
貴方の愛は、もう私には遅すぎた
章 3
広森千由紀 POV:
「置物みたい... 」
看護師たちの囁きが, 手術室へと向かう私の耳から離れなかった. 私は本当に, この8年間, 感情のない置物として生きてきたのだろうか. この結婚が, 私に何か幸福をもたらしたことなど, 一度もなかった.
手術室の白い天井が, 私を空虚な空間へと引きずり込んでいくようだった.
手術直前, 弘道と琴美が病室に現れた. 彼らは, 私のベッドサイドに立った. 弘道は, 憔悴した顔で私を見下ろしていた.
「千由紀, 体の具合はどうだ? 酷い怪我だと聞いたが. 」
彼の声には, 僅かな心配の色が混じっていた. けれど, それは, 私への心配ではなかった. 彼の家族の顔としての, 形式的な言葉だった.
「お前が運転を誤ったせいで, 琴美まで危険な目に遭ったんだぞ. もし琴美に何かあったら, どうするつもりだった? 」
彼の言葉は, 私への非難だった. 私は, 何も言えなかった. ただ, 彼の目を見つめ返すだけだった.
「でも, 弘道さん, 私, 無事でよかったわ. 本当に, 奇跡よ. 」
琴美は, 彼の腕に抱きつきながら, 甘えた声で言った. その顔は, まるで私を責めているかのように, 弘道に寄り添っていた.
「ああ, 琴美が無事で, 本当に良かった. 」 弘道は琴美の頭を優しく撫でた. 「今夜は, 君を連れて最高のレストランに行こう. 美味しいものを食べて, 元気を出してくれ. 」
彼の言葉は, 私の心を深く突き刺した. 彼は, 私の目の前で, 琴美とのデートの約束をしたのだ. 私は, ただ, その光景を静かに見ていた.
その時, 医師が病室に入ってきた.
「奥様, 手術の準備が整いました. そろそろ手術室へ. 」
医師の声が, 私を現実へと引き戻した. 弘道は, 私に一瞥もくれず, 琴美の顔を見つめていた.
「弘道さん, 私, 寂しいわ. 一人で大丈夫かしら? 」 琴美は, わざとらしく不安そうな顔で弘道に尋ねた.
「大丈夫だ, 琴美. 君は私が守る. 千由紀は, 今は休ませておけ. 」
弘道はそう言って, 琴美の手を握りしめた. 彼の視線は, 最後まで私に向けられることはなかった.
手術は無事に終わった. 私は, 病室のベッドで目を覚ました. 右腕には, ギプスが巻かれている. 頭も, 包帯でぐるぐる巻きだ.
「奥様, ご家族にご連絡しましょうか? 」
看護師が, 私の顔を覗き込んだ. 私は, 一瞬, 迷った. けれど, 私の脳裏に浮かんだのは, 弘道の冷たい顔と, 琴美の勝ち誇った笑みだった.
「いいえ, 必要ありません. 」
私の声は, ひどく冷たかった. 看護師は, 少し驚いたような顔をしたが, 何も言わなかった.
私は, 自分で手配した看護師に, 身の回りの世話をしてもらうことにした. 弘道は, 私の病室に一度も顔を見せなかった. 彼と琴美は, 毎日, 楽しそうに外出していた. 琴美は, 毎日, 弘道との親密な写真を私に送りつけてきた. 温泉旅行, 高級レストラン, 遊園地. どれもこれも, 私が知らない彼らの姿だった.
私は, その写真を見ても, 何も感じなかった. ただ, 早くこの生活から抜け出したいと願うだけだった.
病室で, 私はひたすら作業に取り組んだ. 幸いにも, 右手ではなく左手に怪我を負ったため, デザインのスケッチは可能だった. 私は, 以前から幸恵と一緒に取り組んでいた, 新しいジュエリーデザインのプロジェクトに没頭した.
幸恵は, 私の唯一の理解者だった. 彼女は, 世界的に有名なジュエリーデザイナーで, 私の才能を誰よりも早く見抜いてくれた. 私が弘道と結婚する前, 私は彼女の元で修行していた.
「千由紀, あなたの才能は, こんな場所で埋もれていいものじゃない. いつか, 私の元で, 一緒に世界を驚かせましょう. 」
幸恵は, いつもそう言って, 私を励ましてくれた. 私が弘道との結婚生活に苦しんでいる間も, 彼女は私に寄り添い, 私が密かにデザインを続ける手助けをしてくれた.
「千由紀, あなた, 星野家に来てから, もう8年にもなるの? あなたの人生, あの男に8年間も無駄にされたのね. 」
幸恵は, 私の怪我を知って, すぐに病院に駆けつけてくれた. 彼女は, 私の手を握りしめ, 涙を流した.
「いいえ, 幸恵. 無駄ではなかったわ. 」私は首を横に振った. 「あの8年間がなければ, 私は今の私にはなれなかった. 家族のために犠牲になったあの経験が, 私を強くしたのよ. 」
私の言葉に, 幸恵は複雑な表情を浮かべた.
「でも, あなたの夢は? 」
「夢は, まだ終わってないわ. むしろ, これからが本番よ. 」
私はそう言って, 微笑んだ.
私の契約は, もうすぐ終わる. そして, 私は自由になる. もう二度と, 弘道の冷たい視線に怯えることも, 琴美の挑発に耐えることもない.
私は, 私の夢を叶えるために, この病院を出る.
退院当日, 弘道から電話がかかってきた.
「千由紀, お前, 退院するのか? なぜ私に連絡しなかった? 」
彼の声は, 苛立ちに満ちていた. 私は, 彼に連絡する義務などない.
「弘道さん, 私はもう, あなたの妻ではありません. もうすぐ, あの家を出るでしょう. 」
私の言葉に, 電話の向こうで弘道が舌打ちをする音が聞こえた.
「何を言っているんだ. お前は私の妻だ. それに, 最近, 家の中が散らかり放題だ. 琴美は何もできない. お前がいないと, 何も回らないんだ. 」
彼の言葉は, 私をまるで家政婦のように扱っていた. 私は, 彼の言葉に, 何も感じなかった.
「お前は, 今すぐ家に帰ってこい. 私の書斎にある書類を整理しろ. 琴美は, 私の大切な書類に触れることさえできない. 」
彼は, 私に命令した. 私は, 一瞬, 拒否しようとした. けれど, すぐに思い直した.
「弘道さん, 今, 看護師さんが退院の手続きに来てくれたわ. 失礼します. 」
私はそう言って, 電話を切った. 弘道の怒鳴り声が, まだ耳の奥でこだましていた.
幸恵が, 私のベッドサイドに立っていた. 彼女は, 私の手を握りしめ, 微笑んだ.
「さあ, 千由紀. 新しい人生を始めましょう. 」
私は, 幸恵の言葉に頷いた. 私たちは, 病院の出口へと向かった.
「千由紀, 本当に, もう自由になったのね. 」
幸恵の声は, 私の心を温かく包み込んだ.
「ええ, 幸恵. もう, 全て終わったわ. 」
私は, そう答えた. そして, 離婚届を提出することを心に誓った.
「おめでとう, 千由紀! お祝いだ! 」
幸恵は, 私の手を握りしめ, 歓声を上げた.
「どこか, 美味しいものでも食べに行きましょうか? 」
「ええ, そうね. 」
私は, 幸恵の提案に頷いた.
その瞬間, 私の携帯電話が再び鳴った. 弘道からだった. 私は, その電話を無視した. 幸恵は, 私の顔を見て, 心配そうに尋ねた.
「まだ, あの人と繋がってるの? 」
私は, 幸恵に全てを話したことがなかった. 私の心の中に, 彼への感情がまだ残っているのかと, 幸恵は心配しているのだろう.
私は, 携帯電話を机の上に置いた. 彼の電話は, まだ鳴り続けている. しかし, 私の心は, もう何の感情も抱いていなかった.
「幸恵, もう終わったのよ. 私たちの世界は, もう違うの. 」
私は, そう言って, 静かに微笑んだ. 幸恵は, 私の言葉に頷き, 私の肩を抱いた.
私たちは, 病院を出て, 幸恵が手配してくれた迎えの車に乗り込んだ. 車は, 私がずっと行きたかった, 小さなレストランへと向かった.
私は, テーブルに運ばれてきた料理を見て, 思わず涙が溢れた. それは, 私が弘道と結婚する前, 幸恵とよく通っていたレストランの, 思い出の料理だった.
「千由紀, どうしたの? そんなに美味しい? 」
幸恵が, 私の顔を覗き込んだ. 私は, 何も言わなかった. ただ, 涙を流しながら, 料理を食べ続けた.
私が, 弘道と結婚して以来, 彼の家では, 私が食べることのできる料理は限られていた. 彼の家族は, 伝統を重んじ, 特定の食材しか口にしなかった. 私が好きな庶民的な料理は, 全て禁止されていた.
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