
冷却期間?ふざけるな!唐澤さん、即決離婚&全財産放棄!
章 3
秘書の佐々木直樹は、主君である加賀律真の視線を追い、唐澤晩香へと目をやった。
その眉がわずかにひそめられる。
偶然にしては、あまりに出来すぎている。 まるで周到に仕組まれた罠のようだ。
「罠やもしれません。
ご注意を」と、佐々木直樹は低い声で忠告した。
加賀律真の瞳が、さらに昏い光を宿す。 「彼女がなぜ病院にいるのか、調べてこい」
「はっ」佐々木直樹は頷くと、足早にその場を離れた。
唐澤晩香は男が加賀律真だとは気づかず、無言で背を向けて立ち去ろうとした。
「じらすつもりか?」背後から投げかけられた声は、皮肉に満ちていた。
「人違いです」唐澤晩香は眉根を寄せた。
加賀律真は回り込んで彼女の前に立ちはだかると、ポケットに両手を突っ込んだまま、侮蔑を込めた視線で見下ろした。 「朝は清純ぶって『何もなかったことに』と言い放った女が、数時間も経たずに俺の前に現れるとはな。 偶然を装い、気を引く算段か?」
唐澤晩香の瞼が、かすかに震えた。
(この男が、昨夜……私の初めてを奪った男だというのか)
そこへ佐々木直樹が慌ただしく駆け戻り、加賀律真の耳元で囁く。 「彼女は唐澤晩香、唐澤道海の長女です。 母親が手首を切り自殺を図り、搬送されましたが……先ほど、息を引き取ったと」
加賀律真の眉がぴくりと動いた。 彼は視線を落とす。
その時初めて、加賀律真は唐澤晩香の手にこびりついた血と、スカートの裾をまだらに濡らす鮮血の染みに気づいた。
「……連れて行け。 身なりを整えさせろ」加賀律真は静かに命じた。
その有無を言わせぬ一言で、唐澤晩香は抵抗する間もなく加賀律真の屋敷へと連れ去られた。 シャワーを浴びて清潔な服に着替える頃には、ようやく虚ろだった魂が身体に戻ってきたかのように感じられた。
加賀律真はソファに深く身を沈め、冷たい銀色の光を放つジッポーを手の中で弄んでいる。
「祖母をどうやってたぶらかした?」 男は唐澤晩香を睨みつけ、瞳の色を深くして問い詰めた。
唐澤晩香は加賀律真の前に立ち、毅然と告げた。 「お祖母様は存じ上げません。 加賀様のお心遣いには感謝いたしますが、これ以上のご迷惑はおかけできませんので、失礼させていただきます」
加賀律真は鼻で笑った。
(俺が加賀の人間だと知りながら、まだ白を切るか)
だが、彼女が千葉智子の手先でない限り、この程度の小賢しい駆け引きは見逃してやってもいい。
「取引だ」彼は手の中のジッポーをローテーブルに放り投げ、カチャン、と硬質な音を立てさせた。 そしてゆっくりと瞼を上げ、射抜くように彼女を見据えた。
唐澤晩香は言葉を失った。
今の自分は何も持たない。 この加賀家の男が目を留めるほどの価値が、自分にあるとは思えなかった。
加賀律真は一枚の書類を、彼女の眼前に叩きつけた。 「サインしろ」
唐澤晩香は顔を上げた。 「……これは、何でしょう」
「婚前契約書だ」彼は足を組み、ソファに気だるげにもたれかかる。 その無造作な姿には、隠しようのない気品が漂っていた。
唐澤晩香は一瞬、思考が停止した。
加賀律真は黒い瞳で彼女を射抜き、唇の端に嘲りを浮かべる。 「あれこれ画策したのは、俺の妻の座を手に入れるためだろう?」
唐澤晩香は眉をひそめた。 「加賀様、何か誤解をされているようですが、私は既婚者です」
男がすっくと立ち上がり、彼女の前へと歩み寄る。 その長身が落とす影に、唐澤晩香は完全に飲み込まれた。
鼻腔をくすぐる爽やかなウッディ系の香りに、心臓が制御不能なほど跳ね上がる。
加賀律真は口元を歪め、嬲るように言った。 「貞淑ぶる割に、昨夜はなぜ俺と寝た?」
唐澤晩香の顔が、さっと赤らんだ。
昨夜の男は泥酔し、力もなかった。 本気で抵抗すれば、身を失うことはなかったかもしれない。
だが、彼女はそうしなかった……。
「祖母が気に入ったからには、お前には何かがあるのだろう。 岩田皓輝とは離婚しろ。 そして、俺に嫁げ。 悪いようにはせん」
唐澤晩香の瞳が揺らぐ。
男の言葉を反芻するうち、二人の間に致命的な誤解があることに気づいた。
唐澤晩香は思考を巡らせる。 この誤解は、使えるかもしれない。
唐澤依奈の言う通り、今の自分は無力だ。 復讐を誓っても、蟷螂の斧に過ぎない。
もし、加賀家の権力を手に入れられるなら……すべてが変わるかもしれない。
目の前の男の気品と風格、そしてこの豪奢な屋敷。 彼が加賀家で相当な地位にあることは明らかだ。
母は死に、岩田家には戻れず、唐澤家からも追い出された。 今の自分には、身を寄せる場所すらないのだ。
そこまで考え至り、唐澤晩香は顔を上げた。 「……わかりました」
加賀律真は「婚前契約書」を彼女の前に押しやった。
びっしりと並んだ文字の羅列に、唐澤晩香は頭痛を覚える。
彼女は契約書を男の胸に投げ返した。 「読んでください」
加賀律真は眉をひそめた。
常に人に読み聞かせる側だった自分が、いつから指図されるようになったのか。
「失読症なのです。 文字が込み入っていると、頭が痛くなってしまって」唐澤晩香はそう言って、か細い声で付け加えた。
加賀律真の目に、疑念の色が浮かぶ。
(まさか、非識字者ではあるまいな?)
いや、祖母が教養のない女を俺に宛がうはずがない。
加賀律真は契約書を脇に放り、冷淡な声で告げた。 「お前が覚えるべきは三つだけだ」
「一つ、婚姻期間は一年。 一年後、いかなる理由があろうと関係は解消する」
唐澤晩香はわずかに眉を上げた。
たった、一年。
悪くない。
「承知いたしました」彼女はきっぱりと答えた。
加賀律真は彼女の瞳をじっと見据える。 「二つ、もし妊娠した場合、子供はこちらで引き取るが、母親は去れ。 そして、生涯母親だと名乗ることは許さん」
唐澤晩香は眉根を寄せた。
あまりに非道い)だが。
自分が妊娠することなどあり得ない。
「はい。 最後の一つは?」彼女は頷いた。 加賀律真はさらに一歩踏み込み、彼女の呼吸がかかるほどの距離で見下ろした。その威圧感に、唐澤晩香は息を呑む。
「最後の一つ。 そして、これが最も重要だ。 ――俺がお前を愛することは、ない。 お前も、俺を愛そうなどと夢にも思うな」
唐澤晩香の瞳が、微かに揺れた。
正直、目の前の男が非の打ちどころのない容姿と、見事な体格の持ち主であることは認める。 だが、彼もまた、自分にとっては見ず知らずの他人だ。
見知らぬ他人を、愛せるはずがない。
唐澤晩香はペンを手に取ると、契約書に己の名を刻み込んだ。 「加賀様のお心のままに」
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