
愛なき政略結婚、冷酷な夫を見限ります
章 2
静が主寝室を出てから、約十分後。
彼女は客室のベッドの縁に腰掛け、震える両手をぎゅっと握りしめていた。先ほどの自分の言葉が、まだ耳の奥で反響している——「離婚したいんです」。言ってしまった。ついに、言ってしまったのだ。
その時だった。ドアがノックもなく、勢いよく開け放たれた。
「……今の話は、何だ」
暁が立っていた。怒りを押し殺した低い声。スーツの襟元からは、真冬の夜気と共に、ほのかに甘い、見知らぬ女性用の香水の香りが漂っている。彼はまだネクタイを外しておらず、その目には、これまで静に見せたことのない鋭い光が宿っていた。
静は顔を上げ、暁の目をまっすぐに見返した。涙はすっかり引いていた。
「そのままの意味です。離婚したいんです」
暁はしばらく彼女の顔をじっと見つめ、それから嘲笑うかのように口元を歪めた。
「ふざけるな。お前に何ができる。母の手術代も、弟の学費も、すべて俺が——」
「ええ、そうですね」
静は彼の言葉を遮った。唇の端には、先ほど噛み締めすぎた傷から、まだ微かに血が滲んでいる。
「だからあなたは、私を所有物だと思っていた。鷹司家の体面を保つための、都合のいい人形だと。でも、もう違う」
彼女は立ち上がった。二人の距離は、手を伸ばせば触れられるほどに縮まっている。暁のスーツから漂う甘ったるい香水の匂いが鼻を突いた。それでも静は、視線を逸らさなかった。
「私は小林静です。あなたの所有物じゃない」
暁の目に、一瞬、見たことのない感情が走った——動揺だろうか。しかしそれもほんの一瞬で、すぐにいつもの冷徹な表情に戻る。
「……なるほど。本気らしいな」
彼の声は、急に静かになった。そして、ポケットから財布を取り出すと、一枚のカードをテーブルの上に置いた。艶やかな光を放つ、ブラックカード。
「これで好きなものを買え。明日にでも、気が変わるだろう」
金で黙らせる——まるで、物を与えればおとなしくなるペットにでも言い聞かせるような口調だった。
静は、その黒いプラスチックの板を、ただ黙って見つめた。心の中で、張り詰めていた何かが、音を立てて砕け散る。
「……いりません」
「何?」
「そんなもの、もういらないんです」
静の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「あなたが私に与えてきたものは、すべて——このカードで買えるものばかりでした。でも私は、最初から、そんなものは欲しくなかった」
暁の眉間に、深い皺が刻まれる。彼は初めて、静の顔をまともに見た。その目の下には濃い隈があり、顔色は紙のように白い。泣き腫らした目は赤く充血しているのに、その瞳だけは異様なほど澄んでいた。
その時、暁のスマートフォンが震えた。
彼は画面を一瞥すると、ほんの一瞬、表情を変えた。静はその変化を見逃さなかった——あの写真に写っていた女からの連絡だ。暁は迷った素振りを見せたが、すぐに通話ボタンを押し、部屋の隅へと歩いていく。
「……ああ、俺だ。どうした?」
声が、明らかに変わる。先ほどまで静に向けていた冷たい響きとは、まるで別人のように、低く、優しく。
静はその背中を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。これが現実なのだ。自分に向けられることのない優しさ。自分には決して見せない穏やかな表情。あの電話の向こうにいるのが誰なのか、考えるまでもなかった。
やがて暁は通話を終え、振り返った。その顔は、もういつもの冷徹な能面に戻っている。
「……明日、話をしよう。今夜はもう遅い」
「いいえ、もう話すことはありません」
静はきっぱりと言った。
「私は弁護士に連絡しました。明日中に離婚協議書の草案を作成してもらいます。財産は一切不要です。あなたのご両親への説明も、私が責任を持ちます」
暁の目が、すっと細められた。
「そこまで言うなら、好きにしろ。ただし——」
彼は一歩、静に近づいた。その声は、氷のように冷たい。
「お前の母の病院も、弟の学費も、すべて鷹司家の資金だということを忘れるな。それらを手放す覚悟が、お前にあるのか」
「はい、覚悟はできています」
静は即座に答えた。その声に、一片の迷いもなかった。
暁はしばらく彼女をじっと見つめていた。そして、何も言わずに背を向ける。彼は客室のドアの前で一度だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。
「……好きにしろ」
それだけを言い残し、暁は部屋を出て行った。
重い足音が廊下を遠ざかっていく。やがて玄関のドアが閉まる音が響き、家の中は再び静寂に包まれた。
静は、テーブルの上のブラックカードを見つめた。それから、ゆっくりと手を伸ばし、そのカードを手に取る。
「これで、終わりにしよう」
彼女はそう呟くと、カードをテーブルの上に置いたまま、客室のベッドに横たわった。
窓の外は、まだ真冬の暗闇。だが彼女の胸の奥には、これまでにない、凪いだような静けさが広がっていた。離婚への意志は、もはや揺るぎようもない。
翌朝。静は一番に弁護士に電話をかけ、離婚協議書の最終確認を依頼した。それから母の病院へ向かう準備を整えながら、彼女は頭の中でこれからの段取りを組み立てていく。母の退院、弟の学費の算段、そして自分の新しい住まい——。
やるべきことは山積みだった。けれど、不思議と心は軽かった。三年間、息の詰まるような鳥籠の中で生きてきた彼女が、初めて自分の足で立とうとしている。
その時、スマートフォンが再び震えた。画面を見ると、暁の妹、詩織からのメッセージだった。
「義姉さん、大丈夫? 昨日の写真の件、私……」
静は短く返信を打った。
「大丈夫。ありがとう、詩織さん。でも、これは私が自分で決めたことだから」
送信ボタンを押し、彼女は立ち上がった。鏡に映る自分の顔は、まだ紙のように白く、目の下の隈は消えていない。けれどその瞳には、昨夜まではなかった、確かな光が宿っている。
——これでいい。これが、私の選んだ道だ。
静はバッグを手に取り、客室を後にした。廊下の向こう、主寝室のドアは固く閉ざされたままだったが、もう振り返ることはなかった。
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