
余命宣告されたので、夫の帝国を破壊します
章 2
結愛は白金台にある岩永家の広大な邸宅に到着すると,重い足取りで螺旋階段を上り,主寝室の重厚な彫刻が施された木製のドアを押し開けた. 部屋の中には,陸人が日常的に愛用しているシダーウッドの冷たい香水の匂いが充満していた. 以前なら安心感を与えてくれたその香りが,今は結愛の胃を激しくかき回し,強烈な吐き気を催させた.
彼女は広大なウォークインクローゼットへ直行し,奥の隅に押し込まれていた目立たない黒い機内持ち込み用のスーツケースを引きずり出した. それは3年前,彼女がこの冷たい豪邸に嫁いできた時に持ち込んだ唯一の私物だった.
物音を聞きつけた執事とメイドたちが慌てて駆けつけてきた. 彼女たちは夫人の異様な行動に目を丸くし,手伝おうと前に出たが,結愛の氷のように冷たい視線に射すくめられ,その場に立ち尽くした.
結愛は,陸人が買い与えたハイブランドのドレスや宝石には一切触れなかった. 彼女がスーツケースに詰め込んだのは,数着のシンプルな日常着と,表面の塗装が剥げかけた古い軍用レベルの暗号化ノートパソコンだけだった.
荷造りを終えると,彼女はドレッサーの前に立った. ガラスの天板の上には,陸人から与えられた,しかし彼が一度もまともに見つめたことのない価値の計り知れない巨大なダイヤモンドの結婚指輪が置かれていた. 結愛は自分の左手薬指からその冷たい金属の輪を躊躇なく引き抜き,ガラスの上に落とした.
カチン,という甲高い音が静かな部屋に響いた. 結愛は先ほど印刷したばかりの離婚協議書を,その指輪の下にしっかりと挟み込んだ.
その時,下腹部から内臓を直接鷲掴みにされるような激しい痛みが再び襲ってきた. 結愛はドレッサーの縁を強く掴み,体を支えた. 顔から一瞬にして血の気が引き,冷や汗が背中をびっしょりと濡らす.
"奥様,お顔色が... 家庭医をお呼びしましょうか?" メイドの一人が異変に気づき,おずおずと声をかけた.
"下がって." 結愛は歯を食いしばり,痛みを声に出さないよう必死に抑え込みながら冷たく言い放った. 彼女は深呼吸を繰り返し,無理やり姿勢を正した.
結愛がスーツケースを引きながら一階の広大なリビングに降り立ったその時,正面の巨大なオーク材のドアが両側から開かれた. 黒服のボディガードたちを引き連れ,陸人が冬の冷たい外気を纏ってリビングに足を踏み入れた.
陸人の深淵のような黒い瞳が,結愛の手にあるスーツケースを捉えた. 彼の完璧な形をした眉が微かにひそめられ,リビングの空気圧が急激に低下した.
彼は着ていたオーダーメイドのスーツジャケットを脱ぎ,無造作に執事に手渡した. その動作には,上位者特有の傲慢さが滲み出ていた. "今度は何の退屈な茶番だ?" 彼の声は氷のように冷たく,結愛を見下ろしていた.
結愛はいつものように目を伏せて従順な態度をとることはなかった. 彼女は陸人の目を真っ直ぐに見据え,手元にあったもう一部の離婚協議書のコピーを彼の胸元に突き出した.
陸人は表紙の"離婚協議書"という文字を一瞥した瞬間,その瞳を完全に凍りつかせた. 彼の口角が上がり,残酷な冷笑が浮かぶ.
彼はその書類を受け取ろうともせず,ポケットに手を入れたまま嘲笑した. "信託基金からの小遣いが足りないとでも言うのか? こんな低劣な手段で交渉しようとするとは,見損なったぞ."
"協議書には"財産分与なし"と明記してあるわ." 結愛の声は驚くほど平坦だった. "岩永家の金は一円たりとも持っていく気はない."
彼女のその異常なまでの落ち着きが,逆に陸人の神経を逆撫でした. 彼は一歩前に踏み出し,185センチを超える長身で結愛に強烈な圧迫感を与えた. 鷹のように鋭い視線が彼女の顔を射抜く.
その距離まで近づいた時,陸人の鋭い視線は,結愛の異常なまでに蒼白な顔色と,血の気が全くない唇を捉えた. さらに,彼女が強く握りしめている手の甲には,採血か点滴によるものと思われる小さな針穴と微かな内出血の痕があった. 彼の眉間の皺がさらに深くなる. 彼は結愛がまた抗うつ剤を大量に飲み,自傷行為めいた真似をして被害者ぶって同情を引こうとしているのだと完全に誤解した.
陸人は突然手を伸ばし,結愛の細い顎を万力のような力で掴んだ. "よく聞け. 岩永家に"離婚"の二文字はない. あるのは"死別"だけだ. その哀れな被害者のような態度は今すぐやめろ."
顎の骨が砕けそうな痛みに耐えながら,結愛の瞳には一切の動揺もなかった. 彼女は冷ややかに言い返した. "あなたが乃乃花にブルーダイヤを贈るのは自由よ. でも,私を隠れ蓑にするのはもう終わりにして."
乃乃花の名前が出た瞬間,陸人の目に微かな動揺が走り,顎を掴む手が緩んだ. 彼はその手を離し,さらに冷酷な声で言った. "あれはビジネス上の必要な投資だ. お前が口出しする権利はない."
結愛は半歩後退し,息が詰まるような彼との距離を広げた. "あなたのビジネス帝国には,もう付き合いきれないわ."
陸人は空になった自分の手のひらを見つめ,原因不明の苛立ちを覚えた. 彼は冷笑して言った. "俺のサインがなければ,その紙切れはただのゴミだ."
結愛はそれ以上反論しなかった. 彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし,スーツケースを引きずって玄関のドアへと歩き出した. その足取りには,一切の未練も迷いもなかった.
"止めろ." 陸人が鋭く命じると,数人の黒服のボディガードが即座に玄関の前に立ちはだかった.
結愛は立ち止まり,ゆっくりと振り返って陸人を見た. 彼女は手に持っていたスマートフォンを高く掲げた. 画面には,警察への緊急通報ダイヤルが入力され,発信ボタンに指が置かれていた.
"不法監禁の醜聞でApexの株価が暴落したら,乃乃花の素晴らしいPRも台無しになるわよ." 結愛の声は静かだったが,その脅迫には確かな殺気が込められていた.
陸人は彼女の決意に満ちた,そしてどこか壊れてしまいそうな瞳を死に物狂いで睨みつけた. 彼の顎の筋肉が限界まで引き締まる. 数秒の沈黙の後,彼は苛立たしげに手を振り,ボディガードたちに道を空けるよう合図した.
結愛は重いドアを押し開き,東京の初冬の冷たい風の中へと消えていった. 彼女の細い背中は,今にも折れそうなほどの脆さと,同時に決して屈しない強さを放っていた.
バタン,と重厚なドアが閉ざされた.
陸人は舌打ちをし,傍らにあったアンティークの高価な花瓶を力任せに蹴り飛ばした. ガシャンという轟音と共に,無数の陶器の破片が床に飛び散る.
彼は苛立ちに任せてネクタイを荒々しく引き緩め,ガラスのテーブルの上に残された離婚協議書を睨みつけた. なぜか,心臓の奥底で,今まで経験したことのないような正体不明の焦燥感とパニックが渦巻いていた.
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