
私を捨てるなら、全部持って行っていい
章 3
佐々木は律真の視線を追い、その先に立つ女を見た。
そして、眉をひそめる。
こんな偶然、あるか?
……いや、できすぎだ。
「若さま、ご注意を。罠の可能性があります」低く進言すると、律真の瞳が冷たく光った。
「彼女がなぜ病院にいるのか、調べろ」
佐々木は頷き、足早にその場を離れる。
晚香は、目の前の男が昨夜の相手だとは気づかず、踵を返そうとした。
だが。「……駆け引きのつもりか?」背後から、嘲るような声が落ちてきた。
「人違いです」不快げに眉を寄せる彼女の前に、律真が立ちはだかる。ポケットに手を突っ込み、傲然と見下ろした。
「今朝は『何事もなかったことにして』なんて言ってたくせに。数時間でまた俺の前に現れるとはな。偶然を装って気を引こうとでも?」
まぶたが、ぴくりと跳ねる。
この男が、昨夜、自分の処女を奪った男……?
その瞬間、佐々木が駆け戻り、律真の耳元で囁いた。「唐澤晚香。唐澤道海の長女です。……母親が自殺。先ほど亡くなりました」
律真の眉がわずかに動く。視線が下がり、彼女の手にこびりついた血、スカートに滲む鮮血を見て、ようやく状況を理解した。
顎をしゃくり、冷たく命じる。
「……連れて行け。汚れている」
そうして晚香は、律真の屋敷へと連れられた。シャワーを浴び、清潔な服に着替えるころには、ぼんやりしていた意識がようやく戻っていた。
ソファに深く身を沈めた律真が、銀色のライターを弄びながら問う。
「どうやってうちの婆さんを丸め込んだ?」 「加賀さんのお祖母様にはお会いしていません。……ご配慮には感謝しますが、もう帰らせていただきます」
淡々と答える晚香に、 律真は鼻で笑った。
(俺の姓が『加賀』だと知っていて、まだシラを切るか)
だが、継母の息がかかった女でないなら、この程度の嘘は目をつぶってやる。
「取引をしよう」ライターをテーブルに投げ、彼はまぶたを上げた。その眼差しが、鋭く晚香を射抜く。
「……取引?」
思わず問い返した彼女の前に、一枚の書類が滑らされる。
「サインしろ」
晚香は視線を落とす。「……これは?」
「婚前契約書だ」律真は脚を組み、背もたれに身を預けた。その仕草ひとつに、血統が滲む。
晚香は思考が止まった。
律真が、唇の端を歪める。「必死に策を弄したんだろう。……俺と結婚したかったんじゃないのか?」
「誤解です。私、もう結婚しています」晚香が静かに言い放つと、律真が立ち上がった。
その長身が、瞬く間に彼女を影で包み込む。
ふわりと香る木の匂い。心臓が、抑えきれないほど跳ねた。
律真は、唇の片端を皮肉気に吊り上げる。「そんなに『貞淑』な女が、昨夜、なぜ俺と寝た?」
その一言に、晚香の頬が真っ赤に染まる。
——抵抗できたはずだ。
けれど、しなかった。
「婆さんが気に入るだけはある。人並み以上の何かは持ってるんだろう」顎をつかまれ、強引に顔を上げさせられる。冷たい瞳が覗き込んだ。「岩田皓輝と離婚しろ。そして、俺と結婚する。……悪いようにはしない」
——思考が止まる。
だがすぐ、別の考えが浮かんだ。
(この誤解……利用できるかもしれない。)
母は死に、夫の家には戻れず、 唐澤家からも追放された。
今の自分には、行く場所も、金もない。
ならば、この加賀家の力を借りるのも、悪くない。
「……いいわ」顔を上げ、静かに答える。
律真が再び契約書を差し出した。 細かい字を見た途端、頭痛が走る。
彼女は書類を押し返した。
「……あなたが、読んで」
「……は?」律真の眉がひそむ。
彼に読み聞かせをさせる人間など、これまで存在しなかった。
「私、読むのが苦手で。字が多いと、頭が痛くなるんです」晚香は、そう言った。
律真の目に、一瞬、疑惑が浮かんだ。
(……文字も読めないのか?)
だが、婆さんがそんな女を選ぶはずがない。
律真は契約書を放り投げ、冷ややかに言った。「覚えておけ。条件は三つだ」
「第一、婚姻は一年限定。一年後、何があろうと解消する」
晚香の眉が、わずかに上がった。
(……一年。
悪くない。)
「承知しました」 迷いなく答える晚香に、律真は続けた。
「第二。もし妊娠したら、子供はうちが引き取る。お前は母親として名乗ることも、関わることも許さない」
晚香の眉が、鋭く跳ね上がった。
——酷い。
だが、妊娠などするはずがない。
「……わかりました。最後は?」
律真が一歩近づく。その声は、氷のように冷たかった。「最後にして最も重要なことだ」「俺はお前を愛さない。お前も、俺を愛するな」
その瞬間、晚香の胸が静かに波打った。
彼は完璧な容姿と体を持つ男。だが、それでも、彼は他人だ。
愛する理由など、どこにもない。
ペンを取り、名前を書き記す。「ええ。……望み通りに」
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