
三年の間違った恋を終えて──三浦夕菜はもう二度と、後ろを見ない。
章 2
「当然のことですわ!」
男の表情に、かすかな和らぎを読み取ると、三浦夕菜の胸に徐々に自信が湧き。
臆することなく男の双眸をまっすぐ見据えた。「だって、私と桐山様は今夜から正式な婚約者になるんですもの。 お互いの理解を深めるのは、当然の務めでしょう?」
月明かりを借りて、彼女は男の、深淵を覗き込むような底知れぬ瞳を見つめる。 「早く私たちを解放なさい。 さもないと……あっ!」
夕菜が言い終わるよりも早く、抗いようのない大きな手に車の中から引きずり出され、車のドアに強く押し付けられた。
「夕菜ちゃん!」
その光景を目の当たりにした藤本沢介は、激情に駆られて駆け寄ろうとするが、江川たちに捕えられ、顔を地面に押し付けられ、身動きを封じられた。
「この野郎!彼女を放せ!」
沢介は屈辱に顔を歪めながらも、憎悪に燃える眼差しで車の後部座席へ視線を向け、男に向かって、血を吐くように叫び散らした。
男の熱い体と、彼から漂う見知らぬ匂いが迫り、夕菜は恐怖に駆られて彼を突き放そうと手を伸ばした。 「やめて!何を……!」
自分の下で女がこわばり、小刻みに震えるのを感じ取り、桐山行隆は細められた目をさらに眇め、長い指で夕菜の顎をそっと持ち上げた。 「男を喜ばせる術を知っているか?」
夕菜の心臓は激しく警鐘を鳴らしていたが、平静を装って虚勢を張った。 「早く私を解放なさい。 さもないと……」
彼女が言い終わるよりも早く、彼女を押し付けていた男は頭を下げ、ゼリーのように潤んだ彼女の唇を奪った。
男の唇と舌は、有無を言わさぬ勢いで、彼女の唇を貪った。
夕菜の頭は、一瞬にして真っ白に染まった。
彼女は目を見開き、驚愕と硬直に囚われ、抵抗することさえ忘れていた。
どれほどの時間が経っただろうか、男は唐突に彼女を解放した。 「キスもできないのか?」
「パチン――!」
その言葉が夜の闇に吸い込まれるか否か、夜の静寂を切り裂くような乾いた平手打ちの音が響き渡った。
沢介を押さえつけていた江川は、驚愕に目を見開いた。
彼が行隆のそばに仕えて四、五年になるが、その主人が平手打ちを食らうのを見るのは初めてだった。
しかも、その相手が……いかにもか弱き乙女なのだから……。
行隆の顔は、打たれた衝撃で横を向いていた。
彼は無感情に顔を正面に戻すと、舌で奥歯を押し上げながら、冷たい視線を夕菜に落とした。 「良い度胸だ、と言ってやるべきか」
「これは、私を侮辱した報いよ!」
夕菜は、打って痺れた手を引っ込めた。 「今すぐ沢介を解放して、私たちを帰しなさい。 そうすれば、全てなかったことにしてあげるわ」
「さもないと、桐山様に告げ口するわよ。 あの方はあなたを許さないわ!」
行隆は口の端を吊り上げて、冷たく笑った。 「桐山行隆に会ったこともないくせに、彼が助けてくれるとでも思っているのか?」
「会ったこともないのに、どうやって婚約するっていうのよ?」
夕菜は眉をきつく寄せた。 「私の婚約者である桐山様は、私に一目惚れして、焦って婚約したのよ。 一週間後には結婚するわ」
「彼は、私の一生を面倒見、どんな辛い思いからも守り抜くと、固く誓ってくれたのよ」
女は自分より頭一つ分背の高い男を見上げ、気丈な声で言い放った。 「賢明なら今すぐ私たちを解放なさい。 さもないと、彼が怒ったら、誰もあなたを守れないわよ!」
この言葉を口にするとき、彼女の表情は非常に落ち着いていたが、体の横で白くなるほど握りしめられた両手が、彼女の緊張を物語っていた。
周囲の空気が数分間静まり返った後、行隆は口の端を吊り上げて、冷たく笑った。 「江川、彼らを送って行け」
……
三十分後。
夕菜が沢介の体を支えながらホテルのロビーに入ると、藤本孝宗と美和が駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
美和はすぐに駆け寄り、心疼そうに沢介のもう片方の腕を支えながら尋ねた。 「どこに行ってたの?どうしてこんな姿に?」
沢介は不満げに唇を尖らせた。 「僕、夕菜ちゃんが嫁ぐのが嫌だったんです。 だから……」
「私が沢介にドライブに連れて行ってほしいと頼んだんです」
夕菜は沢介が孝宗と美和に叱られることを恐れ、咄嗟に彼の言葉を遮り、努めて穏やかに言った。 「車を降りる時に彼が不注意にも転んでしまって、それで戻ってきたんです」
「ドライブなんて、いつ行ってもいいでしょう?どうして今なの?」
美和はたちまち顔を曇らせ、声には非難の色をにじませた。 「夕菜ちゃん、あなたはいつも一番物分かりがいいのに、どうしてこんな大事な時にそんな我儘を言うの?」
「お客様は皆さんお揃いなのに、万一あなたたち二人が戻って来られなかったら、私たち藤本家の顔は丸潰れじゃないの!」
夕菜は俯いた。 「ごめんなさい、私のせいです」
「夕菜ちゃん、どうして謝るんだよ?」
沢介は夕菜が責められるのを、見ていられなかった。 「僕が……」
「もういい!」
孝宗は時計に目をやり、一喝した。 「婚約披露宴はもうすぐ始まる。 今はこんな話をしている時じゃない」
彼はそばに控えていた使用人を見上げた。 「二少爺を連れて傷の手当てをして、相応しい服に着替えさせなさい」
「夕菜ちゃん、裏で化粧直しをしてきなさい」
夕菜が頷き、バックステージの場所を尋ねようとしたその時、突如、漆黒の人影が彼女の前に現れた。 「僕が案内する」
藤本圭佑だった。
夕菜はきつく唇を結び、彼の後についていった。
圭佑は今日、仕立ての良いスーツに身を包んでいた。 体に吸い付くような仕立ては、彼の背中を気品と冷たさの中に、人を寄せ付けぬ孤高の気配を纏っていた。
かつて、夕菜はどんなに気分が落ち込んでいても、彼の姿、たとえ後ろ姿であっても、それを見るだけで心の奥底に安らぎと静けさが広がったものだった。
彼女もまた、彼との婚約、そして結婚の場面を、数えきれないほど夢想してきた。
今夜、彼女は婚約する。 しかし、その相手は彼ではない。
「着いた」
低く響く男の声が、夕菜の思考の糸を、ぶつりと断ち切った。
彼女は我に返り、二人がバックステージの化粧室に到着していたことに気づいた。
「ありがとうございます」
彼女は小声で礼を言い、中に入ろうと足を踏み出した。
カチャリ、 と重い音を立てて、
後ろで鍵が施錠される音が響いた。
「夕菜ちゃん」夕菜が椅子に座る間もなく、圭佑は眉間に深い皺を寄せ、彼女の手首を掴んだ。
「どうして戻ってきたんだ?」
圭佑は暗く、 複雑な色を帯びた眼差しで彼女を見つめた。「君はあの機会に逃げ出せたはずなのに、 どうして戻ってきたんだ?」
夕菜は振り返り、三年間秘密の関係を続け、幾度となく未来を誓い合ったこの男を、静かに見つめた。 「孝宗と美和に約束したからです」
「あなたみたいに、約束を破る人にはなりたくありませんから」
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