒後, 翔鶏の声が続く. 「友穂, もういい. どうせ彼女は, すぐにサインするだろう. 」彼の声は, 私に何の感情も抱いていないことを物語っていた.
そして, ドアが閉まる音がした. 二人は, もう二度と私に顔を合わせたくないのだろう.
私は, テーブルに置かれた離婚届を拾い上げた. 私の名前を書く欄は, 空白のままだった. この紙一枚で, 私の人生は終わりを告げる.
私は, 心の中で呟いた. 「サインするわ. でも, まだ, やることが残っているの. 」
私は, 彼への最後の贈り物をするために, 骨髄提供という大きな決断を下した. 私の人生は, もう彼に捧げていたのだから, 最後まで貫き通すだけだった.
思い返せば, 結婚当初から, 彼は私を愛していなかった. 私の愛は, 一方的なものだった. 彼の病を知った時, 私の心は決まった. 彼を助けたい. 彼が再び指揮台に立つ姿を見たい. その一心だった.
私は, 広津先生の病院へ向かった. 骨髄提供のための最終検査だ.
病院の廊下は, 消毒液の匂いが充満していた. 私の心臓は, 重く脈打っていた.
受付を済ませると, 広津先生の診察室へ案内された. 先生は, 私を見るなり, 心配そうな顔で言った. 「奈緒子さん, 準備はできたかい? 」
私は, 頷いた.
「手術は, 明後日に決まった. 翔鶏君の病状が, 思ったよりも進行しているんだ. 」広津先生の声は, 深く沈んでいた.
私は, 驚いて目を見開いた. 「そんなに急に…? 」
「ああ. これ以上延期はできない. 君の体への負担も大きいだろうが, 我々も最善を尽くす. 」先生は, 私の手を握り, 励ますように言った.
私は, 胸に鋭い痛みを覚えた. 翔鶏の病状が深刻だなんて, 知らなかった. 私は, 彼のために, もっと早く決断すべきだったのだろうか.
私は, 広津先生に深々と頭を下げた. 「ありがとうございます. 先生. 」
診察室を出ると, 私は足元がふらつくのを感じた. 翔鶏の病状がそこまで悪化していたとは. 私の決断は, 間違っていなかった.
エレベーターに乗ろうとすると, 扉が開いた. そこに立っていたのは, 翔鶏と友穂だった. 私の心臓が, 大きく跳ね上がった.
翔鶏は, 私を見て, 眉をひそめた. その目には, 不快感が宿っていた. 「どうしてここにいるんだ? 」
私は, 咄嗟に言葉が出てこなかった. 「その…広津先生に, 定期検診で…」
翔鶏は, 私の言葉を遮るように言った. 「定期検診? そんなもの, お前には関係ないだろう. 」彼の視線は, 私に向けられることはなく, 友穂に向けられていた.
友穂は, 心配そうな顔で翔鶏の腕に触れた. 「翔鶏さん, 顔色が悪いわ. 早くお部屋に戻りましょう. 」
翔鶏は私を無視し, 友穂の言葉に従うようにエレベーターに乗ろうとした.
「あの…翔鶏さんこそ, どうしてここに? 」私は, 思わず尋ねてしまった.
翔鶏は, 私を軽蔑するような目で見た. 「君には関係ない. それより, 広津先生と何か話していたようだが? 医者と懇意にする趣味でもあるのか? 」彼の声には, 侮蔑が混じっていた.
私の心臓が, 鉛のように重くなった. 私は, 彼に嫌われている. その事実が, 私の心を締め付けた.
友穂は, 翔鶏の腕に触れ, 甘えた声で言った. 「翔鶏さん, そんなこと言わないで. 奈緒子さんも, 心配しているのよ. 」
私は, 友穂の言葉に心の中で反論した. 「私の心配なんて, 届かないくせに. 」
翔鶏は, 友穂の頭を撫で, 優しく微笑んだ. その笑顔は, 私に向けられることは決してないものだった.
友穂は, 私を見て, 得意げに言った. 「そういえば, 奈緒子さん, 朗報があるのよ! 」彼女の声は, わざとらしく明るかった.
翔鶏は, 友穂の言葉を遮るように言った. 「友穂, まだ言うな. 」彼の顔には, 微かに焦りの色が浮かんでいた.
しかし, 友穂は聞く耳を持たなかった. 彼女は, 私の顔を見て, 満面の笑みを浮かべた. 「ねえ, 奈緒子さん. 翔鶏さんに, 適合するドナーが見つかったのよ! 」
私の心臓が, 大きく脈打った. 頭の中が真っ白になった. ドナー? 私が?
翔鶏は, 友穂の言葉に驚いたように私を見た. 彼の目には, 喜びと興奮が混じっていた.
友穂は, その様子を満足げに見ていた. 「これで, 翔鶏さんは助かるわ. 本当に良かったわね, 翔鶏さん! 」
翔鶏は, 友穂の手を握り, 愛おしそうに言った. 「ああ, 本当にありがとう, 友穂. 君のおかげだ. 」
友穂は, 私を見て, わざとらしく言った. 「奈緒子さん, どうしたの? 嬉しくないの? 」
私は, 必死に笑顔を作った. 「おめでとうございます, 翔鶏さん. 」私の声は, 震えていた.
翔鶏は, 私の言葉に冷たく言った. 「君は, 俺が死ねばいいと思っているんだろう. 」
私の心臓が, 凍りついた.
私の愛は, 届いていなかった. それどころか, 彼は私を憎んでいた.
私は, 何も言い返すことができなかった.
翔鶏は, 友穂の手を引き, エレベーターの奥へと入っていった.
「さあ, 友穂. 早く部屋に戻ろう. 」彼の声は, 喜びと安堵に満ちていた.
友穂は, 私に勝ち誇ったような笑みを浮かべ, エレベーターの扉が閉まった.
私は, その場に立ち尽くした. 私の心は, 完全に壊れていた.
私が提供する骨髄は, 彼にとって何の意味もない. 彼は, 私が死を望んでいると信じている.
私の最後の愛は, 彼には届かない.
私は, もう, 何もいらない.
私の人生は, もう終わったのだから.
私は, 震える手で, ポケットからスマホを取り出した. 広津先生にメッセージを送った.
「先生, 手術の件, 予定通りお願いします. 誰にも言わないでください. 」
私は, 何もかもを捨てて, 彼の人生から完全に姿を消す.
それが, 私の彼への最後の愛なのだから.
私は, 深く息を吸い込んだ.
「さようなら, 翔鶏さん. 」私は, 声に出さずに呟いた.
私の心は, 完全に死んでいた.
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