
代用品の私は婚約破棄を選び、ライバル企業の御曹司に溺愛される
章 3
マイバッハは、六本木の中心にそびえ立つ、ガラス張りの近代的な超高層ビルの前で静かに停車した。
鷹司慧に導かれ、凛は広々とした、光に満ちたエントランスホールに足を踏み入れる。
「社長、おはようございます!」
受付の女性たちが、慧の姿を認めると、一斉に立ち上がり、完璧な九十度のお辞儀で彼を迎えた。
慧は軽く頷きを返し、凛を伴って専用のエレベーターへと向かう。
最上階でドアが開くと、そこに広がっていたのは、凛の想像を絶するほど先進的で、開放的なオフィス空間だった。
壁がほとんどなく、社員たちは思い思いの場所でノートパソコンを広げ、活発に議論を交わしている。
ヴィンキュラム社に蔓延していた、息苦しいほどの階級主義的な空気は、ここには微塵も感じられない。
慧は、凛の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、各部門の構成を説明していく。
その口調は穏やかで、暁のような見下すような傲慢さは一切なかった。
やがて二人は、一面がガラス張りになった、広大な社長室へとたどり着いた。
窓の外には、東京タワーの雄大な姿が広がっている。
「どうぞ」
慧は凛をソファに促すと、自らバーカウンターに立ち、一杯の紅茶を淹れ始めた。
漂ってきたのは、凛が最も好む、セイロンティーの香りだった。
この、彼女の嗜好を正確に把握しているという些細な事実が、凛の警戒心を少しだけ解きほぐした。
「これを」
慧は、金庫から取り出した一冊の分厚いファイルを、テーブルの上に置いた。
それは、アークライト社の極秘の財務諸表と、今後三年間の詳細な戦略計画書だった。
凛は、黙ってページをめくり始めた。
そこに並んだ数字の背後にある、途方もない野心に、彼女は息を呑んだ。
この会社は、単なる国内企業ではない。
設立当初から、ナスダックへの上場を明確な目標としていた。
「我々の船は、巨大なエンジンと正確な海図を持っています」
慧は、凛の向かいに座り、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「しかし、今、この船に最も欠けているものがある それは、あなたのような、海の底の潮流まで読み解ける、本物の航海士です」
凛はファイルから顔を上げた。
七年間、暁のために封印してきた事業への情熱の火種が、胸の奥で再び、ぱちぱちと音を立てて燃え始めるのを感じた。
しかし、彼女は理性を失わない。
「私には、ヴィンキュラム社との間に、競業避止義務契約があります。法的なリスクは避けられません」
凛がそう言うと、慧はフッと軽く笑った。
「その点はご心配なく。鷹司グループの法務部が、あなたの背後にあるすべての厄介事を、きれいさっぱり片付けます」
その絶対的な自信に満ちた言葉に、凛は無意識のうちに下唇を軽く噛んだ。
深く思考する時の、彼女の癖だった。
慧は、その小さな仕草を見逃さなかった。
「条件があります」と、凛は言った。
「佐藤暁との私的な関係を完全に清算するまで、私がCEOとして公の場に出ることはできません」
「承知しました」
慧は、間髪入れずに頷いた。
「では、それまでは、謎の特別業務顧問として、裏から指揮を執っていただくというのはいかがでしょう」
「もう一つ 一ヶ月の試用期間をいただきたい もし、あなた方の理念と私の考えが合わなければ、私はいつでもここを去ります」
凛は、最後の防御壁を築くように言った。
慧は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、大きなデスク越しに、凛に向かって右手を差し出した。
彼の瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。
「一ヶ月後、あなたをここから離したくなくさせてみせますよ」
凛は、その骨張った、力強い手を見つめた。
心の中の葛藤は、ほんの数秒だった。
彼女は、意を決して自分の手を伸ばし、彼の手を握った。
手のひらが触れ合った瞬間、凛は、長い間忘れていた、対等なパートナーシップの感覚と、力強い信頼感をそこに感じた。
その後、慧はすぐさま、中核となる開発チームを招集した。
会議室で、彼は凛を「新任の特別業務顧問」として紹介した。
凛は、彼らが構想している新しい金融派生商品の予測モデルについて、静かに耳を傾けた。
やがて、プロジェクトリーダーが技術的な袋小路に陥った時、凛はすっと立ち上がった。
彼女はホワイトボードマーカーを手に取ると、彼らのアルゴリズムに潜む二つの致命的な論理的欠陥を、一言で指摘した。
そして、修正後のあるべき数式を、淀みなくボードに書き連ねていく。
会議室は、十秒間、水を打ったように静まり返った。
その後、堰を切ったように、技術者たちからの心からの賞賛と、熱烈な拍手が巻き起こった。
会議室の主座に座っていた慧は、ホワイトボードの前で自信に満ちた光を放つ凛の姿を、濃密な賞賛と、そして微かな独占欲の入り混じった眼差しで見つめていた。
会議が終わると、慧は提携を祝して、近くのミシュランレストランでの昼食を提案した。
しかし、凛は腕時計に目をやり、その誘いを丁寧に断った。
「これから、母の病院へ行かなければなりませんので」
慧は、少しも不快な顔を見せなかった。
それどころか、彼はすぐに内線電話を取り、彼女を病院まで送るよう、自身の専属運転手に命じた。
その完璧なまでの距離感に、凛は再び、目の前の男の底知れなさを感じた。
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