
兄の悔恨、炎に消えた妹
章 2
橘蒼甫は、森永警部の言葉を遮るように答えた。私の魂は、また全身が凍り付くような感覚に陥った。彼の顔には、苛立ちがはっきりと浮かんでいた。
「あいつのことは、話題にするな」
蒼甫の声は冷たかった。視線は、遺体から外れることなく、しかし、その瞳には明確な嫌悪が宿っていた。
「陽葵は、俺にとって迷惑な存在だ。消防庁の人間が、あんな虚言癖のある人間と関わっていると知られたら、俺の立場も危うくなる」
蒼甫は吐き捨てるように言った。
森永警部が何か言いたげに口を開いたが、蒼甫はそれを許さなかった。
「あいつは俺の妹じゃない。俺の妹は、火事から俺を庇ってくれた、か弱い美桜だけだ」
蒼甫の言葉が、私の魂を深く切り裂いた。
美桜…美桜が、私の妹?
美桜は、両親が火事で亡くなった後、うちに引き取られた養女だ。あの火事は、美桜の火遊びが原因だったはず。私は当時まだ幼かったお兄ちゃんを庇って、背中に大きな火傷を負った。なのに、美桜は「陽葵ちゃんが火をつけたの」と泣きながら嘘をついた。そして、自分は「火事でお兄ちゃんを守った可哀想な被害者」として、お兄ちゃんの心を独占したのだ。
その日以来、お兄ちゃんは私を憎み、美桜を溺愛した。私が何を言っても、彼は美桜の言葉しか信じなかった。美桜は弱々しく震えながら嘘を重ね、お兄ちゃんは、その言葉を鵜呑みにし、私を「放火魔」と呼ぶようになった。
私を家から追い出したのも、お兄ちゃんだった。高校を卒業してすぐ、彼は私に家を出ていくように言った。私に居場所はなかった。
私は、自嘲するように笑った。私の魂は、こんなにも傷ついているのに、もう涙を流すことすらできない。
「陽葵は、俺を苦しめるためなら何でもする。俺が出世するたびに、必ず何か邪魔をしてきた」
蒼甫は、憎しみを込めて言った。
邪魔なんて…そんなこと…
私の魂は、悲痛な叫びを上げた。私は、ただ、お兄ちゃんに認めてほしかっただけなのに。
「今回も、どうせ俺の邪魔をしようとしているだけだ。俺が、美桜との婚約を発表するから、また何かするつもりだろう」
彼の言葉は、まるで私の存在そのものを否定しているかのようだった。
もし、お兄ちゃんが真実を知ったら…どうなるんだろう?
私は、お兄ちゃんの顔を見上げた。彼の心には、私の存在は、憎しみと迷惑以外の何物でもない。
きっと、お兄ちゃんは私が本当に死んだと知っても、喜ぶんだろうな。
そんなことを考えていると、私の魂は、また凍えるような感覚に襲われた。
「橘隊長、少し話があるんだが」
森永警部が、蒼甫の腕を掴んだ。彼の顔には、明らかな不満が浮かんでいた。
「陽葵さんは、君が思うような人間じゃない。彼女は、君のために、どれだけ努力してきたか…」
森永警部が、蒼甫に語りかけた。
「努力? あいつが?」
蒼甫は、嘲笑するような表情を浮かべた。
「ああ。君がハイパーレスキュー隊に入ってから、陽葵さんはずっと君の背中を追っていた。君と同じ、人命救助の道に進むために、猛勉強して救急救命士の資格を取ったんだ」
森永警部の言葉に、蒼甫の表情は変わらない。
「そして、君が現場で食べる弁当を、毎日のように作って届けていた。君が体調を崩した時も、誰よりも早く駆けつけて、看病していたじゃないか」
「それが何だ。全て、俺の気を引くための芝居だろう」
蒼甫は、冷たく言い放った。
「芝居だと? 君は、実の妹の優しさを、一度も信じたことがないのか?」
森永警部の声が、次第に大きくなった。
「信じる価値もない。あいつは嘘つきだ。俺は、美桜しか信じない」
蒼甫は、首を振って、森永警部から視線を逸らした。
「もういい。陽葵の話はするな。俺は仕事に戻る」
蒼甫は、そう言い残すと、遺体安置室の奥へと向かって歩き出した。
森永警部は、諦めたようにため息をついた。
「隊長、最近、失踪届は出ていませんか?」
蒼甫は、突然立ち止まり, 部下に尋ねた。
「いえ、特に大規模な失踪届は届いていませんが…」
部下は首を傾げた。
「おかしいな。これだけ残忍な事件なのに、身元不明のままだなんて。被害者の家族は、何をしているんだ」
蒼甫は、苛立ちを隠せない様子で言った。
お兄ちゃん…家族が、ここにいるよ。
私の魂は、彼の隣で、痛みに耐えていた。
「昼食にしよう。少し休憩だ」
蒼甫は、そう言って、遺体安置室を出て行った。
森永警部が、ぼんやりと天井を見上げていた。
「そういえば…陽葵さん、最近、妙なことを言っていたな」
森永警部が、独り言のように呟いた。
私の魂は、彼の言葉に、わずかに反応した。
「何ですか、警部?」
部下の一人が尋ねた。
「陽葵さん、最近、妙に怯えていたんだ。誰かに命を狙われているようなことを…」
森永警部の言葉に、蒼甫が廊下から戻ってきた。彼の顔には、不機嫌さが浮かんでいた。
「また、あいつの嘘か。俺の気を引くための、悪質な嘘だろう」
蒼甫は、鼻で笑った。
「そんなことはない! 陽葵さんは、本当に困っていたんだ! 君に助けを求めていたんだぞ!」
森永警部は、怒りに顔を紅潮させた。
「俺に? 俺に助けを求めていただと? ふざけるな。あいつは、いつも俺を陥れようとする」
蒼甫は、冷たい目で森永警部を見つめた。
「陽葵さんは、君のために、どれだけ…」
「もういい! あいつのことは、放っておくんだ。どうせ、また芝居だろう」
蒼甫は、森永警部の言葉を遮った。
「陽葵は、俺に電話をかけてきた時も、いつも泣きついてきた。俺に謝罪しろ、俺を信じろ、俺を愛せと…」
蒼甫の声には、明確な嫌悪が混じっていた。
「そんなことは…」
「いい加減にしろ、森永警部」
蒼甫の携帯電話が鳴り響いた。彼の顔から、一瞬にして不機嫌な表情が消え去った。
彼の表情は、まるで氷が溶けるかのように、柔らかなものへと変わっていった。
誰だろう…
私の魂は、その変化に、言いようのない不安を感じた。
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