
目覚めた妻は、裏社会の女帝でした。
章 2
セレス・グランドホテル、宴会場。
「それでは、秋山グループ秋山社長のご登場です!盛大な拍手でお迎えください!」
盛大な拍手が鳴り響く中、慎決が秘書の恵奈を従えて悠然と姿を現した。
江城随一の格式と名高いホテルで、しかも江城最大の企業・秋山グループが主催する宴会とあって、会場には江城の財界を主導する大物たちが半数近くも顔を揃えていた。
秋山グループと取引のあるパートナー企業の重役たちも、ずらりと列席している。
これほど盛大な宴が催された理由はただ一つ――秋山グループの新CEO就任を発表するためだ。
「きゃあっ!秋山社長、素敵!」
「イケメンなだけじゃなくて、本当に誠実なお方よね。あれほど優秀なのに、三年間も植物状態の奥様のために再婚もせず、身を慎んで守り通してるなんて。しかも奥様って、実家から勘当された身寄りがない方だったらしいわよ」
「まあ……なんて幸せな方なのかしら」
「本当よね。三年前、国内で最も高名な医学博士・斎藤教授ですら匙を投げたのに、秋山社長は諦めなかった。社長がいなければ、あの方はとっくにこの世にいなかったわ……」
会場のあちこちから、女性たちの羨望に満ちた囁きが聞こえてくる。
それを耳にした慎決は、思わず得意げに胸を張った。
その時、取締役会代表取締役の渋谷真が歩み寄り、集まった人々の前で高らかに宣言した。
「皆様もご存知の通り、当グループの夏目前CEOが三年にわたり病気療養中でございます。つきましては取締役会での協議の結果、夏目CEOの職務を引き継ぐ新たなCEOを選出する運びとなりました」
「そして、新CEOに就任されるのは――」
まさにその瞬間だった。
突如として鳴り響いた携帯電話の着信音が、厳かな発表を遮った。
慎決はポケットから携帯を取り出す。画面に表示された「病院」の文字に一瞬眉をひそめたが、すぐに平静を装って通話ボタンを押した。
電話口から、看護師の慌ただしい声が聞こえてくる。
『秋山様、奥様の夏目綾華様が先ほどお目覚めになりました。いつ頃こちらへお越しになれますでしょうか?』
「……何だと!?」驚愕のあまり、慎決の手から携帯が滑り落ちそうになった。
夏目綾華が、目を覚ました?
そんな馬鹿な――!
だが、周囲に疑念を抱かせるわけにはいかない。慎決は慌てて電話を切り、渋谷に向き直った。「大したことではありません。渋谷さん、どうぞお続けください」
株式の権利さえ手に入れてしまえば、たとえ綾華が目を覚ましたところで、もう手遅れなのだ。
渋谷は頷き、発表を再開した。「取締役会を代表いたしまして、秋山慎決氏を秋山グループの新CEOに正式に任命いたします!」
「おおっ!」
割れんばかりの拍手が会場を包んだ。
「渋谷さん、では株式譲渡契約の調印はどちらで?」 綾華が目覚めたと知り、慎決は焦りを隠せずに催促した。
しかし、渋谷は静かに首を横に振った。「秋山社長、調印は本日ではございません」
「今日じゃない?では、いつです?」 慎決の顔から、すっと血の気が引いた。
「正式な調印は三日後の記者会見にて行います。その場で全メディアに向けて発表される予定です。本日の宴会は、あくまで事前のお披露目ということで」
宴会場での渋谷の言葉が、慎決の頭の中で何度も反響していた。
宴会場を後にし、高級車の運転席に滑り込んだ慎決は、騙された屈辱感に震えていた。
「クソッ!」
抑えきれない怒りがこみ上げ、慎決はハンドルに拳を叩きつけた。鈍い音が車内に響いた。
「慎決お兄ちゃん、どうしたの?」事情を知らない恵奈が不安げに尋ねた。
「株がまだ手に入ってねえのに、綾華が先に目を覚ましやがった」 慎決は険しい表情でエンジンをかけた。「病院に行くぞ。まずはあいつを丸め込む」
……
病院、病室。
「綾華、目が覚めたばかりなんだから、医者の言うことをちゃんと聞いて、しっかり体を休めるんだぞ。ほら、お腹空いただろ? まずは何か食べよう。会社のことは俺に任せて、君は安心して療養に専念してくれ」
綾華はベッドに身を横たえたまま、目の前で甲斐甲斐しく動き回る男女を冷めた瞳で静かに見つめていた。
もし意識がなかったなら、ほんの数時間前、この二人が自分の目の前で――ベッドのすぐ傍らで、背徳な関係に耽っていたなどと、誰が信じられただろうか。
「そうだ綾華、さっき医者に確認したんだが、君はまだ体が弱っているから、電磁波を出す電子機器には触れない方がいいそうだ。療養に差し障るらしい」
慎決はテレビを消すと、ベッドに歩み寄り、親しげに綾華の鼻を軽くつついた。まるで愛おしい妻を愛でるかのような表情を浮かべて。「スマホもダメだぞ。電磁波が体に障るからな」彼はまるで幼子をあやすように言いながら、ためらうことなく彼女のスマホを取り上げた。「あと数日の辛抱だ。いい子にしてろよ」
株式譲渡契約書に調印し、正式に新CEOの座に就くまでは、絶対に綾華を外部と接触させてはならない。
そして会社の人間たちに、綾華が目覚めたことを知られてもならない。
さもなければ、長年かけて積み上げてきたものが、すべて水の泡と化す。
「そうですよ、綾。秋山社長のおっしゃる通りです。今は何よりお体が大切ですから……会社のことは社長にお任せして、安心して」
恵奈もまた、心配そうなふりをして言葉を添える。
さらに彼女は、涙を拭うふりをしてみせた。 「綾、あなたが昏睡状態だったこの三年間、あたしがどれだけ心配したか……社長もです。もう二度と目が覚めないんじゃないかって、毎日毎日、枕元であなたの名前を呼び続けていたんですよ……」
この言葉を、かつての自分が聞いていたなら、きっと感動で胸がいっぱいになっていただろう。だが今の綾華には、吐き気しか催さなかった。
「そう?」 彼女は薄く笑みを浮かべた。
「眠っていた三年間、確かにあなたたちの声が聞こえていたような気がするわ……」
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