禁欲モード崩壊──彼女が黙った夜、俺は壊れた の小説カバー

禁欲モード崩壊──彼女が黙った夜、俺は壊れた

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京都の由緒正しき名家、青玉家の御曹司である青木浩司は、非の打ち所がないエリートとして知られていた。しかしその本性は、冷徹な自制心で心を凍らせた孤独な男。彼は愛想の良い振る舞いを崩さない妻、石川凪に対して苛立ちを募らせていたが、ある時を境に凪は彼への歩み寄りをやめてしまう。婚前協議の定めに従い、沈黙を貫くようになった彼女。雨が窓を叩く夜、浩司はついに抑え込んできた激情を爆発させる。ガラス越しに彼女を追い詰め、焦がれる想いを吐露する浩司に対し、凪は冷ややかに微笑み、契約書に彼の命を救う義務などないと告げるのだった。常に禁欲的で完璧だった男の理性は、凪という存在を前にして無残にも崩壊した。夜の闇よりも深い口づけを交わし、ブレーキを失った彼の愛は、やがて周囲を驚愕させるほどの執着へと変わっていく。京都の社交界で「妻を溺愛しすぎる男」として語り継がれることになる、一人の御曹司の豹変と、契約から始まる狂おしい愛の物語。

禁欲モード崩壊──彼女が黙った夜、俺は壊れた 第1章

ドアを開けた瞬間、視界に飛び込んできたのはソファの上で絡み合う二つの身体。 石川凪の思考は、そこで凍りついた。ここへ向かう道すがら、凪の胸にあったのは甘い期待だった。

二年ぶりに彼の部屋へ不意に現れ、遠距離恋愛の終わりを告げれば、林伸一はきっと狂喜するだろう――そんな想像を、ついさっきまでしていたのだ。

目の前に広がるのが、これほどまでに見るに堪えない光景だとは、夢にも思わずに。

凪は、爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。 ソファの上の二人はあまりに貪り合っていて、部屋に踏み入れた彼女の存在に気づく気配すらない。

胃の腑からせり上がる吐き気を奥歯で噛み殺し、凪は静かにスマートフォンを取り出すと、その画面をタップして録画モードに切り替えた。

二人が体勢を変え、ようやく凪の存在に気づいた女が、甲高い悲鳴を上げた。

伸一もまた驚愕に目を見開き、慌てて毛布を体に巻きつけると、女を背後にかばった。

「なんで帰ってきたんだよ!何してんだ!」

凪は赤く充血した目で彼を見据えた。 「こんな傑作、みんなにお披露目しないともったいないでしょ」

その言葉を聞いた伸一は、背後の女が裸であることさえ構わず、毛布をひったくって腰に巻き付けると、床に飛び降りて凪のスマートフォンに手を伸ばした。

「それ以上近づいたら、 一斉送信する」 凪の脅しを、

伸一はまるで信じようとせず、 さらに距離を詰める。

凪はためらうことなく、送信ボタンを押した。

伸一は愕然とした。

いつも従順で物分かりの良かったはずの女が、これほど惨い仕打ちをするとは。

「石川凪、死にてえのか!」怒りのあまり額に青筋を浮き上がらせ、その目は殺意に満ちていた。

凪はスマートフォンを掲げてみせる。 画面には、すでに「110」の数字が入力されている。 「警察にも通報したわ」

伸一は目を見開いたまま、言葉を失う。 「お前……」

身内すら切り捨てるような、凪の冷酷で容赦のない様に、伸一は彼女を指差した。 「チッ、覚えてろよ!」

凪の両目は氷のように冷え切っていた。 「二年という時間を、 ドブに捨てた気分。 いいえ、

犬にくれてやった方がマシだった」

伸一の家を後にして、凪は親友である平野奏のマンションへ向かった。

奏の部屋で過ごした五日間、奏は凪に代わって伸一を罵り続けてくれた。

ある朝、スマートフォンの画面を無感情に見つめる凪の横顔に、奏は深い憂いの色を見た。 彼女はそっと隣に寄り添い、その肩を抱いた。 「あんなクズのために、泣く価値なんてないよ」

凪は静かに首を振った。 「もう悲しくはない。 ただ、父が持ってきた縁談をどうするか、迷ってるだけ」

「はあ?」

凪の父親は娘のために縁談を見つけ、帰って話を聞くよう執拗に促していたのだ。

相手は家柄が良く、眉目秀麗、その上、一人息子だという。

凪が結婚に同意すれば、先方から七桁の結納金が支払われ、二ヶ月以内に妊娠すれば一億円のボーナス。 そして子供を産みさえすれば、その家の若奥様として、使いきれないほどの財産が手に入るという破格の条件だった。

それを聞くなり、奏は乾いた音を立てて手を叩き、鼻で笑った。 「絶対、あの継母の差し金でしょ。 そんなうまい話、自分の娘に回さないわけがないじゃない。 底なし沼に決まってる」

「何か裏を知ってるの?」

「話自体は本当。 でも、一番肝心なことを一つ隠してる」

「え?」

奏は声を潜めた。 「その男の名前は青木浩司。 確かに顔も金も、家柄も申し分ない。 かつては九条市の女たちが、こぞって彼との結婚を夢見たわ。 一夜だけでもいいからと願うほどにね」

「青木浩司……」その名は、凪の記憶のどこかを微かに掠めた。

奏は軽く鼻を鳴らす。 「九条市でその名を知らない人間はいない。

去年、彼が不治の病に侵され、余命いくばくもないと報道されたの。 もともといた恋人も、それを知って彼を捨てて海外へ逃げたそうよ」

「要するに、もうすぐ死ぬ男。 彼との結婚は、死人との結婚と同じこと」

なるほど、それは気の毒な話だ。

奏は唇を尖らせた。 「継母がいれば継父がいるって言うけど、本当ね。 あの女は、あんたを嫁がせて未亡人にしたいのよ」

「彼が死ねば、再婚できる」

奏は目を丸くした。 「本気で言ってるの?末期なんでしょ。 今頃どんな無惨な姿になってるか。 それに、こんな土壇場で花嫁を探すなんて、死ぬ前に自分の子孫を残したいだけじゃない」

「そんな男、ただの変態よ!」

凪は虚空を見つめ、静かに呟いた。 「でも、実入りはいい」

「……」

「それに彼が死ねば、財産は私が相続できる」 凪の表情からは一切の感情が抜け落ちていた。 「そうなれば、お金も自由も手に入る。 誰もが羨む生活がね」

奏は呆然と彼女を見つめた。 「あんた、ショックで頭がおかしくなったんじゃ……」

「なってないわ」 真剣な顔で凪は言った。 「考えたの。 愛なんて幽霊と同じ。 誰もが口にするけれど、誰も見たことがない。 だからもう、追いかけるのはやめた」

「それに、 私たちが必死で働くのは、 お金を稼いで経済的自由を手に入れるためでしょう? 目の前に近道があるのに、 どうして通らないの?」 奏は言葉に詰まった。

「……なんだか、納得させられちゃったんだけど」

凪は薄く笑った。 「それが現実だからよ」

その夜、

伸一は他人のスマートフォンを使い、 凪に見掛け倒しの女だと罵りの電話をかけてきた。

一度切っても、また知らない番号から着信音が鳴り響く。 凪は次々と着信を拒否したが、あまりの執拗さに、最後は電源を落とすしかなかった。

翌日、スマートフォンの電源を入れると、おびただしい数のメッセージがなだれ込んできた。

そのほとんどが伸一からで、ありとあらゆる罵詈雑言が書き連ねてある。

LINEのグループチャットも炎上していた。 一度も肌を重ねたことすらないのに、伸一は凪の胸が豊胸手術だの、見た目に反して尻軽だの、清純ぶっているだのと、根も葉もない嘘を吹聴していた。

どれもこれも、耳を疑うような唾棄すべき言葉の羅列だった。

凪は一度深く息を吸い、静かに吐き出した。 起こることには、すべて意味がある。

天が、あの男の本性を一日も早く見抜けと、あの光景を自分に見せたのだ。 そう思うことにした。

凪は父親に電話をかけ、縁談を受け入れると告げた。

父と二人で青木邸に到着すると、浩司本人の姿はなく、彼の両親が二人を出迎えた。

凪が結婚に同意したと知ると、彼らは安堵と興奮の入り混じった表情を隠そうともしなかった。

凪の要求はただ一つ、先に婚姻届を提出すること。

その理由を、まず法的な関係を確かなものにしたいからだと説明した。

結婚式は必要ない、と。

相手方に異論はなく、むしろ彼女が心変わりすることを恐れていたようだった。

双方の合意は驚くほど速やかにまとまり、青木家の当主である青木俊一は、すぐさま役所の職員を自宅に呼び寄せ、婚姻届の手続きを済ませた。

そこで凪は初めて、青木浩司の……写真を目にした。

写真の中の男は、奏が言った通り、彫刻のように端正な顔立ちをしていた。 とりわけ、その双眸は底知れない深みを湛え、見る者を引きずり込むような引力があった。

これほどの男が、もし長く生きられるのであれば、自分のような女に回ってくるはずもない。

婚姻届が、凪の手に渡された。 合成ではあるが、二人の顔写真が並んでいる。

青木家の夫人、栞菜は一枚のキャッシュカードを取り出し、凪に手渡した。 式は挙げないが、結納金の額は変わらないという。 さらに、当面の生活費として、まとまった金額も添えられた。

その気前の良さと金額の大きさに、凪はカードがずしりと物理的な重みを持つように感じた。

凪は躊躇うことなく、その重みごと、まっすぐに受け止めた。

再び婚姻届に目を落とし、凪は「青木浩司」という三文字を見つめた。 両親に「売られた」と知った時、この男は一体どんな顔をするのだろうか。

父と共に青木邸を後にする。

父の顔は満面の笑みで、 上機嫌を隠せないでいた。

「青木家から、ずいぶん良い思いをさせてもらったんでしょう」

父は一瞬怯み、気まずげに顔を歪めた。 「何を言っているんだ」

「とぼけないで」凪は立ち止まり、父をまっすぐに見据えた。 「あなたたちに何の得もなければ、私のことなど思い出しもしなかったはずよ」

父は狼狽したように口を開いた。 「凪……」

凪はすっと手を上げ、彼の取り繕うような言葉を遮った。

彼女はもう父の方を見ようとはせず、前だけを見据えて言い放った。 「これで、最後。 二度と、連絡してこないで」

凪が本当に浩司と結婚したと知った奏は、

頭を抱えて部屋を歩き回った。

だが、ここまで来てしまえば、もう後戻りはできない。

「あんたの父親、マジで鬼畜!火の車だってわかってて突き落とすなんて。 あんたも馬鹿よ、 なんでそんな簡単に籍を入れたの? もしあの男があんたに酷いことをしても、 籍さえ入れてなければ逃げられたのに。 先に籍を入れたら、 本気で殺されかけたって逃げられないじゃない!」

焦りと怒りと心配で、奏の目は赤く潤んでいた。

親友が本気で怒ってくれることに、凪の心は温かくなる。 彼女は笑って奏を安心させた。 「籍は入れたけど、彼の前に顔を出すつもりはないわ」

奏は、探るように凪を見つめた。

凪の瞳には、怜悧な光が宿っていた。 その考えはあまりに悪辣で、しかし揺るぎない事実でもあった。

「彼は来年の三月まで生きられない。 もう三ヶ月もないわ。 だからそれまで身を隠し、彼が自力で動けなくなった頃合いを見計らって、顔を出すの」

完璧なはずの計画に、しかし現実は容赦なく亀裂を入れた。

その言葉を口にしてから、数日も経たないうちに。 凪のもとを、一人の来訪者が告げた。

「青木様が、奥様にお会いしたいと仰せです」

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