
偽物の彼と、本物の私。
章 3
「彼氏?」
その子はわざとらしく息を呑むと、甲高い声で言い放った。
「じゃあ昨日、君に部屋を借りてあげるって言ってたあのオジサン、彼氏じゃなかったんだ?」
その言葉に、昨日のことを思い出す。父と一緒に学校を見に来たとき、ちょうど寮の前であの子とすれ違ったのだった。
「さすが東条綾香さん、しっかり棲み分けしてるのね。彼氏は彼氏、スポンサーはスポンサーってこと?」
周囲は入学準備でごった返していたけれど、その声がやけに通ったせいで、あちこちから視線が突き刺さる。まるで無数の小さなナイフみたいに。
私を抱き寄せていた久我湊でさえ、少し眉をひそめて、
「綾香……彼女の言ってること、本当なの?」
胸が痛いのか、足首が痛いのか、どっちかわからないくらいに頭に血が上った。
「……疑ってるの?」
その一言で、久我湊は私が本気で怒ったのを察したのだろう。すぐに声を和らげて、私の耳元で囁いた。
「違う、そんなわけない。ちょっと考えれば、彼女の言ってる『オジサン』って、伯父さんのことに決まってるだろ?」
何か言おうと口を開きかけた、その瞬間だった。久我湊が私をそっと抱き上げると、まるで迷いもなく、真っ直ぐ寮の方へと足を進めていった。
「こんなにひどく転んで……見てるだけで胸が痛む。いいから、少し休もう」
その瞳に満ちた優しさを見た瞬間、ふっと怒りが溶けた。
王城紗夜がすぐに謝ってくれたこともあって、初日から周りとギスギスするのは避けたいと思い、私はぎこちなく頷いた。胸の奥でくすぶっていた火種を、無理やり押し込めるしかなかった。
けれど、寮に戻ると空気は一変した。久我湊が私を下段のベッドにそっと横たえようとしたそのとき、王城紗夜が私の荷物を容赦なく投げつけてきた。
「もうそのベッド使ったんでしょ?他の子はもう寝られないじゃん!気持ち悪いことしないでよ!」
その口ぶりは、まるで私がどこかのウイルスでも持っているかのようだった。
久我湊が私の足をそっと揉んでくれていた。けれど、その優しさとは裏腹に、王城紗夜の声色は妙に引っかかった。
「これは最低限の礼儀よ。まともな家庭で育った人なら常識でしょ?……別に、綾香さんを責めてるわけじゃないけど」
うんざりするような棘のある言い回しに、とうとう我慢の限界が来た。私は勢いよく立ち上がった。
「誰に向かって言ってるの、それ?」
王城紗夜はびくりと肩を震わせ、久我湊の背後に身を隠した。
「わたし、何か間違ったこと言った……? ベッドってすごくプライベートな空間でしょ。誰かが一度寝たら、他の人はちょっと気になるよね」
「ベッドの話じゃない。どこで寝ようが構わないわよ」
私は彼女の言葉をぴしゃりと遮った。
「問題は、あんたのその言い方。何を含ませてるつもり?」
久我湊が、間に入って場をおさめようとした。
「まあまあ、紗夜も悪気があったわけじゃないと思うよ。ちょっとした気遣いで……」
だが、王城紗夜は彼の袖を引きながら、小首を傾げてみせた。
「湊お兄ちゃん、彼女っていつもこんな感じ? 怒りっぽくて、扱いにくそう……湊お兄ちゃん、大変だね」
私は彼女の髪をつかんで、自分のベッドに引きずった。
「私があんたのぶりっ子に気づかないとでも? 言っとくけど、見抜くだけじゃなくて――潰すこともできるんだよ?」
混乱のさなか、王城紗夜が自分の手首をベッドの縁に勢いよくぶつけるのが見えた。パキン、と乾いた音と共に、彼女の腕にあったブレスレットが砕けた。
次の瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。
「これ……お母さんの形見なのに……!」
「東条さん、いくら私が気に入らないからって、これはないよ……」
久我湊の表情が曇った。形見、という言葉に、彼の瞳も潤んでいく。
「……君も、母親を小さい頃に亡くしたのか?」
そして、私が一度も聞いたことのない、厳しい声で言った。
「綾香……今回は、さすがにやりすぎだよ」
――バシッ!
思考より先に手が動いていた。私は腕を振り上げ、彼の頬を平手で打った。
「あなたの中の私は……そんな人間だったの?」
久我湊は何も言わなかった。
私が泣いていたから。
だって、私だって、小さい頃に母親を亡くしたんだ。
そんなとき、扉の向こうから三回、軽くノックの音がした。短く切った髪の女の子が顔を覗かせる。
「王城紗夜、そのブレスレットって、今朝校門前の朝市で買ったやつじゃない?」
そう言いながら、彼女は手を差し出した。その手首には、私とまったく同じブレスレットが光っていた。
「ほら、今朝ふたりで一緒に買ったでしょ。1個280円、2個で500円のやつ」
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