アルファの後継者、私の望まぬ心 の小説カバー

アルファの後継者、私の望まぬ心

8.8 / 10.0
東京の社交界で「理想の夫婦」と称えられる蓮と佳乃。しかし、その実態は嘘に塗り固められた虚像だった。蓮は「自身の子供を宿す女性は必ず命を落とす」という奇妙な遺伝病を口実に、佳乃との間に子を設けようとしなかった。だが、父の遺言で後継者が必要になると、彼は佳乃に瓜二つの若い女性・亜梨沙を代理母として迎え入れる。次第に蓮の関心は亜梨沙へと移り、大切な記念日さえも蔑ろにされていく。不信感を募らせる佳乃がパーティーで耳にしたのは、妻を精神的な繋がりに過ぎないと切り捨て、愛人との情事こそが真実の炎だと豪語する夫の姿だった。かつて佳乃に誓った軽井沢の別荘で、彼は亜梨沙と極秘の結婚式を挙げ、新たな人生を歩もうとしていたのだ。裏切りの深さを知った佳乃は、絶望の淵で冷徹な決意を固める。出張から帰宅した夫に献身的な妻を演じながら、彼女は密かに「脱出」と「復讐」の準備を進めていた。佳乃が受話器の向こう側に求めたのは、標的をこの世から跡形もなく抹消する専門組織の力だった。完璧な嘘には、完璧な終わりが必要なのだ。

アルファの後継者、私の望まぬ心 第1章

夫の蓮と私は、東京の誰もが羨む「ゴールデンカップル」だった。

でも、私たちの完璧な結婚は嘘だった。

彼が持つという稀な遺伝的疾患のせいで、私たちは子供のいない夫婦だった。

彼の子供を身ごもった女性は、必ず死ぬ。彼はそう主張した。

蓮の父親が死の床で世継ぎを要求したとき、彼は解決策を提案した。

代理母だ。

彼が選んだ女、亜梨沙は、まるで若かりし頃の私を、もっと瑞々しくしたような女だった。

突然、蓮はいつも彼女のことで忙しくなった。

私の誕生日を忘れ、結婚記念日もすっぽかした。

私は彼を信じようとした。

パーティーで、彼が友人たちに本音を漏らすのを聞いてしまうまでは。

「佳乃とは深い繋がりを感じる。でも、亜梨沙は…炎だ。燃え上がるような興奮がある」

彼は亜梨沙と軽井沢で密かに結婚式を挙げる計画を立てていた。

かつて私に約束した、あの別荘で。

彼は彼女に家族を、人生を、そのすべてを与えようとしていた。

嘘を言い訳に、私からすべてを奪っておきながら。

裏切りはあまりに完璧で、全身を殴られたかのような衝撃だった。

その夜、出張だと嘘をついて帰ってきた彼に、私は微笑み、愛情深い妻を演じた。

私がすべてを聞いていたなんて、彼は知りもしない。

彼が新しい人生を計画している間に、私がすでに脱出計画を立てていることも。

そして、私がたった今、あるサービスに電話をかけたことなど、知る由もなかった。

人を「消す」ことを専門とするサービスに。

第1章

佳乃 POV:

その嘘は、我ながら美しいものだったと思う。

蓮は、彼が経営する多国籍企業「月光院グループ」を動かすのと同じくらいの緻密さで、その嘘を作り上げた。

「母さんは俺を産んで死んだんだ、佳乃」

何年も前、彼はそう言った。

骨の髄まで震わせるような低い声で。

大きくて温かい彼の手が、私の手を包み込んだ。

「月光院の血筋は…呪われている。月の女神は、俺のアルファとしての強さの代償に、母さんの命を奪った。だから俺は、運命の相手を見つけることができない。絆を結べば、相手を殺してしまうから」

私は彼を信じた。

愛していたから、信じた。

女狼なら誰もが夢見る、運命の繋がりへの渇望を、私は押し殺した。

古代の錠前がその鍵を見つけたかのように、魂がカチリとはまる、あの感覚。

私は「契約上のパートナー」という役割を受け入れた。

政略結婚の相手であり、魂ではなく、肩書だけの未来のルナ。

私は、強大なアルファCEOに相応しい、完璧で優雅なアクセサリーだった。

今夜、その美しい嘘が、ほころび始めた。

私たちは、彼の父親の書斎にいた。

古い革と、不満の匂いが空気に満ちている。

厳しい決断の歴史が顔に刻まれたロードマップのような男、月光院家の長老が、巨大な楢のデスクの向こうから蓮を睨みつけていた。

「貴様の生命力は衰えている、蓮」

長老の声は、砂利のようだった。

「私にもわかる。群れも感じている。この群れには世継ぎが必要だ。血筋には世継ぎが必要なのだ。次のブラッドムーンまでに世継ぎを指名できなければ、アルファの称号は貴様の従兄弟に譲ることになる」

その脅しは、重く息苦しい沈黙となって垂れ込めた。

蓮は微動だにしなかった。

「解決策はあります」

彼の声は、冷たく、そっけない。

「『血の融合』の儀式です。古いやり方ですが、血筋の純粋性は保証されます。いわば…代理出産のようなものです」

息が詰まった。

彼は、私に何も相談していなかった。

「これは純粋に、群れの存続のためです」

彼はそう付け加え、ようやく私に目を向けた。

いつもは温かい蜂蜜色をしている彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。

彼が選んだオメガの名は、亜梨沙といった。

彼女は、弱小な群れの出身で、不気味なほどに、若くて脆い頃の私に似ていた。

「彼女が俺のアルファのエネルギーに順応するのを手伝う必要がある」

その後、蓮はそう説明した。

「儀式は彼女にとって大きな負担になる。彼女の準備を万全に整えるのが、俺の義務だ」

彼の「義務」は、彼女のプライベートなマンションで長い夜を過ごすことから始まった。

そして、一晩中。

私の誕生日は、来たかと思うと過ぎ去っていった。

彼が約束してくれた盛大な祝賀会は、短い謝罪のメッセージと共にキャンセルされた。

『亜梨沙が俺のエネルギーに拒絶反応を示している。彼女を安定させなければならない』

私たちの契約記念日、私は一晩中待った。

時計の針が深夜零時を過ぎた。

諦めかけたその時、絆で結ばれたペアだけが共有する精神感応、マインドリンクを通して、囁きが聞こえた。

『記念日おめでとう、佳乃』

それだけだった。

感情も、彼の存在感もない。

ただ、何キロも離れた場所から、頭の中に響く言葉だけ。

今夜、嘘は完全に砕け散った。

チャリティーの会合からの帰り道、人気のない道で、群れを持たない野良の狼、はぐれ狼の小集団に車を襲われた。

酸っぱい絶望と狂気が混じった彼らの悪臭が、空気に満ちた。

私は戦った。

爪が肉を引き裂き、私の内なる狼が唸り声を上げて表面に現れた。

無様な戦いだったが、私はアルファのパートナーだ。

弱くはない。

戦いが終わった時、私の車はスクラップになり、体は引っ掻き傷だらけだった。

私はマインドリンクで蓮に呼びかけた。

『蓮、助けて。襲われたの』

沈黙。

『蓮、お願い!どこにいるの?』

その沈黙は、物理的なものだった。

私の心の中にある、冷たい壁。

彼は私をブロックしていた。

私は心臓に冷たく重い石を抱えながら、残りの3キロを足を引きずって歩いた。

ペントハウスに近づくと、別の匂いが夜風に乗って鼻をついた。

甘い。むせ返るような甘さ。

女狼のフェロモン。

そして、それは私の匂いではなかった。

群れのプライベートクラブの外で、彼らを見つけた。

姿は見えなかったが、蓮の精神ブロックが一瞬、滑ったのだろう。

彼のベータに向けられた自慢話、その断片的な思考が、物理的な打撃のような力で私の心に叩きつけられた。

『佳乃は俺の魂に完璧にフィットする、穏やかな港だ。でも亜梨沙は…亜梨沙は、俺の狼が渇望する野火なんだ』

足から力が抜けそうになった。

野火。

彼は彼女のために、密かな絆の儀式を計画していた。

かつて私を連れて行くと約束した聖地、月の女神の聖域で。

震える手で、私はスマートフォンを取り出した。

蓮は今夜、北の国境を視察しに行くと私に告げていた。

しかし、私がまだバッグに入れていた、彼と同期されたタブレットに通知が光っていた。

亜梨沙からのメッセージ。

「今夜のデート、待ちきれない!完璧なドレスを選んだよ」

私の心は壊れなかった。

ただ、止まった。

氷になり、そして塵になった。

私は家には帰らなかった。

車をUターンさせ、群れの連中が存在しないふりをしている街の一角へと向かった。

かすかな三日月の印が一つだけ記された、何の変哲もないドアに歩み寄った。

看板にはこう書かれていた。

「影の聖域」

ここは、姿を消す必要がある人間が訪れる場所。

そして今夜、私は悟った。

それこそが、今の私に必要なことなのだと。

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