
裏切りの代償、99の破片
章 3
武藤乃々花 POV:
家に戻ると, 家政婦さんが心配そうに私を見つめた.
「奥様, 顔色が真っ青でいらっしゃいます. 何かあったのですか? 」彼女の優しい声が, 私の乾ききった心に染み渡る.
「いいえ, なんでもありませんよ. 」私は無理に微笑んだ. その笑顔は, きっと見るに耐えないものだっただろう.
慎司は私の体調に気づきもしなかったのに, 家政婦さんはすぐに私の変化を察した. この差が, 私たちの関係の全てを物語っている.
痛みは, まだ腹部の奥底に居座っていた. それはまるで, 私の体から引き剥がされた小さな命の痕跡のようだった. 何よりも, 心臓を鷲掴みにされたような痛みが, 私を窒息させていた.
私の夢だったパティスリー. 私の小さな命. 全てを奪われた. 奪ったのは, 私が愛したはずの男.
「愛していた」なんて, もう言えない. 言いたくない. でも, 私の心はまだ, 彼を完全に憎むことができなかった. その事実が, 私をさらに苦しめた.
私は自分の部屋に戻り, キャリーケースを開けた. 彼の家から, 私自身の痕跡を消していく作業に取り掛かった.
その時, 玄関のドアが開く音がした. 慎司が帰ってきたのだ.
「乃々花? 何をしているんだ? 」慎司は, 私が荷物を詰めているのを見て, 驚いた顔で尋ねた. 彼の声には, いつもの冷たさとは違う, わずかな焦りが混じっていた.
「少し, 整理しているだけです. 」私はそっけなく答えた.
慎司は私のそばに歩み寄ると, 私の腕を掴んだ. そして, 彼のもう一方の手には, 小さな箱が握られていた.
「これ, 見てくれ. 99個目のカップだ. 君がずっと欲しがっていた特別なものだろ? 」彼の声は, わずかな期待を帯びていた.
彼は箱を開けた. 中には, 繊細な絵柄が施された, 美しいティーカップが収められていた.
「これで, 君のコレクションは完成だ. 約束通り, もう二度と花梨のところには行かない. だから, もう心配するな. 」慎司は, 自信に満ちた顔で言った. 彼の表情には, 今度こそ私を喜ばせられると信じているような, 愚かな期待が満ちていた.
私は, あと少しで真実を口にしてしまいそうになった. このカップが届いた日に, 私は全てを失ったのだと.
しかし, 慎司は私の言葉を待たずに言った. 「花梨の容態が急変してな. 数日後にはまた付き添わなければならない. だから, 出産には立ち会えないかもしれない. 」
私の喉が, ぎゅっと締め付けられた. この男は, 私に一人で出産しろと言っているのだ.
私は静かに立ち上がり, 壁一面に並べられたティーカップのコレクション棚まで歩いた.
「慎司さん, 約束, 覚えてる? 」私は振り返り, 彼の目を見据えた. 「『99個のカップが揃ったら, もう花梨の元へは行かない』って. 約束通り, もう二度と, 私の前から消えない? 」
慎司は一瞬躊躇した. しかし, すぐに決意したように, 私から目を逸らした.
「... それは, 無理だ. 」彼の言葉は, 私の胸に重くのしかかった. 私の最後の希望が, 音を立てて砕け散った.
私は, 唇の端に乾いた笑みを浮かべた.
「そう, やっぱり... そうですよね. 」私の声は, 妙に落ち着いていた.
慎司は, 私のその反応に驚いたようだった. 「乃々花... ? 」
彼は私を抱きしめた. 「分かってくれるだろう? 花梨は今, 本当に大変なんだ. でも, 約束は守る. きっと, 君とこの子のそばにいる時間を, これまで以上に作るから. 」
私は, もう彼に何も期待していなかった. 彼の言葉は, 空虚な音の羅列に過ぎなかった.
「慎司さん, この子が生まれたら, ちゃんと名前を考えてあげてくれる? 」私は, 彼の腕の中でそっと言った.
「ああ, もちろんだ. 」慎司は, 私の腹部に手を当て, 優しく微笑んだ. その瞬間だけは, 彼は本当に父親になろうとしているように見えた.
胸の奥から, 再び痛みが込み上げてきた. この温かさも, この微笑みも, 全ては偽りなのだと, 私の体は知っていた.
慎司が玄関のドアを閉め, 去っていく音を聞きながら, 私は静かにベッドに腰を下ろした.
私はキャリーケースから, 小さなベビー服を取り出した. 慎司が私にプレゼントしてくれた, 生まれてくる子のための最初の贈り物. その肌触りは, 温かくて柔らかかった.
私は, この子が生まれてくることをどれほど楽しみにしていたのだろう. 慎司との未来を, どれほど信じていたのだろう.
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