
夫が選んだのはあの女
章 3
竜介のあの失望に満ちた目は, 私の魂に深く刻み込まれていた. 私がどんなに説明しようとしても, 彼は私の言葉を信じなかった. あの時, 竜介が私を産業スパイだと一方的に決めつけた背景には, 以前から彼が私を疑う出来事があったのだ. それは, 私が会社の機密情報に触れた際, 誤ってファイルを公開設定にしてしまったという, ほんの些細なミスだった. その時, 竜介は私に何も言わず, ただ冷たい視線を向けただけだった. 誤解を避けるため, 彼はその情報を扱った第三者を海外に送った. 私は, その彼を傷つけてしまったことを深く後悔した.
それ以来, 竜介は私に露骨な嫌悪感を抱くようになった. 彼の視線は, いつも私を避け, 私に触れることさえ拒んだ. 私は, その嫌悪感を理解していた. 彼の信頼を裏切ったのだから, 当然だと思っていた.
私は, ただ黙って彼の嫌悪を受け入れた. 彼が私を許してくれる日が来ることを, ただひたすらに願っていた. 私の愛は, いつか彼の心を溶かすと信じていた. 私にとって, 彼が全てだったから.
しかし, その願いは叶わなかった.
私は, 自分の身体の変化に気づいた. 妊娠していたのだ. その知らせは, 私にとって一筋の光だった. この子が, 私たち夫婦の関係を修復してくれるかもしれない. そう, 私は淡い期待を抱いた.
だが, 私はすぐにその期待を打ち消した. 今の竜介に, このことを告げたら, 彼はどんな顔をするだろう. きっと, また私を責めるだろう. 私は, 彼の冷たさに耐えられなかった. もう少し, もう少しだけ待とう. 彼が, 私を許してくれる日が来たら, その時に告げよう.
そんな矢先, 私は偶然, 竜介と小春が二人きりでいる現場を目撃してしまった. 路地裏の片隅で, 竜介は小春の肩を抱いていた. 小春の膝には, 擦り傷ができていた. まるで, 誰かに突き飛ばされたかのように.
その瞬間, 私は全てを悟った. 竜介の私への冷淡さの本当の理由. 彼は, 小春を愛していたのだ. だから, 私を傷つけることに何も躊躇しなかった.
竜介は, 小春の膝の擦り傷を, まるで宝物に触れるかのように優しく撫でた. その目には, 深い愛情が宿っていた. 私が, これまで一度も見たことのないような, 甘く, 切ない眼差し.
私は, 彼が小春に対してこれほどの情熱を抱いていることに, ただただ絶望した. 彼の愛情は, 私には向けられることはなかった. 私は, 彼にとって, 何の意味も持たない存在だったのだ.
私は, 魂が抜けたように, ただ歩いて家に帰った. 食事は喉を通らなかった. 身体が, どんどん痩せ細っていく.
その日の深夜, 竜介は泥酔して帰ってきた. 彼の体からは, 小春の香水の匂いが漂っていた.
「竜介, お帰りなさい…」私は震える声で迎えた. 彼は, 私を無視して, リビングのソファに倒れ込んだ.
「うるせぇ…」彼は, 私を一瞥もせずに言った. 「お前は, いつもそうやって私を煩わせる. 」
私は, 彼の言葉に何も反論できなかった. 彼が私を嫌悪しているのは, 明白だった.
竜介は, ジャケットを脱ぎ捨てた. そのポケットから, 一枚の写真が滑り落ちた. それは, 竜介と小春が, まるで恋人のように寄り添って写っている写真だった. 小春の笑顔は, 私に向けられるそれとは比べ物にならないほど, 輝いていた.
私の頭の中で, 何かがプツンと切れた音がした. 私は, その写真を拾い上げると, 引き裂いた. 一枚, また一枚. 破れた紙片が, 床に舞い散る.
「これは…何なの…! 」私は, 半狂乱になって叫んだ. 私の声は, 震えていた.
竜介は, 冷めた目で私を見つめていた. 彼の目には, 何の感情も宿っていない.
「なんだ, 今頃気づいたのか. 」彼の声は, まるで憐れむかのようだった. 「お前は, いつも鈍い女だったな. 小春は, お前と違って, 私を理解してくれる. 私を癒してくれる. お前は…お前は私を傷つけるだけだ. 」
「私を傷つけるのは, あなたでしょう…! 」私は叫んだ. 「あなたは, 私を裏切った! 私たちの結婚を, 裏切ったのよ! 」
「結婚? ああ, あの間違いか. 」竜介は, 嘲笑うかのように言った. 「お前との結婚など, 最初から私の選択ではなかった. 私は, 小春を愛している. ずっと, ずっと昔から. 」
彼の言葉は, 私の胸を深く突き刺した. 私は, その場で膝から崩れ落ちた.
竜介は, 破れた写真を拾い上げると, それをポケットにしまい, 家を出て行った.
私は, ただ一人, リビングの床に座り込み, 天井を見上げていた. 彼の言葉が, 耳の中で反響する. 「お前との結婚など, 最初から私の選択ではなかった. 」
私は, あの日, 竜介が小春を優しい眼差しで見つめていた光景を思い出した. 彼のあの眼差しは, 私に向けられることはなかった. 彼は, 小春を, 心から愛していたのだ.
私は, 身体が震えるほどの痛みを感じた. お腹の子どもが, その痛みに反応するように, 微かに動いた気がした.
「ごめんね…ごめんね…」私は, そっとお腹を撫でた. 「こんな母親で, ごめんね…」
竜介が去った後, 家の中は, 不気味なほど静かだった. 彼の冷たい言葉が, 私の脳裏から離れない. 「お前は, 元々信用できない人間だ. 」「お前みたいな女が, 私の子供を宿すなど. 」
私の魂は, あの時の記憶を鮮明に思い出していた. あの絶望が, 私の死の序章だったのだ.
私の魂は, 竜介が小春を慰めている姿を, 遠くから見つめていた. 小石の悲痛な叫びだけが, 私に唯一の慰めを与えてくれた.
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