
初恋の人が帰国したのに、私が別の男と結婚したら、あなた何を暴れているの?
章 2
藤堂柚月の背筋がぴんと張り詰めた。 しばらくして、ようやくゆっくりと振り返る。
藤堂森は風呂上がりで、半乾きの髪から水滴が滴り落ちている。濃いグレーの部屋着一枚という姿なのに、それでも目を奪われるほど端正で、立ち姿は美しかった。 顔に浮かぶ険しい表情さえなければ、世の女性が思い描く理想の男性像そのものと言っても過言ではない。
柚月は唇をきつく結び、視線を逸らして何も言わなかった。
桜は二人の間を交互に見やり、わざと怒ったふりをして森を睨み、彼の腕にそっと抱きついて言った。「どうしてそんなに怖い顔してるの?」
「柚月ちゃん、今起きたばかりなんだから、機嫌が悪いのも無理ないでしょ?あなただって、だいたいあなたこそ、普段の方がよっぽど気難しいんだからね」
その言葉は森を責めているようにも聞こえるが、口調はむしろ甘えているかのようだった。
柚月の顔から血の気が引き、自分がこの場にいることがますます場違いに思えた。
森の表情はまだ険しかったが、周囲に漂っていた重苦しい空気は少し和らいだ。 彼は桜の肩をなだめるように二度叩くと、低い声で柚月に言った。 「書斎に来い」
柚月は唇を噛みしめ、一言も発せずに彼の後についていった。
桜は心配そうに声をかける。 「目上の立場だからって、いつもそんなに厳しく当たっちゃだめよ。柚月ちゃんと、ちゃんと優しく話してあげてね」
「……」
まだ結婚もしていないくせに、もう女主人気取りか。
柚月は心の中で冷笑を浮かべた。 前を歩く男が足を止めたことに気づかず、彼女はそのまま固い胸板にぶつかり、鼻の奥がツンと痛んだ。
「お前は一体、何を考えているんだ?」
頭上から低い声が降ってくる。 柚月が顔を上げると、森の冷たい視線とぶつかった。
なぜか、彼女の口から言葉がこぼれ落ちた。 「私が何を考えているか、あなたには分からないの?」
最後の未練だったのかもしれない。
あるいは、彼の反応を試したかっただけなのか。
森は眉間の皺をさらに深くし、柚月をしばらく見つめてから口を開いた。「柚月、俺は以前から言っているはずだ。 余計なことを考えるなと。 お前はもうすぐ大学を卒業する。 俺がふさわしい相手を見つけてやるが、その相手が俺であることは絶対にない」
「俺はお前の叔父だ。 鈴木 桜は将来、お前の叔母になる。 お前は俺を敬うのと同じように、彼女を敬わなければならない。 分かったか?」
その言葉を、柚月は初めて聞いた。
彼は自分を好きではないだけでなく、他の誰かにあてがうつもりだったのだ。
……宗介が言っていた通りだ。柚月は、ゆっくりと息を吐いた。
はあ……自分は一体、何を期待していたのだろう。
もう諦めると決めたのではなかったか。
柚月は深く息を吸い込んだ。誰かを諦めることは、思っていたほど難しくないのかもしれない。
彼女は素直に頷いた。 「分かりました、叔父さん」
「……」
森は意外そうに眉を上げ、彼女の反応に驚きを隠せないようだった。
これまでの柚月は、何か問題を起こして彼に許しを請う時だけ、そう呼ぶことがあった。 今日のような話の場では、いつも一言一句に反論してきたというのに。
森は、柚月が本当に自分の過ちを認めたのだと思い、表情を和らげた。 「桜がお前のことをどれだけ気にかけているか見てみろ。 わざわざ朝食まで作ってくれたんだ。 彼女にそんなに敵意を抱くな、いいか?」
だが、たとえ桜が作らなくても、森は彼女のために朝食を用意していただろう。
それに、柚月はそもそも食べる気になれなかった。
柚月は特に説明もせず、ただ頷いて言った。 「分かりました。 叔母さんと仲良くします」
彼女のその様子を見て、森は奇妙な感覚を覚えた。 彼は深い眼差しで彼女の顔を見つめ、何かを言いかけたが、結局口から出たのは別の言葉だった。 「昨日の夜、どうして来なかった?」
昨日は彼の28歳の誕生日だった。
柚月は、実は行っていた。
ただ、その時、誰も彼女に気づかなかっただけだ。
柚月は静かに言った。「大学の研究会が遅くまであって、疲れてそのまま帰りました。叔父さん、誕生日おめでとう」
彼女は今、できるだけ早くすべてを片付け、彼のそばを離れたいと願っていた。 これ以上、余計な波風を立てたくなかったので、説明する必要はないと感じたのだ。
森は「ああ」と頷き、少し躊躇してから、柚月の頭を撫でた。 「何かあったら、叔父さんに話せ。 一人で抱え込むな、分かったか?朝食を食べに行こう」
まさか、こんな信じられない瞬間を経験することになるとは、柚月は夢にも思わなかった。 好きな人と一緒に、"恋敵"の作った朝食を食べるなんて。
何か適当な言い訳をしてその場を去ろうかとも思ったが、思い直した。森を諦めると決めた以上は、こういう光景も受け入れるべきなのだ。
それに、どうせ自分が見られるのも、あとわずかなのだから。
食事が終わると、森は着替えのために二階へ上がっていった。
柚月も部屋に戻って身支度を整えるつもりだった。 今日は大学に行って、指導教官と北城市でのインターンシップの相談をしなければならない。
「柚月」
背後から声が彼女を呼び止めた。
振り返ると、桜がキッチンの入り口に立っていた。 家事用の手袋をはめ、動きは自然で、どこか優雅。まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりの佇まい。
柚月は胸の奥が詰まるのを感じ、無表情で尋ねた。 「何か用ですか?」
「別に大したことじゃないの。 ただ、少し話がしたくて」
桜は優しく微笑んだが、よく見るとその笑みはまったく目に届いていなかった。 「あなたが小さい頃からずっと成績優秀で、飛び級も何度かしたって聞いたわ。 もうすぐ卒業でしょう……インターンシップ先は決めたの?」
その言葉は気遣っているように聞こえるが、その裏には探りを入れる意図が隠されていた。
柚月は笑みを浮かべた。 「その件は、叔母さんには関係ないことだと思いますが」
本来なら、森の手配で、彼女のインターンシップ先は藤堂グループ傘下の企業になるはずだった。 柚月はその知らせを聞いた時、彼と肩を並べて働けるのだと、心から喜んだものだ。
しかし、今となっては……
もう、そんなものは欲しくない。
桜の表情が一瞬こわばったが、すぐにまた笑みを浮かべた。 「ただ、あなたのことを心配しているだけよ。 だって、あなたの叔父さんは男の人だから、話せないこともあるでしょう?」 柚月は言いたかった。
話せないことなんてあるものか、と。 彼女は小さい頃から、どんなことでも森に話してきたのだ。
だが、目の前のこの人は、彼が深く愛している恋人だ。
もう、そんなことは言いたくなかった。
彼女は言った。 「ええ、分かっています」
桜の目に意外そうな色が浮かんだ。 この娘の反応が、これほど予想外だとは思わなかったようだ。 彼女は二秒ほど間を置いてから、さらに探るように言った。 「もう大人なんだから、叔父さんと一緒に住むのは不便じゃない?よかったら、私のところに引っ越してこない?ちょうど話し相手も欲しかったの」
柚月は、恋愛物語に登場する複雑な駆け引きや、ドラマの中で繰り広げられる登場人物たちの腹の探り合いを数多く見てきた。
以前は、それは誇張された芸術的表現だと思っていたが、現実にも本当に存在するのだと知った。
桜は、彼女に話し相手になってほしいわけではない。 明らかに、森のそばから彼女を追い出したいだけなのだ。
柚月は、喉に刺が引っかかったような、どうしようもない不快感を覚えた。
彼女はついに我慢できず、二歩前に出て、桜の目をまっすぐに見つめて言った。 「では、叔母さんのご厚意に感謝すべきでしょうか?」
その瞬間、桜は彼女から森だけが持つような威圧感を覚え、無意識に二歩後ずさった。 「い……いえ、そんな」 彼女の視線が突然、柚月の背後へと向けられた。 そして、柔らかな口調で言った。
「柚月、私があなたの叔父さんを奪うなんて心配しなくていいのよ。 あなたは永遠に、彼が大切に思っている人なんだから。 私……きゃっ!」
言い終わらないうちに、桜は突然、引き戸の敷居につまずき、体は勢いよく後ろへと倒れていった。
柚月が手を伸ばして彼女を支えようとした、その時だった。 突然、強い力で腕を掴まれ、横に突き飛ばされた。 彼女は勢いよくテーブルにぶつかり、体を強打した。
森の冷え切った視線が、失望を帯びて、柚月に落とされた。「……柚月。本当に、お前は——大きくなるにつれて、ますます性格が悪くなったな」
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