
愛なき政略結婚、冷酷な夫を見限ります
章 3
午後七時、銀座の高級フレンチレストラン。
暁は静の椅子を引き、自らメニューを手に取った。彼は今日、濃紺のビジネススーツに身を包み、いつもと変わらぬ完璧な佇まいでソムリエにワインを告げる。一切の隙もなく、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたようだった。
「お前の好きな抹茶トリュフもある。好きなだけ頼め」
静は、向かいに座る夫を静かに観察していた。昨夜、離婚を宣言した相手に対して、彼はまるで何事もなかったかのように振る舞っている。記念日の埋め合わせだと言って、こうして高級レストランを予約した。説明も、謝罪もなく——ただの業務連絡のように。
「ありがとう」
静は短く答え、水のグラスに指を触れた。かつての彼女なら、彼がこうして時間を作ってくれただけで、舞い上がるほど嬉しかっただろう。だが今は違う。彼の完璧なエチケットの裏に隠された、底知れぬ冷たさが見えすぎるほど見えていた。
前菜が運ばれてくるまでの間、暁はポケットから深い青色のベルベットの小箱を取り出し、テーブルの上を滑らせて静の前に置いた。
「三周年の記念だ」
静が蓋を開けると、無数のダイヤモンドが散りばめられたブレスレットが、照明を受けて冷たく煌めいた。ヴァンクリーフ&アーペルの特注品——少なくとも七桁はするだろう。彼女はそれを一瞥しただけで、そっと蓋を閉じた。
「ありがとうございます」
「つけてやる」
暁が席を立ち、静の後ろに回り込んで左手首を取ろうとした瞬間、静はとっさに手を引っ込めた。彼女の全身が、本能的に拒絶している。昨夜のあの香水の匂いが、まだ鼻腔に残っているかのように。
「……自分でつけられますから」
暁の目に、ほんの一瞬、鋭い光が走ったが、彼は何も言わずに席に戻った。
料理が運ばれてくる間、静はふと顔を上げ、暁に問いかけた。
「暁さん、もし私が、あなたの手作りのデザートが食べたいと言ったら——作ってくれますか?」
暁は眉をひそめ、心底不可解だという顔で静を見つめた。
「何を言っている。そんなものはシェフの仕事だ。俺の時間をキッチンで無駄にするつもりはない」
静はゆっくりと視線を落とした。口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
——やはり、そうだった。
彼は斎藤美咲のためには、手作りのブルーベリーケーキを焼いた。SNSにまで投稿して、その愛を世界に誇示した。なのに、妻である自分のためには、たかがデザート一つすら、作る価値すらないというのだ。
愛しているか、いないか。その差は、これほどまでに残酷なほど明確だった。
静は抹茶トリュフを一口、口に運んだ。舌の上で広がる苦みを、彼女はゆっくりと噛み締める。まるで、今のこの人生そのもののように——どこにも吐き出せない、果てしない苦さ。
その時、暁のスマートフォンが震えた。彼は画面を一瞥すると、眉をひそめて通話を切った。しかしすぐに再び震え始める。二度、三度。
四度目の着信で、暁はついに立ち上がった。
「すまない、急用が入った。運転手は残しておく。俺を待つ必要はない」
彼はそれだけ言うと、ジャケットを手に取り、足早に個室を出て行こうとした。静も立ち上がる。その拍子に、椅子に掛けていたバッグが床に落ち、中身が散乱した。口紅、コンパクト、ハンカチ——そして、白い封筒。
「離婚届」と印字されたその一角が、レストランの柔らかな照明の下に、はっきりと晒された。
静は慌てて床に這いつくばり、その封筒を掴んでバッグに押し込んだ。暁が振り返り、その様子をじっと見ている。
「……何の書類だ」
「ただの、医療関係の資料です」
静は冷静を装って答えた。暁は疑わしげな目つきで彼女を見つめたが、再びスマートフォンが震えたのを機に、それ以上追及することなく、個室を後にした。
残されたのは、食べかけの料理と、静の決意だけ。
静は震える手でバッグを抱え直し、深く息を吸った。封筒の中には、昨日、丸の内の法律事務所で受け取った離婚届と、財産分与に関する合意書の雛形が入っている。弁護士は言った——「ご署名だけで進められますが、相手方の同意を得るのが最も確実です」と。
母が退院したら、すべてを終わらせる。その決意は、もはや揺るぎようもなかった。
レストランを出ると、冷たい夜風が頬を打った。静は暁の運転手を丁重に断り、一台のタクシーを拾った。行き先は自宅ではない。母の入院する病院だ。
タクシーの後部座席で、静はハンドバッグからコンシーラーを取り出し、目の下の濃い隈を丁寧に隠した。これから会う両親に、心配をかけるわけにはいかない。完璧な娘を、そして——少なくともあと数日は——幸せな鷹司家の嫁を、演じ続けなければ。
病院に着き、VIP病棟の廊下を歩いていると、ふと階段室のドアの隙間から、見慣れた後ろ姿が目に入った。暁だった。彼は廊下に背を向け、電話口の相手に何かを話している。その声は、驚くほど優しく、甘い響きを帯びていた。
——あの女を宥めるために、ここにも来ていたのか。
静はその場に立ち尽くした。怒りと屈辱が胃の奥から込み上げてくる。だが、ここは病院だ。母がいる。
やがて暁は電話を切り、振り返った。静の姿を認めると、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに完璧な笑みを顔に貼り付ける。
「静、来ていたのか。ちょうどお義母さんの様子を見に寄ったところだ」
その声も、表情も、非の打ちどころのない夫のものだった。静は背筋が凍る思いで、彼の演技を受け止める。彼は本当の優しさを別の女に与え、自分にはこの抜け殻のような偽物だけを向けるのだ。
病室では、父が満面の笑みで暁を迎えた。母も、暁の手から差し出される林檎の兎に、嬉しそうに微笑んでいる。誰が見ても理想的な婿——それが、この男の本当の顔だと、誰も知らない。
静はその隣で、ただ静かに微笑んでいた。バッグの中の離婚届が、ずしりと重く、彼女の決意を支えている。
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