
奪われた全て、愛人の嘘
章 3
奈緒子 POV:
エレベーターの閉まる音を聞くと, 私はその場に立ち尽くした. 翔鶏と友穂の背中が, 私の視界から消えた後も, 私はしばらく動けなかった. 彼らの幸せそうな笑顔と, 私に向けられた翔鶏の冷たい言葉が, 頭の中で何度も繰り返される.
「君は, 俺が死ねばいいと思っているんだろう. 」
その言葉が, 私の心を深く抉っていた. 彼の誤解を解こうとする気力も, もう残っていなかった. いや, もう手遅れなのだ. 彼は私を憎んでいる. 私の存在が彼にとっての重荷ならば, 私は彼の前から消えるべきだ.
私は, 残された時間を大切に使わなければならないと, 自分に言い聞かせた. 私の人生は, もう残りわずかだ.
まず, 私は残された写真を整理することにした. 私の写真家としてのキャリアは, 彼との出会いから始まった. 彼の父である恩師との出会い, そして翔鶏の才能に魅せられ, 彼の陰で支えたいと願った日々. 私の作品の多くは, 彼の音楽, 彼の表情, 彼の指揮するオーケストラの光景を捉えていた. それは, 私の人生そのものだった.
私は, 会社に辞職届を提出し, 作品の権利をすべて譲渡した. 上司は驚いていたが, 私が「世界中を旅して写真を撮りたい」と嘘をつくと, しぶしぶ承諾してくれた. 本当は, もう二度とカメラを手にすることはないだろう.
アパートへ戻り, 私は段ボール箱の奥から古いアルバムを取り出した. ページをめくるたびに, 翔鶏の様々な表情が目に飛び込んできた. 指揮台で輝く彼, 楽屋で譜面を真剣に見つめる彼, そして, まだ若く, 少しだけ柔らかい表情をしていた結婚当初の彼….
一枚一枚, 丁寧に写真を眺めていく. どの写真にも, 彼の才能への尊敬と, 私の一方的な愛が溢れていた. ああ, 私はどれほど彼を愛していたのだろう. この写真の数々が, その証だった. まるで彼の人生の一瞬一瞬を切り取って, 自分のものにしようとしているかのようだ.
私は, 彼の横顔を指でそっと撫でた. あの頃は, まだ純粋に, 彼を支えることで幸せを感じていた.
しかし, もう遅い.
私は, 決心した. これらの写真は, 私と共に消えるべきだ. 彼の人生から, 私の痕跡をすべて消し去る.
私は, アルバムを閉じ, 会社のシュレッダーへ向かった. 一枚一枚, 写真が細かく裁断されていく. 紙の擦れる音が, 私の心を削り取るようだった. 彼の笑顔が, 彼の真剣な眼差しが, 音を立てて消えていく. 私は, 涙が止まらなかった.
「これで, もう終わりよ. 」私は, 心の中で呟いた. 彼の記憶から, 私の存在を消し去るために.
すべての写真とデータを消去し, 私は会社を後にした. 夕日が西の空を赤く染め上げていた.
会社の外に出ると, 見慣れた二つの影が目に飛び込んできた. 翔鶏と友穂だった. 彼らは, 高級宝飾店の前で, ショーウィンドウを覗き込んでいた. 友穂は, 嬉しそうに翔鶏の腕に抱きつき, 何かを囁いている.
私の心臓が, 鉛のように重くなった.
友穂は, 私に気づくと, わざとらしく声を上げた. 「あら, 奈緒子さん! こんなところで会うなんて偶然ね. 」彼女の声は, 勝利に満ちていた.
翔鶏は, 私を一瞥し, すぐに視線を友穂に戻した. 私の存在は, 彼にとって, もはや取るに足らないものなのだろう.
友穂は, 翔鶏の腕に抱きつきながら, 私に言った. 「見て, 奈緒子さん. 翔鶏さんが, 私に指輪を選んでくれるのよ. 結婚指輪かしら? 」彼女は, 意地の悪い笑顔を浮かべた.
翔鶏は, 友穂の頭を撫で, 優しく微笑んだ. 「ああ. 君に似合うものがいい. 」
私の心臓が, ばらばらに砕け散る. 結婚指輪. 彼らは, もう私の居場所を完全に奪い去ろうとしている.
翔鶏は, 私を見て, 冷たく言った. 「そういえば, 離婚届は? サインしたんだろうな. 」
私は, 何も言えなかった. ただ, 頷くことしかできなかった.
「ふん. 」翔鶏は鼻で笑い, 友穂の手を引いて店の中へと入っていった.
私は, その場に立ち尽くした. 私の体は, 震えが止まらなかった.
店の中から, 友穂の楽しそうな声が聞こえてくる. 「翔鶏さん, こっちのほうが素敵じゃない? 」
そして, 翔鶏の声. 「ああ, 君が気に入ったものが一番だ. 」
私の視界が, 歪んだ. 私の耳には, 彼らの幸せそうな声が, 悲鳴のように響き渡っていた.
私は, もう, 何も感じたくなかった.
私は, 震える足で, その場を後にした. もう, 二度と, 彼らの前に現れることはない.
私が彼に贈る, 最後の贈り物. それは, 私の命の一部. そして, 私の人生のすべてを捧げた, 彼への愛の結晶.
私は, 深く息を吸い込んだ.
私の心は, 完全に死んでいた.
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