
冷却期間?ふざけるな!唐澤さん、即決離婚&全財産放棄!
章 2
唐澤晚香は、その筆跡に一瞥で母の面影を見た。
遺書が突きつけたのは二つの絶望的な事実。 一つは、病苦に耐えかね自ら命を絶ったということ。 もう一つは、娘である晚香が、自らの意志で母名義の全財産相続権を放棄したということ。
信じられるはずがない。
母は十数年も精神病院に囚われ、意識は終日混濁していた。 そんな状態の母が、明晰な意志で遺書を書き残せるだろうか。
ましてや、自分が母の財産を放棄するなどと、口にした覚えすらなかった。
唐澤依奈が、嘲るように唇の片端を吊り上げた。 「お姉ちゃん、すべてを失った気分はどう?さぞ、辛いでしょう?」
その言葉と表情を見た瞬間、すべてが繋がった。 晚香は目を血走らせ、唐澤依奈を射殺さんばかりの視線で捉える。
つい先日見舞った時、母の精神は確かに安定を取り戻しつつあった。 それがなぜ、突然の自殺など。 ――間違いなく、目の前の二人の差し金だ!
母は名家の出で、唐澤道海に嫁ぐ際、計り知れないほどの財産を持参した。
その財産があったからこそ、しがない若者に過ぎなかった唐澤道海は、今や誰もが敬う唐澤社長へと成り上がれたのだ。
なるほど。 長年、唐澤道海が森川和美と不倫し、唐澤依奈という隠し子までいながら母と離婚しなかったのは、ただ母の財産を合法的に手に入れるためだったのか。
思えば、唐澤道海が母と結婚したこと自体が、初めから仕組まれた巨大な陰謀だったのかもしれない。
晚香の瞳は、今にも血の雫が滴り落ちんばかりに赤く染まっていた。
唐澤家と岩田家……この二つの家は、私たち母娘を骨の髄までしゃぶり尽くし、用が済んだら塵芥のように蹴り捨てた。
哀れな母さん。 死の淵で、一体どれほどの苦しみを味わったのだろう。
晚香は強く拳を握りしめた。 爪が掌に深く食い込み、じわりと痛みが滲む。
復讐を。
母の死を不審なままにはしておけない。 母の財産を、この豺狼どもの手に渡してなるものか。
唐澤家と岩田家、その全員に、血の代償を払わせてやる!
唐澤依奈は勝ち誇ったように晚香の前に顔を寄せ、囁く声で追い打ちをかけた。 「小さい頃から賢くたって、何の意味があるの?岩田さんにとって、あなたは学もない無教養な女。 海外留学帰りのエリートである私こそ、岩田夫人の座にふさわしいのよ」
岩田家が経営する岩田テクノロジーは、近年、深刻な技術的障壁に直面していた。 それを突破できれば、会社は順調に上場し、岩田家の社会的地位も盤石なものとなるはずだった。
その鍵を握るのが、「K」と呼ばれるテクノロジー界の伝説的な人物。 Kがかつてネット上に断片的に公開したコードは、業界の常識を覆すほどの革新性を秘めていた。 それを手に入れれば、岩田家は飛躍的な成長を遂げ、名門・加賀家すら凌駕する存在になり得ると言われていた。
唐澤依奈は誇らしげに胸を張った。 「留学時代、幸運にもK先生の講義を受けたことがあるの。 恩師と呼べる方だから、今でも連絡は取れるわ」
「本当か?」岩田皓輝が驚愕の声を上げた。
業界が巨額の報酬を掲げて探し回っても見つからない大物Kと、唐澤依奈に接点があったとは。
唐澤依奈は頷き、恥じらうように岩田皓輝の胸に身を寄せた。
神格化され、誰もが血眼で探すKのことなど知るはずもない。
だが、岩田皓輝と結婚するためには、この大風呂敷を広げるしかなかった。 岩田家の若奥様の椅子さえ手に入れてしまえば、K一人を探し出すことなど、もはや恐るるに足らない。
二人のやり取りを聞きながら、唐澤晚香は冷ややかに鼻を鳴らした。
その音色に含まれた侮蔑を敏感に察し、岩田皓輝は眉をひそめ、あからさまな嫌悪を込めて言い放った。 「お前のような学のない女に、K氏の偉大さが分かるものか。 離婚は明日だ。 荷物はすべて外に放り出しておく。二度と岩田家の敷居を跨ぐな」
岩田皓輝は唐澤依奈を腕に抱いたまま、背を向けて去っていった。
二人を見送る晚香の瞳の奥に、氷のような光が宿る。
確かに、自分はまともに学校へ通っていない。 だがそれは、幼い頃からその才能を見出され、個人の特技を専門的に育成する謎の組織に引き抜かれたからだ。
そして、コーディングこそ、彼女が最も得意とする分野の一つだった。
晚香は静かにスマートフォンを取り出す。
画面に映し出された無数のコード。 それは彼女が三年の心血を注ぎ、練り上げたものだ。
テクノロジー界が三年間探し求めていた大物K。 その正体こそ、結婚を機に岩田家で凡庸な主婦を演じていた唐澤晚香、本人だった。
岩田家を助けたい一心で、幾夜も徹してバグを修正し、ついに昨日、コードの後半を完成させたばかりだった。
本来なら、それを昨日、岩田皓輝に贈るはずだった。 今となっては、滑稽な独り善がりに過ぎない。
晚香はスマートフォンを、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
このコード一つで、岩田家を天の高みへ押し上げることも、唐澤家もろとも地獄の底へ突き落とすこともできる。
* 入院棟、VIP病棟の外。
主治医が足早に歩み寄り、加賀律真に加賀峻綸の容態を報告する。
「看護師たちの勇み足だったようです。 指の動きは植物状態の患者によく見られる無意識の身体反応でして、大旦那様のご意識が戻ったわけではございません」
秘書の佐々木直樹が深く頭を下げた。 「私の確認不足でした。 大旦那様がお目覚めになったと早合点し、ご報告を差し上げてしまい、大変申し訳ございません」
加賀律真は静かに首を振った。 「いや、誰かが意図的に親父が目覚めるという偽情報を流したんだろう。 俺のグループ継承を阻むためにな」
佐々木直樹が顔を上げた。 「……千葉様、ですね」
千葉智子。 加賀律真の継母であり、あらゆる手段を弄して加賀グループの支配権を狙う女。
加賀律真は頷いた。 「彼女も、もう待ちきれないのだろう」佐々木直樹は眉根を寄せた。
「なるほど。 それで大奥様が、若様のお側に女性を置こうと焦っておられたのですね。 大奥様が動かれなければ、先に千葉様がご自身の息のかかった女性を送り込んでいたでしょうから」
律真は目を細めた。
千葉智子が余計な手を打つ前に、正当な妻となる女性を早急に見つけなければならない。
その脳裏をよぎったのは、昨夜ベッドにいた女の姿だった。
加賀律真は佐々木直樹に命じた。 「人を探してくれ」
「どなたをでございますか?」
「昨夜の女だ」
葬儀社のスタッフが、母・唐澤清子の遺体を静かに運び出していく。 その光景を前に、唐澤晚香は魂が抜け落ちたように病院の廊下をさまよった。 どこへ向かうべきかも分からぬまま。
ふと我に返った時、彼女はVIP病棟の前に佇んでいた。
目の前には、墨色のスーツを端正に着こなした男。 両手をポケットに差し込み、彫刻のように美しい横顔で、部下に淡々と指示を与えている。
晚香が踵を返してその場を去ろうとした、まさにその時。 部下の一言が耳に届いた。 「かしこまりました、加賀の若様」
晚香の足が縫い付けられたように止まる。
――加賀家の人間?
部下の報告を聞き終えた加賀律真が顔を上げると、ちょうど、魂を抜き取られたかのような晚香の虚ろな瞳と、彼の静かな視線が交差した。
佐々木直樹が再び頭を下げた。 「ただちに捜索を開始させます」
「その必要はない」 加賀律真は晚香から目を離さぬまま、静かに唇を開いた。
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