
愛なき結婚の果て
章 2
榊原春菜 POV:
夜中に目が覚めた. 隣で眠る浩太の寝息が聞こえる. 彼の体は私の方を向いていなかった. いつもそうだ. 彼の背中しか, 私には見えない.
無意識に, 私は彼に手を伸ばしかけた. しかし, その手は空中で止まる. もう, 彼に触れる資格はない.
「…どうした, 春菜? 」
浩太の声が, 暗闇の中で響いた. 彼の声には, 僅かな驚きが混じっていた. 普段なら, 私が夜中に起きても彼は気づかないはずだ.
「ごめんなさい, 起こしちゃった? 」
私は慌てて手を引っ込めた.
「いや, 別に. どうしたんだ, 体調でも悪いのか? 」
彼の声には, 心配の色はなかった. ただ, 形式的な問いかけ.
「少し喉が渇いただけ. 大丈夫よ. 」
私はそう答えた. 彼はそれ以上何も言わず, 再び寝返りを打ち, 私に背を向けた.
ベッドサイドの小さなライトを点けた. 枕元の引き出しを開け, 離婚届を取り出す. 浩太が署名した, 彼の筆跡.
「そういえば, あの書類, ちゃんと戸田屋に提出したのか? 」
不意に, 浩太の声が聞こえた. 私は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた. 彼が, あの書類のことを覚えていたなんて.
「... 何の書類のこと? 」
私は平静を装って尋ねた.
「だから, この前の契約書だよ. 重要なものだったはずだ. 」
彼の声には, 僅かな苛立ちが混じっていた.
「ええ, もちろん. もう提出済みよ. 」
私はそう答えた. 彼はそれ以上何も言わず, 再び寝返りを打った.
その時, 浩太の携帯電話が鳴り響いた. 深夜, こんな時間に.
「真子? 」
彼の声が, 驚きと心配に染まる. 私は直感的に分かった. また, あの人からの電話だ.
浩太はベッドから飛び起き, 寝室を出て行った. 私は一人, 暗い部屋に残された. 彼の焦った声が, リビングから聞こえてくる.
「真子, どうしたんだ? 何かあったのか? 」
私は静かに, 彼の言葉を聞いていた. 彼の声は, 私に向けられることのない優しさに満ちていた.
「今からすぐ行く. 大丈夫だから. 」
彼はそう言って, 急いで身支度を始めた.
「浩太さん, 何かあったの? 」
私はわざとらしいほど穏やかな声で尋ねた.
「ああ, 真子が少し体調を崩したみたいでな. 一人じゃ不安だって言うから, 少し様子を見てくる. 」
彼の言葉は, 私にとってはもう何の痛みも伴わなかった. ただ, 予定通りの展開.
「…そう. お大事にね. 」
私はそう答えた. 彼は私の方を一瞥することもなく, 玄関のドアを開けて出て行った.
その夜, 私は一睡もできなかった. 夜が明ける頃, 私はベッドから起き上がった. スマートフォンの画面を開き, 真子のSNSを検索した.
そこには, 真子が投稿した写真があった. 浩太の腕に寄り添い, 涙を流す真子. そして, 真子の頭を優しく撫でる浩太の背中. 写真には,
「浩太くん, 本当にありがとう. あなたがいてくれて, 本当に良かった. 」
というメッセージが添えられていた.
私の心に, 痛みはなかった. ただ, 冷たい水が流れていくような感覚.
真子は, 夫と離婚したばかりだった. だから, 浩太に助けを求めたのだろう. そして, 浩太は, 私を置いて, 彼女の元へ駆けつけた.
私は分かっていた. 浩太は, 真子との関係を清算するつもりはないこと. そして, 彼が私と結婚したのは, 真子への当てつけに過ぎなかったこと.
私は自分の愚かさを自嘲した. それでも, 私は彼を愛していた. 彼の愛を, いつか手に入れられると信じていた.
しかし, もう無理だ. 私の心は, 完全に壊れてしまった.
私は, もう一度離婚届を取り出した. 彼の署名された文字が, 私を嘲笑っているように見えた.
私は立ち上がり, クローゼットを開けた. そこには, 浩太との思い出の品々がしまわれている. 私はそれらを一つ一つ, 丁寧に箱に詰めていった.
「春菜, 何してるんだ? 」
不意に, 浩太の声が聞こえた. 彼はいつの間にか帰ってきていた.
「ああ, 少し模様替えでもしようかと思って. 」
私はそう答えた. 彼は私の手元を見て,
「まさか, 勝手に捨ててないだろうな. 」
そう言った.
「私が捨てたのは, もう必要ないものだけよ. 」
私は淡々と答えた. 彼は気にする様子もなく,
「そうか. 」
とだけ言い, シャワーを浴びに向かった.
私が箱に詰めたのは, 彼が私にくれた, もう二度と使うことのないものばかりだった.
私の心はもう, 何も感じない. 彼の無関心も, 彼の初恋に対する執着も.
私は, もう過去の榊原春菜ではない. あの頃の自分は, 彼の全てを受け入れた. しかし, 今の私は違う. 私は, 私自身の幸せを掴むために, この結婚に終止符を打つことを決意したのだ.
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