
離婚から始まる天才デザイナーの帰還
章 2
桜子の車を降り、冷たい夜風に吹かれながら、凛はタワーマンションのエントランスへと向かった。冷たい風が頬を打つ中、凛の脳裏にあの匿名メールの送り主に対する疑問がふとよぎった。あれは美咲の自作自演だったのか、それとも暁を陥れようとする誰かの仕业なのか。だが、今の彼女にはそんなことすらどうでもよかった。オートロックのドアを抜け、エレベーターで最上階へ。三年間住んだ家の暗証番号を打ち込む指先は、氷のように冷え切っていた。
リビングは真っ暗だった。凛は電気もつけず、ソファに深く沈み込む。冷え切った革の感触が、肌に直接伝わってきた。
ただ、待つ。あの男が帰ってくるのを。
時計の針が深夜二時を回った頃、玄関のドアが静かに開いた。疲れた様子の暁が、ネクタイを緩めながら入ってくる。
凛が音もなく立ち上がって近づくと、暁は彼女から漂う夜風の冷たさと、その幽霊のような佇まいに、眉をひそめた。
「どこをほっつき歩いていた」
冷たい声。凛が彼の腕に触れようと手を伸ばすと、暁はまるで汚いものにでも触れられたかのように、その手を乱暴に振り払った。
「触るな」
暁はリビングの床に自分のスマホを投げ出した。画面には、週刊誌の電子版ゴシップ記事が表示されている。
『清純派女優・渡辺美咲、帰国早々、財界プリンスと密会か』
「お前がリークしたんだろう」
冷酷な声が、凛の鼓膜を突き破る。
「違う……」
「言い訳は聞きたくない」
暁は凛に背を向け、バスルームへと向かう。パタン、とドアが閉まる冷たい音が、静まり返ったリビングに響き渡った。
凛は、床に落ちたままの暁のスマホを見つめた。画面의光が、彼女の絶望に満ちた顔をぼんやりと照らし出す。
三年間、信じてきた。いつか彼が自分を見てくれると。その愛情が、今、完全に音を立てて崩れ去った。
凛はゆっくりと立ち上がった。その足取りに、もう迷いはなかった。
書斎へ向かい、引き出しの奥から一枚の用紙を取り出す。薄緑色の、離婚届。
ペンを握る手が、微かに震える。だが、凛は一度深く息を吸い込むと、よどみない筆跡で自分の名前を書き込んだ。住所、本籍。一つ一つ、丁寧に。
引き出しの更に奥から、実印を取り出す。躊躇なく朱肉をつけ、名前の横に強く押し付けた。
寝室へ移動し、クローゼットを開ける。暁が買ってくれた、趣味の悪い、派手なブランド服には一切触れない。その奥に押しやっていた、独身時代に着ていたシンプルな服だけを、古いスーツケースに詰め込んでいく。
洗面所から、シャワーの音が聞こえてくる。その音をBGMに、凛は黙々と荷造りを終えた。
リビングに戻り、記入済みの離婚届をダイニングテーブルの真ん中に置く。
その横に、マンションのカードキーを。
そして、左手の薬指から、結婚指輪を静かに引き抜いた。
指輪を外した跡が、白い線となってくっきりと残っている。一瞬だけ、胸の奥がチクリと痛んだ。だが、凛はすぐに表情を引き締めた。
スーツケースのハンドルを握り、三年間過ごした部屋を最後に見渡す。楽しかった思い出など、何一つ思い浮かばなかった。
玄関のドアを開け、迷うことなく廊下へと足を踏み出す。
背後で、オートロックのドアがガチャン、と重い音を立てて閉まった。
過去との、完全な決別だった。
エレベーターを待ちながら、凛はスマホで弁護士の連絡先を検索する。この時間では電話はできない。後でメールを送ろう。
一階に下り、自動ドアが開く。深夜の冷たい風が、凛の頬を撫でた。不思議と、心が軽くなっていくのを感じた。
タクシーを拾うために、大通りに向かって歩き出す。
通り過ぎる車のヘッドライトが、彼女の決意に満ちた横顔を一瞬だけ照らし出した。
空車の赤いランプを見つけ、凛は大きく手を挙げる。タクシーが、彼女の目の前で静かに停車した。
運転手がトランクを開け、凛はスーツケースを自分で積み込む。后部座席に深く腰を下ろした。
「お客様、どちらまで?」
運転手の問いに、凛ははっきりとした声で、都心から少し離れたアトリエの住所を告げた。
車が滑らかに走り出す。
凛は窓の外に流れる景色を見ながら、新しい人生の始まりを、静かに実感していた。
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