
結婚式で奪われた私のウェディングドレス
章 2
藤原凛香 POV:
私は地面に膝をつき, しばらく動けなかった. 冷たい石畳が, ウェディングドレス越しに肌に食い込む. しかし, その痛みよりも, 心に開いた穴の方がずっと大きかった. 私はゆっくりと立ち上がろうとしたが, 足に力が入らず, よろめいた. 右足首に激痛が走り, バランスを崩して壁に手をついた.
足元を見ると, 白いサテンのパンプスが泥だらけになっていた. 歩きにくい上に, 足首を捻ったようだった. ドレスの裾は, 教会からここまで引きずられて, 黒い汚れが何箇所も付いていた. 私はこのドレスを, 純粋な愛と未来への希望の象徴だと思っていた. しかし, 今はその全てが汚され, 踏みにじられたように感じた.
「このドレスは, 苺のためにあるべきだったんだ」. 弘樹の声が, まだ耳に残っていた. 私のためのウェディングドレス. 私のための結婚式. 私のための人生. その全てが, 幻想だったと知った.
私が弘樹に初めて会った日, 彼は私を「一輪の椿のようだ」と褒めてくれた. その言葉は, それまでの人生で誰からも褒められたことのなかった私にとって, 初めて自分を肯定できる言葉だった. 彼だけが, 私を見ていてくれるのだと信じた. 彼だけが, 私を愛してくれるのだと. だから, どんなに彼が忙しくても, どんなに私が寂しくても, 彼のために尽くすことが私の愛の形だと信じ込んでいた. 彼が私に与えてくれたのは, 言葉だけの「愛」と, それによって縛り付けられた「自己犠牲」という名の呪いだった.
冷たい雨が, 容赦なく私のウェディングドレスを濡らした.
足首が激しく痛んだ. 私は歯を食いしばり, 一歩, また一歩と歩き出した. しかし, 教会の敷地を出る頃には, 痛みでほとんど歩けなくなっていた. パンプスを脱ぎ捨て, 裸足になった. 冷たいアスファルトが足の裏に突き刺さったが, それでも歩き続けた. 弘樹の言う通り, 私にはどこにも行く場所がなかった. 私の貯金は空っぽで, 頼れる家族もいなかった.
タクシーを捕まえようと手を挙げたが, どの車も私を素通りしていく. 汚れたウェディングドレス姿の女を乗せたくないのだろう. ようやく一台のタクシーが止まってくれたが, ドライバーは私の顔を見て嫌悪感を露わにした. 「こんな姿でどこへ行くんだ? 金は持ってるのか? 」
「カードで…」私は震える声で答えた.
ドライバーは鼻で笑った. 「お嬢ちゃん, あんたのカード, 限度額オーバーだよ」
私の脳裏に, 母の言葉が蘇った. 「あんたの貯金, 源太の車の頭金に使わせてもらったでしょ? 弘樹さんが肩代わりしてくれてた借金も, 全部返済する必要があるのよ! 」
まさか, 本当に全部使い込まれていたなんて.
私は携帯を取り出し, 銀行のアプリを開いた. 残高は, ゼロ. いや, マイナスになっていた. 弘樹が肩代わりしてくれていた借金が, 私の口座から引き落とされ, さらに源太の車の頭金までが, そこから出ていた.
私は頭を抱え, その場にへたり込んだ. 雨はますます激しくなり, 私は全身ずぶ濡れになった. 弘樹が私を支配するために, 私の家族が私を食い物にするために, 私の財産が根こそぎ奪われていたのだ.
「あんたの貯金は家族のものだ! 源太の車も, あんたのおかげで買えたんだから感謝しろ! 」母の怒鳴り声が, まだ耳の奥で響いていた.
「お姉ちゃんなんだから, 我慢しろ! 」源太の軽薄な笑い声.
私の目から, 涙がとめどなく溢れ出した. 雨と涙が混じり合い, 顔中を流れていった. 私はこの瞬間, 完全に孤独になったことを悟った.
「凛香! 」突然, 携帯が鳴った. 弘樹からの電話だった.
私は震える手で電話に出た.
「おい, どこにいるんだ. 何で勝手に式を抜け出したんだ! 」弘樹の声は, 怒りというよりも苛立ちに満ちていた.
「私…お金が…」私の声は震えた.
弘樹は鼻で笑った. 「ふん, そんなことか. お前は俺がいなければ何もできないんだからな. 今すぐ家に帰ってこい. まだ間に合う. みんながお前を待っている」
「何が間に合うって言うのよ…私のドレスを苺さんに着せて, バージンロードを歩いたくせに! 」
「それは仕方ないだろう! 苺の体調が悪くて, あんなことになったんだ. それに, お前は俺の妻なんだから, 俺の顔を立てるのが当然だろう」
「あなたは, 私のことを心配してくれてるんじゃないのね…」私の声は絶望に満ちていた.
「当たり前だ! お前がごちゃごちゃ言うから, 俺は今, 世間体を取り繕うのに必死だ! お前のおかげで, 俺の株まで下がったらどうするつもりだ! 」弘樹の声は冷酷だった.
「私, もう何も話したくない. もう終わったのよ…」
「何を言ってるんだ! お前は俺の所有物だ! 勝手な真似は許さないぞ! さっさと家に帰ってこい! お前がいなければ, 俺はまた苺のところに行かざるを得ないんだからな! 」
「あなた, 一体どうして私のカードの限度額がオーバーだって知ってるの? 」私は冷静を装って質問した.
弘樹は一瞬, 言葉に詰まった. 「それは…お前が俺の妻だからだ. 俺がお前の口座を管理しているのは当然だろう」
「私の貯金がなくなったのは, あなたが両親に私の銀行情報を漏らしたから? 」私の声は, もはや怒りを超えていた.
「ふん, 言っておくが, 俺はお前の両親や弟には一銭も援助しないぞ. あんな寄生虫どもに金をやる義理はない. 俺がお前の家族を支えていたのは, お前を俺の元に縛り付けておくためだ. お前が俺に逆らうなら, あいつらもろとも路頭に迷わせてやる」彼の声には, 嘲笑が含まれていた.
弘樹の言葉は, 私の頭の中で過去の出来事と結びついた.
数ヶ月前, 私はひどい腹痛に襲われ, 出血した. 妊娠初期だったため, 流産の危険があると医師に言われた. 私は震える声で弘樹に電話をかけたが, 彼は「苺がまた体調を崩したんだ. 今すぐに病院に連れて行かないと」と, 私の訴えを遮った.
「弘樹, 私, お腹が痛い…血が出てるの…」私の声は掠れていた.
「そんなことより, 苺が大事なんだ! お前は俺の妻なんだから, しっかりしろ! 俺は今, 苺のところにいるから, 病院には自分でいけ」弘樹はそう言って, 電話を切った.
私は一人で病院に行き, 一晩中ベッドで痛みに耐えた. 弘樹は結局, 私の元には来てくれなかった. 翌日, 電話で弘樹にそのことを話すと, 「苺が熱を出して大変だったんだ. お前は一人で病院に行けたんだろう? 苺は一人では何もできないんだからな」と怒鳴られた.
弘樹の声が, 再び電話から響いた. 「お前は本当にわがままな女だな. 苺はこんなに俺のことを心配してくれているのに…」
電話の向こうから, 苺の弱々しい声が聞こえた. 「弘樹様, 凛香さん, ごめんなさい…私のせいで…」
「苺, 大丈夫だ. お前は何も悪くない」弘樹の声は, 今まで私に向けられたことのないほど優しかった.
「凛香, いいか. 俺の言うことを聞かないと, お前はもっとひどい目に遭うことになるぞ」弘樹はそう言って, 電話を切った.
私は携帯をアスファルトに叩きつけそうになったが, 寸前で思いとどまった. これが, 彼の本性だったのか. 私の人生を狂わせた, 全ての元凶.
私は震える指で, 再び産婦人科の予約アプリを開いた. 彼らの企みを, この子に引き継がせてはいけない.
私はその夜, 全身が冷え切ったまま, 一人で雨の中に立ち尽くした.
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