
離婚から始まる天才デザイナーの帰還
章 3
タクシーの揺れに身を任せながら、凛はスマホの画面をタップし、弁護士宛てのメールを作成した。
件名:離婚の件
本文:高橋暁との離婚にあたり、財産分与は一切放棄します。慰謝料等も不要です。可及的速やかに手続きをお願いいたします。清水凛。
送信ボタンを押した瞬間、ずっしりと肩にのしかかっていた重荷が、ふっと消え去ったような気がした。過去のしがらみから解放された、深い安堵感。
やがてタクシーは、古びたレンガ造りの建物の前で停まった。
「Aimon」
控えめな真鍮のプレートに刻まれたその文字を見上げ、凛の目に、この三年間失われていた鋭い光が宿った。
料金を支払い、スーツケースを引きながら建物の階段を上る。二階のオフィスフロアのドアを開けた。
「……凛!?」
デスクで徹夜作業をしていた親友の松本桜子が、驚いて顔を上げた。彼女の視線が凛の足元のスーツケースに落ち、全てを察した。
桜子は何も言わなかった。ただ椅子から立ち上がり、凛の体を強く、強く抱きしめた。
その温かさに触れた瞬間、堪えていた涙が一筋、凛の頬を伝った。
「……ごめん、桜子。迷惑かける」
「バカ。迷惑なんて思うわけないでしょ」
桜子は凛の背中を優しく叩いた。
凛は涙を乱暴に拭うと、桜子のデスクに山積みになったファイルに目を向けた。クライアントからの未処理案件が、66件。
凛は、自分が着ていた主婦らしい地味なカーディガンを脱ぎ捨て、ソファに置いてあった黒のタートルネックに着替えた。
無造作に下ろしていた髪を、手際よく高い位置でポニーテールに結ぶ。その表情から、先ほどまでの弱々しさは完全に消え去っていた。
凛はデスクの前に座ると、一番上にあったクライアントの要望書を手に取った。
ペンを握った瞬間、彼女の周りの空気が変わった。
背筋が伸び、瞳に冷徹なまでの集中力が宿る。
眠っていた天才デザイナー、YUZUが、完全に覚醒した瞬間だった。
凛は、驚異的なスピードでスケッチブックにデザインを走らせ始めた。ペンの先から、まるで魔法のように美しいラインが生み出されていく。
桜子は、凛の圧倒的なオーラに息を呑んだ。慌ててコーヒーを淹れ、彼女のデスクにそっと置く。
凛は差し出されたマグカップを無言で受け取り、一口だけ飲むと、視線を紙から一切外さずに作業を続けた。
窓の外が白み始め、夜明けの光が差し込む頃には、凛はすでに十着以上のドレスのデザインを完成させていた。
完成したスケッチを見た桜子が、その斬新さと息をのむような美しさに、思わず歓声を上げる。
「すごい……凛、あんたやっぱり天才だよ!」
凛は疲労の色一つ見せず、鋭い眼差しで次の布地のサンプル帳を開いた。
朝八時、アシスタントの加藤陽菜が出社してきた。デスクで神がかった集中力を見せる凛の姿を見て、目を丸くする。
「え……凛さん?……もしかして、YUZU先生……?」
陽菜の声が興奮で裏返る。彼女は、伝説のデザイナーYUZUの正体が、オーナーである桜子の親友・凛であることを知る数少ない人物の一人だった。
凛は陽菜の方をちらりと見ると、冷静な声で言った。
「加藤さん、このリストの布地、今すぐ発注して。最優先で」
「は、はいっ!」
陽菜は緊張した面持ちでリストを受け取り、駆け足で電話に向かった。
アトリエに、活気が戻ってきた。ミシンのリズミカルな音、布地を裁つハサミの音。
凛は自らトルソーの前に立ち、立体裁断の作業に没頭していた。一枚の布が、彼女の手にかかると、魔法のように生命を吹き込まれ、美しいドレスの形を成していく。
桜子は、そんな凛の姿を眩しそうに見つめながら、デリバリーで豪華な朝食を注文した。凛の完全復帰を祝うためだ。
作業の合間にサンドイッチをかじりながら、凛は今後のブランド戦略を早口で語る。その瞳には、過去の陰りは微塵もない。野心と、揺るぎない自信の光だけが宿っていた。
「Aimonを、世界一のブランドにする。桜子、手伝ってくれるでしょ?」
「当たり前じゃない!」
桜子は力強く頷いた。
その時、凛のスマホの画面が光り、不在着信の通知が表示された。
『高橋暁』
その名前を、凛は無表情で見つめると、何も操作せずに画面を伏せてテーブルに置いた。
彼女は再びトルソーに向き直る。
デザイナー、YUZUとしての新しい一日が、今、力強く始まった。
おすすめの作品





